第50歩: 血の交換
失敗したよな、とアルルはぼんやり思った。
何もかも、妙にゆっくりに見えた。
銃弾のイメージは上手くいった。自分の体で覚えた感覚だ、上手くいくに決まっている。ヤミヌシの眉間を打ち抜いたのも見えた。だが、勢いづいたその巨体は止まらない。
そりゃそうだ。猪の眉間に針を通したって、すぐに止まるわけないもんな。
魔法に体力を奪われ、膝から力が抜けていく。
売り上げ、持って帰れないな。親父に怒られちまうな。
ヨゾラを巻き添えにしちまった。あの変な黒猫、怒るかな。
ジャアアアアア!
ほら、怒ってる。
猫の鳴き声ヘタなくせに、怒った声は上手いのか。
そう思うとおかしかった。
白く汚れた闇色の塊が横倒しで──
ジャアアアアアアアアアアア!!
止まっている。
壁にぶつかったようなのとは違う。ぴたりと宙に静止している。ヤミヌシの身体から尋常でない量の魔力が放出されていた。それこそ、ヤミヌシの巨体を放り投げられそうな量の魔力。
膝元で獣の咆哮を上げるヨゾラの瞳が、紅く輝いていた。
その輝きが消える。
ヤミヌシの巨体が、ずん、と地におちる。
ヨゾラの小さな身体が、こてん、と横向きに倒れる。
「……あたし、いま何か、すごいことやった?」
横たわりながら緑の瞳で見上げて、ヨゾラが得意げにそう言った。
「──やった。とんでもないことやった」
「へへへ。二つ、わかったことがあるよ」
アルルはヨゾラを両手で抱き上げる。
「魔法をつかうと、しょっぱいもの、欲しくなるね」
コートの塩袋を手で探る。
袋の底の、ごく小さな欠片を口に放り込んでやった。自分の口にも放りこんだ。
「しょっぱい……」
「そりゃ、塩だからな」
塩ばかり舐めて、そろそろ水が欲しかった。
「あと、もう、一つ」
「なんだ?」
杖を拾って、アルルはよろよろと立ち上がる。
「魔法って、疲、れる、ね……」
ヨゾラの緑の瞳が、ゆっくりと閉じた。少しヒヤっとしたが、黒猫の胸が規則正しく膨らむのがわかって青年は安堵する。
「そうだ。疲れるよ、魔法って」
森を走り回り、飛び回り、アルルもくたくただ。いつの間にか陽は山に隠れていた。
「ア、アルルさん!」
ヤミヌシの身体の向こうから、ウーウィーの声が聞こえてきた。
「アルルさん! ぶ、無事ですか!?」
「無事だよ!」
ヨゾラを抱えたまま、その巨体を回り込んでいく。広場の様子が見えて、倒れたままのユニオーとヤミモリが見えた。
「アルルさん!」
ウーウィーが駆け寄ってくる。アルルはどんな顔をしていいのかわからなかった。
「ウーウィー、ごめん」
ウーウィーも言葉を失う。
「で、で、でも。僕は、僕にも、と、止められなくて。ア、アルルさんの、せいじゃ……」
お互いがどう言って良いか困っているところに、警邏の笛が鳴る。
びびっ、びびっ、びぃ
役所の屋上からも笛が返り、大砲の砲身が退がっていった。ヤミヌシの身体がゆっくりと夕闇へと溶けていく。ヤミヌシは土ではなく闇に還るのかもしれない。
終わったか、とアルルは思う。とにかく、終わらせられたか。
アルルはユニオーとヤミモリをみた。とろりとした粘液にまみれて、どちらもぴくりとも──いや、片方がぴくりと動いた。
「ヤミモリが」
アルルは思わず声に出した。
ウーウィーがヤミモリに駆け出す。アルルもその後に続いたが、足取りは重かった。
「生きてる……」
力なく、尾が、まだ生きている事を主張していた。弾は扁平な楕円の胴の上から撃ち込まれたようだった。傷口からはヤミヌシと同じ白い血がまだ流れ続けていた。
致命傷に見えた。
生きてはいるが、もう長くは持たないだろうとアルルは思う。
「僕、た、助けます」
しかしウーウィーは言って、ポケットからごく小さなナイフを出し、鞘から抜いた。鉛筆なんかを削るのに使う、片刃のナイフ。
「たぶん、僕には、この子なんです」
ああ、とアルルは思った。
出会ったんだな、ウーウィー。
急に、この少年が羨ましくなった。
ウーウィーがなんどか深呼吸して、静かに言葉を紡ぐ。古めかしい、言葉を用いる魔法。
波打つものの光
血と肉と骨、織りあわせ──
遠くに馬の足音が聞こえてきた。一団が森から戻ってきたのかもしれない。
──綾の間に間に糸を掛けよう
其は我なり其は君なり
其は君なり其は我なり
それは最も古くからある魔法のひとつ。そしてフィジコには縁遠い魔法。
ウーウィーがヤミモリの傷口に口をつけ、その白い血を啜る。さすがに顔をしかめていた。ついで、左手の人差し指にナイフの刃を当て、おっかなびっくり引いた。
ふつふつと血がにじむ。
お社の入口には野次馬ができていた。その人だかりを警邏たちが抑えていた。その合間を縫って、警邏長と、ドゥトーが顔をだした。ドゥトーは、ユニオーの小屋に同行した警邏に支えられている。
その三人に手を振ろうとして、アルルは彼らに緊張が走るのを見た。
直後、
「動くな」
後頭部に硬く冷たいものがぶつかった。
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