開花その9 魔獣再び 前編
朝、目覚めて最初に思ったのは、母上には内緒にして……、という切実な願いだった。
この下半身に張り付く下着の、冷たく不快な感触は、久しぶりである。
続いて、ここは谷の館ではなく、遥かなる旅の空であったという思いに安堵と後悔が同時に押し寄せた。
迂闊にも私は、妙齢の女性の家臣を二人も得て、安堵感から浮かれていたのだろう。自分がまだ五歳のひよっこであることを、神は見逃さなかった。
ここは精霊たちの世界で、私の知る神はいないのかもしれない。だが確実に神罰は存在することを、身をもって知った朝である。
同じベッドで死んだように寝ているフランシスを放置し、とりあえず着替えだけを先に済ませる。
ついでにフランシスの下半身に水を少しかけてやれば、この罠は完成だ。
しかし今日の私は、そんな悪戯をする元気もなかった。
「姫様、早いお目覚めですね」
プリスカは一流の冒険者なので、少しの気配でも敏感に察知する。
私が涙ぐんで立ち尽くしている理由も、理解したようだ。
プリスカに手招きされて私は近寄ると、両手で強く抱きしめられた。
「今日は長い移動になります。もう少しお休みください」
そう言って、私を抱いたまま自分のベッドへ引き入れて、添い寝をしてくれた。
私は泣きながら、また眠ったようだ。
目覚めると、フランシスはプリスカから話を聞いていたのか、何も言わずに私の全身を拭き、髪を整え、朝食の席へ連れて行った。
プリスカが、食堂の席で待っている。
目が合うと、優しい笑顔が浮かんだ。
私は幸せ者だ。
「姫様、我のことも忘れないでくだされ」
ルーナの声が頭の中で心地よく響く。
「だったら、ああいうのも精霊の力で防いでよ」
「ふむ。無理に防ぐと膀胱が破裂して、大惨事を招きますが……」
「そういうリアルな話は、朝食の後にしてね……」
「それでは、静かに歩を進めましょう」
これから先は、身を潜めて進む旅である。努めて穏やかに始めたい。
この言葉を肝に銘じて、三人の新たな旅が始まった。
最初くらいは平穏無事でありたい。という諦めの境地ではない。
このまま穏やかに旅を終えたい、という私の儚い希望が込められている。
谷の領地を出てひと月半。王都までの旅程は短く、ある意味順調だった。
途中、何度か騒ぎを起こした私としては、これ以上目立つ行為は望まない。
特にこの二度目の旅の序盤は王都にも近く、噂が広がるのも早いだろう。だからこそ、最初は穏やかに、なのである。
どう考えても、粗相をして泣いたばかりの五歳児が、いい大人の女二人を相手にして偉そうに話す内容ではないのは判っている。
だが、そんなことを気にしていると、この小さな体では生きていけないのだ。
厚顔無恥を貫いて、まるで何事もなかったように胸を張って宿を出て、私は新しい道を行く。
この世界では、今の王国が百年以上前に大陸を統一して以来、大きな戦乱がない。
古代魔獣ウーリのような存在は各地に伝説として残り、強力な魔物の住む迷宮も点在するが、人々の住む土地への侵出は人間の力でどうにか抑えている。
私の生まれた男爵領や、プリスカのような冒険者の存在意義が、そこにある。
その意味では、ここは私が前世で知っていた、ヨーロッパの中世をモデルにしたファンタジー世界そのままだ。
王国は、広大な森林と田畑の中に点在する大小の町村が、それなりに穏やかな暮らしを謳歌する、よい時代の只中にある。
百五十年前に活躍した賢者様は今の王国と敵対する国家に所属していたが、それでも、今に至る彼の功績は大きい。
当時はまだあちこちで跋扈していた大型の魔獣を討伐し、彼の考案した多くの新しい魔法や魔道具が、後の人々の暮らしに大きな変革をもたらしたことは、疑いようがない。
