カケスと淑女
第76歩: アルビッコ
ヨゾラはまず歓声をあげた。
そのあとは主に悲鳴だった。
「死ぬかと思った……」
朝露に湿る岸辺に四つ足をついての第一声。
「ごめん、調子に、のりすぎた」
魔法使いによる息も切れぎれの謝罪。
朝日に輝く湖はとても綺麗だった。そのあと、アルルのコートに収まって空から見下ろした湖も。寒かったけれど、
「つかまってろよ」と言われてからは大変だった。
まず、急降下。水面を掠めて急上昇。また落ちながら旋回。宙返り。急な方向転換、急停止急加速。
目が回って、コートの襟ぐりから飛び出してしまった。湖面に落ちる前に拾われはしたものの、落下しながら「死ぬかも」と思った。
だいたい、「つかまれ」と言われてもどうやって。
「この前はもっと上手だったのに、なんで今日はあんなへったくそなのさ?」
それぞれの足で地面をしきりに確認する。地に足がつくのはやっぱり良い。
「下手なんじゃなくて、いろんな飛び方の練習なんだ。だから落ちてもいいように湖でやってる」
顔の汗を拭いながらアルルが言った。
アルルも最初はよく落ちていたんだという。中には飛んでいる途中で、空飛ぶ毛布みたいのとぶつかった事もあるらしい。
「たぶん、なにかものだったと思うんだけどさ。落ち方が悪くて死にかけた」
湖からアルルの家は林を抜けてすぐ。菜園にペブルとホップが出てきていて「黒山羊ばあさまみたいにゃいかねぇなぁ」と主の方がぼやいていた。
使い魔ともいちおう挨拶は交わした。今朝の蛙はヒキガエルぐらいの大きさだ。
朝ごはんには黒パン一切れにジャムをちょびっと。ジャムだけ舐めたらとても甘くて爽やかに酸っぱくて、森のいい香りがした。
「これの材料、トウマツの新芽だぜ」
「うっそだぁ!」
「食事中に大きな声を出すものではありません!」
「どっちもうるせぇよ。ヨゾラちゃん、こいつぁ松葉糖ってんだ」
松葉糖。船に乗る前に聞いた名前だ。お茶にも
あれっぽっちでは全然足りないので、アルルがお社の掃除をしている間に
お社は数年前に祭司のおばあさんが亡くなって、今はペブルが祭司の代わりをやっているという。
それなら、アルルは
明るくなったころにパラパラと人がやってきては、お参りして帰っていく。胸を三本指で撫でおろすのが、ここでの、ネズ様のお社でのやり方なんだそうだ。
魔法使いのペブルに相談がある人も、祭司代行のペブルに相談がある人も、だいたいここで話をしていくんだとアルルが言う。
ただの雑談、病気の相談、収穫祭の段取り、最近あった奇妙な事、そんな話を聞いてはペブルが答える。大抵は魔法を使うようなことではなく、食べ物に気をつけろとか、酒をひかえろとか、囁き猫だから心配いらないとか、三角形の物を戸口に吊せとか、そんなことを答えていた。
今朝やってきたのはたとえば、箱屋のラディコさん、端っこの家のアードンさん、鍛冶屋のセッパさん、粉屋のアルルさん。
「アルルがもう一人?」
「アルルってそんなに珍しい名前じゃないよ」
「でも、わかんなくならない?」
「粉屋さんの方は『粉屋さん』とか『水車さん』って呼んでる。俺は『
「へぇぇ」
箱屋とか粉屋と言ってもお店を持っているわけではなく、頼めば箱を作ってくれたり、落ち穂を粉にしてくれたり、ということらしい。そういう意味での文具屋さんもいたけれど、こちらは本当にお店をやると言ってお腹の大きな奥さんと引っ越したそうだ。
だから今は、わざわざカヌスまで行かないと紙も鉛筆も手に入らないのだという。
お昼はアルルが作った。麦を炒って茹でて塩粥にした。
あんなポリポリした粒がどろどろだ。ゆでるってすごいな。
「食ったら、おばさんとこ顔出してくるよ」
「おう。ついでに草取りでも手伝ってやんな」
そう親子で話していた。
昨日、フーヴィアと別れた道をたどる。
枝の上で「
走っていない森走しは、森走しなんだろうか。
道はすぐに終わって、板壁の家が見えた。隣に建つ、家よりも大きな小屋からは豚や鶏の鳴き声が聞こえてくる。
窓にかかるレース編みのカーテンの向こう、いくつかの人影の一人が「おっ!」とアルルに気づいて手を振った。
「アルビッコー!!」
男の子かと一瞬思った。
勢いよく扉を開けたのは、うなじが出るほど短い赤毛の人。
「フラビー久し振、痛い。いたい」
言葉の途中で、アルルはその女の人に抱きすくめられ、背中をバシバシ叩かれている。
フラビー。お姉ちゃんその二か。
「ビッコ、背のびたんじゃないの?」
「会うたびにそれ言うのやめろ。あとビッコって呼ぶのもやめろ」
「あはははは、ビッコー! ずっとすれ違いだったねぇ、一年ぶり? で、あの子が噂の子かな? お! わたしらと同じ目の色してる」
アルルに押し剥がされながら、フラビーの瞳がヨゾラをとらえた。
「わたしはフラビー。あんたも喋るんでしょ?
ささっとスカートの裾をさばいてしゃがみこんでくる。
「ん、ヨゾラだよ」
勢いに押され、ととっと数歩下がって答えた。ヒトは大きいので、急に迫られれば怖い。
フラビーは少しの間なにも言わず、唐突に
「……かーわーいーぃ!」
と絶叫した。とんでもなく元気なヒトだった。その絶叫に逞しい声がかぶった。
「フラぁ! いつまで外でくっちゃべってんだい!? アルビッコちゃんが入れなくて困ってんだろ!?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます