第78歩: フビッカは食いしん坊だから
「あいつのことだし、ちょっと道草して遅くなってるのかもしれないぜ」
アルルは努めて明るく声をかけた。
木の形が面白いと言っては横道に逸れ、リスがいたと言っては足をとめる幼なじみだ。十分にあり得る話だと思う。
父も使い魔と寝室から出てきた。
「エルクの坊主がどうしたって?」
「今日カヌスから戻るはずが、まだ帰ってきてないって」
聞いてペブルも「はん」と考えこむ。
朝に出れば昼には着く距離だ。道も平坦な一本道で、目立って危険のある道でもない。子どものころから行き来して、なじみの深い場所でもある。
だから、フーヴィアの気がかりはよくわかった。
「どんなに寄り道したって、カヌスからこんなに遅くなれないよ」
目を伏せ、傍目にもわかるほど強く、フーヴィアの丸まっちい指がランプの把手を握りしめている。そこへ、ペブルがゆっくりと声をかけた。
「フビッカちゃんよ。エルクの坊主もあれで一人前の大人なんだし、まぁそう心配しなさんな。アル坊に送って行かせるからエカん所に戻んな。グーちゃんの世話もあるだろう? 村長さんや地主さんにはもう相談したのか?」
フーヴィアが下唇を噛んでうつむいたまま、頷いた。
「しました。でも、もう日も暮れてるし、ペブルさんがいうのと同じで、エルクも子どもじゃないから、朝を待てって……」
顔を上げ、眉根を寄せて、怒ったような顔をするフーヴィアを、アルルは何度も見たことがある。
泣き出す前の顔だ。怖がりで泣き虫の
エルクとフラビーとで遊びに行くのを追っかけてくる、四歳下のチビすけ。あの嵐の夜も、こんな顔をしていた。
「俺、見てくるよ」
あの時は子どもで、何もできなかった。今だって、良い手は思いつかない。
だからといって、何もしないわけにはいかない。
小さなころから見慣れた森でも、夜はその姿を変える。
肩掛け鞄の位置を直して、アルルは魔力視を開いた。そこかしこに見える、魔力の塊。
「昼間よりいっぱいいるね」
足下から声がした。魔力の碧い
ララカウァラ南の森入り口。
「お前、家で寝ててもよかったんだぞ?」
「暗いところは──」
なぜか間があいた。
「──ふぁ。得意なんだぜ?」
あくびだった。眠いんじゃないか。
「トウマツ喰うか? 目さめるぞ」
「やーなこった」
親父みたいな言い方をする。
右手にさげた魔力燈で森を照らすと、白い光にさっと散る魔力の塊があった。「穴の目」だとか「カゲビト」だとか、光の苦手な連中だろう。
フクロウが鳴いている。
「……アルル、やっぱり鞄にいれて」
「暗いの得意なんだろ? 怖いのか?」
「狩られる」
切実だった。
エルクの名を呼びながら森を照らして歩き、反対側の
光を止め、アルルは大きく息をついた。
カヌスからはだらだらと一本道。しかし、エルクが道から外れていれば探す先はどこまでも広い。それに、道沿いにいるぐらいなら帰れただろうと思う。
何かあったのかもしれない。たとえば自分が、エレスク・ルーへの道沿いでわけもなく撃たれたみたいに。
怖い、と思う。たとえば昔、仕事で遠出した父の帰りが遅くなった時。ファビ姉がエカおばさんとケンカして、しばらく帰らなかった時。フーヴィアが木イチゴ摘みで迷子になった時。嵐の夜に、イォッテのおじさんが父と慌ただしく出かけて行った時。
たいていは、ひょっこり帰ってきたり、西の小川で泣いている所を見つけられたりしたけれど。
イォッテのおじさんは帰ってこなかった。
頭を振った。
悪い想像をしたからって、エルクが見つかるわけじゃない。家で親父がカケス呼びを仕掛けている。夜が明ければ、
相手がどこにいようと手紙を届ける魔法。
フーヴィアをおばさんの家に送り届けて、唐突に思い出したのだ。
大泣きする幼いフーヴィアと、フーヴィアにどうにか取り付こうとする、青光りする大きな鳥。そしてその鳥を追い払おうと凄い剣幕のおばさん。