それ故に、今でも賢者エドウィン・ハーラーの名は市井の人々の記憶に残され、畏敬の対象となっている。
だから、私のごとき未熟者が賢者様などと呼ばれるのは、たいへんおこがましい。
これからは女三人の旅ではあるが、優秀な魔法使いと腕の立つ冒険者に守られて、私に不安はない。
私たち三人は、教会の用意した地味な服と偽名を使って旅を始めたが、特に変装まではしていなかった。
別に表立って手配書が回っている凶悪犯ではないので、一般市民の気付くところではないだろう。
ただ、王宮と教会は国内に強固な網を張っているだろうから、逆に考えれば、これ以上安全な旅はない。
多少は身分も変えて、私は商家の娘となり、フランシスは私の面倒を見る使用人で、プリスカは雇われた護衛。ほぼそのままの役割に近く工夫はないが、破綻しにくい設定だった。
惜しいのは、王都まで世話になった侍女のミラとも、もう少し一緒に旅をしたかったな、と思うことだ。だが普通の娘であるミラを、これ以上巻き込むことはできない。
女三人、淡々とした旅路が続く。
賢者様の巾着袋のお陰で、貧乏男爵家の旅よりは、多少はよい宿に泊まり、美味しいものを食べることもできる。
しかし乗合馬車の運行に左右される旅なので、私のように体力のない子供には、辛い部分も多い。
そしてついに、王都で世話になった魔術師協会会長の、ケーヒル伯爵領へ入った。
だからと言って、特に変わったことは何もない。のどかな田園地帯が続くのみだ。
人の多い領都へは寄らずに、ケーヒル伯爵領を進む。
このまま南下すると、やがて西へ転進して山路を辿るか、そのまま更に南へ向かい、海沿いに船で西へ向かうか、この二つの選択を迫られることになる。
ここまでの穏やかな旅路を思うと、どちらも安全とは言えない道のりとなろう。
いずれにせよその前に、王宮と教会の監視の目から逃れ、新たな名と姿で旅を始める準備をしておかねばならない。
陰に潜む監視の目を眩ますのは、ルーナが精霊たちを使って陽動を行う手筈になっている。
私たちは新たな名と変装により、姿を変えるタイミングを考えながら、進む。
どこかそれなりに大きな街で、祭りのような喧騒があれば一番望ましい。
もしくは、人の少ない深い森の中で、その足跡を散り散りに消してしまうか。
「どこかに、変化の魔法が得意な精霊がいるらしいんだよねぇ」
私は宿の部屋で寝間着に着替えながら、ため息をつく。
「「えっ?」」
フランシスとプリスカが、同時に私の顔を見る。
「どうしたの?」
続いて互いに顔を見合わせている二人に、私が無邪気な声を投げかけた。
フランシスが困ったように、口を開く。
「姫様の守護精霊は、月の精霊ルーナ様ですよね。月というのは、毎夜少しずつその姿を変えるもの。だから月の精霊の得意魔法こそ、変化の魔法だと言われていますが?」
「……」
「ご存じなかったですか?」
「……」
黙っていてもルーナが何も言わないので、私は心の中で声を荒げる。
「ルーナ、これはどういうこと!?」
「あははっ!」
またこれか。精霊の気まぐれには、本当に手を焼く。
「本当なの?」
「まあ、嘘じゃないかな」
「じゃ、手伝ってよ」
「仕方ないな。姫様の見た目をちょっと変えるだけですよ」
「ちょっと?」
「うん。今は、ほんのちょっとしかできないの」
「それは嘘じゃない?」
「本当だから、言い出しにくかったんです!」
何故か、ルーナの口調が軽く明るい。嘘は言っていないのだろう。
「へへっ、こっちにも色々事情があるのです」
ルーナの言うちょっとだけ、はどの程度か知らんが、無いよりはマシだろう。事情云々の言い訳は、いつものことだし。
数日後、ケーヒル伯爵領の田園地帯を無事に抜け、領地境の険しい峠を越えると、明るい谷間の道が続いた。
川沿いに点々と現れる集落を過ぎると、広い盆地へと出る。
