第89歩: 壊したら死ね
「アルビッコひとり? おじさまは?」
戸口でファビ
「アードンさんとこのロバの様子がおかしいって言われて、見に行ってる。あのロバも年だから『不思議なものたち』とは関係ないと思うんだけどね」
受け取った封筒から顔を上げ、アルルは答えた。
「ヨゾラさんもいないのね」
「二階にあいつ用の出入り口作ったらさ、ひとりで帰れるようになったから、ひとりで出かけるって」
「そう」
今日も湖のあたりだろう、とアルルのカンが告げていた。
「アルビッコ、裏の封蝋の所なのだけど」
言われてアルルは封筒を裏返す。妙に重いと思ったら、封蝋か。
「うん?
思わず口をついて出る。何かあるなら、カケスで来そうなものなのに。誰からかとすぐ下の差出人をみて、アルルは目を疑った。
手紙なんて絶対によこさないだろう名前がそこにあった。
「アルビッコ?」
声に顔をあげると、ファビ姉の緑の瞳と目があって、アルルは不覚にもどきりとする。
「いや、なんでもないよ。意外な人からの手紙だってだけ」
「そう」
と言ってファビ姉が目を伏せた。
昔から、何かをじっと見ている時のファビ姉はきれいだとアルルは思う。もし弟だったら自慢して回りたいぐらいに。
「その差出人のひと、変わった名前なのね」
今回見ていたのはそこらしい。
「あまり見ない綴りだわ。チェンミ? チェメ?」
「シェマだよ。これで、シェマ・クァタ。クロサァリに行ってたころの、知り合いだ」
ファビ姉はまた「そう」と言った。
「意外な人からの知らせなら、きっと大事な用ね。じゃ、行くわ」
「待ってくれファビ姉。手紙届けてくれたんだ、お茶ぐらいいれるよ」
すると、隣家の長女は細くて長い眉をごく僅かにひそめて返した。
「遠慮するわ。アルビッコのお茶、濃くて苦いのだもの」
「今度は上手にやるから」
ほぼファビ姉がお茶を入れた。
手を動かしたのはアルルだったが、ファビ姉が隣で全部に口をだし、入れた。
「どう? アルビッコ」
「うまい……」
ファビ姉の口許が笑う。
「ああそうだ、手紙の封蝋がどうかしたの?」
テーブルの端に置いた二通の封筒をちらりと見てアルルが言う。ファビ姉は口をつけかけたカップを離して答えた。
「大したことじゃないわ。周りの文字が読めなかっただけ」
アルルが自分宛の封筒を引き寄せる。
「これ? 昔からの決まり文句だよ。魔法使いが言うのもなんだけど、おまじないだね」
「読んでくれる?」
請われてアルルは読み上げる。なんだか知識をひけらかしているようで、少し気まずい。
「アケイン・グアッダ・フェリシダ・ヴィラー、シ・ケブラ・モハイー」
「不思議な発音。おとぎ話の呪文みたいね」
「意味を知ったらがっかりすると思うぜ?」
ファビ姉がカップに口をつけたまま、視線で促してくる。
「封蝋を守る者に幸せ来たれ。壊したら死ね」
「そう」
ファビ姉が静かにカップを戻した。
「おとぎ話の方が良かった」
「俺は悪くない。ファビ姉の手紙は誰からだ? いい封筒使っ」「フラビーよ。良い知らせなんでしょうね」
アルルが言い終わるより早い返答。
「そ、っか。独り立ちでも決まったのかな?」
「そうかもしれないわ」
戸惑いがちの沈黙が落ちる。
沈黙は、二階から破られた。
「アウウー! ああいあ!」
いつの間にか、ヨゾラが戻っていた。とす、とす、と階段で何かを引きずり降ろす音がする。
居間の出入口ごしに見える階段に、黒猫の尻尾が覗いた。次いで尻、胴、前脚、頭。ファビ姉が「まぁ」と短く言った。
「ほっはお! へはいほ!」
とったよ、でかいぞ、か。
「見りゃわかるよ」
得意満面な黒猫の口から、見事な黒リスがぶらんぶらんしていた。
「はひえーいあっはい」
階段を後ろ向きに降りながらヨゾラが言う。
「ファビ姉いらっしゃい、だと」
ファビ姉がふふっ、と控えめに吹き出して、居間に姿をだしたヨゾラの尻に挨拶した。
「こんにちはヨゾラさん、お邪魔しているわ。すっかりこの
「へっへー。はえうわ『はあはあひほえあへん』っへ」
「それ置けよ」
黒リスが落ちる。
「へっへー。蛙は『まだまだ認めません』って言うけどね」
ヨゾラがくるりと向きを変え、へっへーから律儀に繰り返した。
「そう。突然
さらりとファビ姉がなかなか重い事を言う。
「苦労なんかしてないよ。アルルいいやつだし、ペブルさんでっかいけど優しいよ」
「……そうね。おじさまもアルビッコも優しいわ」
ファビ姉に言われるとアルルは面映ゆい。
ひとつ微笑んでファビ姉がお茶を飲み干し「ごちそうさま」と席を立った。
ファビ姉を戸口で見送っても、アルルは扉を閉めなかった。
「それ、喰うなら外でな。掃除したばかりなんだ」
「へーい。アルルも食べる? 頭の中身、プルプルしてておいしいんだぜ?」
黒猫は得意げに獲物を咥えあげ、外にでる。
「火が通ってない肉なんておっかなくて喰えないよ」
そういって、アルルは扉を閉めた。
「ほっほ! アウウー!」
「菜園に回ってもどってこーい」
「やはひふあーい!」
出入り口ちゃんと作っただろ。
ファビ姉の使ったカップを汲み置きの水で軽くゆすぎ、居間に戻ってテーブルの手紙を取った。
冷めた残りのお茶をすすりながら、差出人の名前をもう一度見る。何度見ても書いてあることは変わらない。
シェマ・クァタ。
中部の産まれと聞いていたけれど、いつから
最後に会ったのは、クロサァリ学院を出る前日だ。
いい思い出じゃない。
最後に言われた言葉もどうしようもなく覚えている。宵闇の、リンキネシュへと続く橋のたもとだった。蜂蜜色の瞳を怒りに見開き、アルルのカケス銅貨を地面に叩きつけて、彼女はこう怒鳴ったのだ。
──きみの顔なんて、もう二度と見たくない!
「壊したら死ね、か。誰だよこれ考えたの」
ひとりごちて、アルルは封蝋をぺりりと剥がした。
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