子どもの頃、カケスを使う練習をした日の事だ。
お
冴えない思い出だけれど、あの時つくったカケス銅貨はまだ取ってある。
だから走って家まで戻り、父にカケス呼びを頼んで出てきた。
人は空飛ぶカケスを追えない。あの時もすぐ見失った。
しかし、今のアルルには「翼」がある。
「ヨゾラ、戻ろう」
声をかけたが返事がない。肩掛け鞄を開けたら、塩袋と水袋に乗ってくぅくぅと眠っていた。
お前何しに来たんだ。
魔力燈の明かりを頼りに、来た道を戻る。
野犬や狼の類はこの辺りにもたまに出る。ものの類でヒトに悪さをするようなのは……「
人をどこかに誘い込んでしまうあの金色のイタチ。ここ百年ほどで数件、千年惑いに連れてこられた人の記録が残っている。
知らずに家に連れてきた事が一度あって、その時はホップが即座に巨大化し喰った。親父はものすごく残念がっていたが、あれは蛙が正しかったと思う。
エルクが千年惑いに行き遭った可能性はあるだろうか。
だとすれば、もう会うことはない……。
アルルは再び頭を振った。
あの一件で、金色のイタチにはついていくなという話は村じゅうに伝えられた。そもそも、森で変なものを見つけてもついていくな、というのは半ば常識だ。エルクは物好きだが、危ないものにわざわざ近寄りはしない。
どとっ!
突然の物音に驚いて明かりを向けると、逃げる二頭の鹿が見えた。
──フビッカは食いしん坊だから、
フーヴィアの十五歳の誕生日、つまり成人する日の前日に、エルクがそう言って狩りに誘ってきたことがある。
──フビッカは食いしん坊だから、祝いの席にでっかい鹿とか、とにかく食いでのあるモンあったらぜったい喜ぶだろ。おれがぜったい仕留めるからアルルは運ぶの手伝ってくれ。いーか、仕留めるのはおれだかんな──
銃声。
あの寄り道しがちな男は、年頃の娘を見ればすぐに目移りしていたあいつは、倒れた獲物から目を外さずに言った。
──おれ、フビッカと結婚する。いつか必ずする。
──うまいモン、たくさん食わせんだ。
なに言い出すんだ、とは思わなかった。アルルにも予感があった。
祝いの席にならんだ鹿を嬉しそうにもりもり食べるフーヴィアと、なぜか神妙にその様子を見るエルクのおかげで、鹿の味は全然おぼえていない。
どこでなにやってやがる。
村にもどり、エルクとフーヴィアの家ものぞいてみたが、誰もいなかった。灯りがついているのは唯一の酒屋ぐらいで、そこにも尋ね人はいなかった。
「なんだぁ珍しい、ペブルビクじゃねえか?」「酒屋だぞ? 茶でも飲みにきたのかビッコ!」と騒ぐ親父連中に人捜しの事は伝えたが「まぁそのうち帰ってくるだろうからお前も飲んでけ」というのが酔っ払いの意見だった。
飲めないのを知ってるくせに。
エカおばさんの家にも立ち寄り、明日の朝一番で
「ちょっとごめんね、アル
ブラウスのボタンを外しているのは背中ごしにもわかって、アルルはつと視線を上に逸らす。
「ごめんね。お願いね。グーの、グッカのお父さんをきっと見つけて帰ってきてね」
娘に乳をやりながら振り向いたフーヴィアの瞳が、シッリ油のランプに照り返って揺れていた。
明日はまず湖へ行き、そこからカケスを追う手筈。父とその使い魔とで手順を確認し、床に就く。
怪我をしているなら、朝まで頑張ってくれ。
やり過ぎな寄り道だったら、フーヴィアに怒られろ。
万一、他の女の所に転がり込んでたりしたら一発ぶん殴る。いや、二発ぶん殴る。うん、三発にしよう。
あんまりフーに心配かけるなよな。
逸る気持ちを抑えて、アルルは無理やり眠った。
明日は長い距離を飛ぶかもしれない。体力が必要だ。
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