ここが、この辺りでは一番大きな街であり、このまま川沿いに南へ下る街道と、山中を東西に繋ぐ、馬車も通らぬ細々とした旧街道の分岐点となる。
ここで私たちは三人が三方向へ分かれて進み、追っ手を撒いてから合流する手はずになっている。
「プリスカを一人にするというのは、彼女を信じているからだよ」
フランシスにはそう言ったものの、人間を端から信じていないルーナは、黙っていてもきっと他の精霊に見張らせるだろう。
私は水晶を砕いて覚醒して以降は魔力感知能力が高いので、人の少ない山中に入れば監視の気配はだいたいわかる。
目当てにしていた盆地の街ラフマの夏祭りは、五日後に始まることになっていた。
計算通りの行程で到着して、時間には多少の余裕がある。
それまでここでゆっくり休み、散会と合流の準備をすることになった……
フランシスは髪を切り、男装することで一人旅が不自然に見えないようにする。無駄に胸や尻が大きいので、腹にも服の下に詰め物をして変な太った男になったけど。
プリスカは東へ行く商人の護衛に雇われて、祭りの喧騒に紛れて街を出てしまう。
そして私は……
私は、ルーナの変化の魔法で目立たぬ茶色い髪の男児に姿を変え、祭りで賑わう一軒の宿屋の前でカモが現れるのを待っていた。
そこは、貧乏人が泊まれるような安宿ではない。うちの男爵家が相手にされないくらいには、高級そうな宿だった。
「丁度よさそうなのが来ました」
ルーナが、そのカモを見つけたらしい。
「あの、身なりのいい商人?」
「そう。あれは一人じゃありません。連れは後から来ます」
街の精霊が男の素性を調べて、ルーナに報告しているのだろう。
私はその男の後について、宿屋に入る。
そして男が受付で二人部屋に決めるのを見て、さもその連れのように斜め後ろの死角に控えたまま、そっと男の服の裾に手を添えていた。
そうして気付かれぬように男の後を追って二階へ上がり、男の部屋を確かめると、そのまま素通りして一度姿を消した。
その夜から祭りの前夜祭が始まり、街は年に一度の喧騒に包まれる。
私たち三人は祭りの前に街を出ると言って元の宿屋を引き払い、三人三様に賑わい溢れる街の中へと散っていた。
次に三人が出会うのは、十日後になる。
私はその後も幾度か旅の商人の死角から周囲へアピールをして印象付けて、最終的には二人組の商人が街を出て西の街道を行く馬車に乗り合わせて、一緒に街を出た。
ちなみに、それまでは街に新旧二つある教会の古い方の屋根裏部屋へ、精霊たちによって匿ってもらっていた。
次の宿場はまだそれなりの賑わいで、それに乗じて私は宿場の教会の片隅に隠れて、姿を完全に消した。
そこから先は、精霊と共に深い森の中を移動した。
私は本気を出したルーナの力を借りて身体強化の魔法を少しだけ使い、人間の気配の全くない深い森で過ごした。
普通の貴族のお嬢様には無理だろうが、前世の記憶を持つ私は、山での単独行に慣れている。文明社会でのそんな経験が役に立つとは、皮肉なものだ。
しかも、賢者様の巾着袋には、食料や便利な魔道具、それに貴重な魔術書なども詰め込まれている。
私は、そこから冷たい果実水と焼きたての暖かなベリーパイを取り出して、食事にする。
腹が満ちると柔らかな獣の敷き皮を広げて、私はすぐに眠りに落ちた。
別れた二人の情報も、精霊たちによりルーナの元に集まる。
二人とも、順調に追っ手を撒いて、私のいる西の街道へ向かっている。
きっと、予定通りに合流地点へ到達するだろう。
丁度今夜が、街の夏祭りの最終日になる。
祭りが終わっても数日は周辺の宿場町の往来は多いが、私たちが集まるのはその残り香も消えたころになる。
後編へ続く
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