開花その35 南へ 前編
今日辿り着いた初めての街。春の暖かな日差し。私の心は踊る。
宿で五人と一旦別れ、私は一人で街へ出て、大通りをのんびりと歩いている。
しかしなぜか、私を見る人々の視線が異常な好奇心に満ちていた。
目立たぬようにと苦労して、町娘風の身なりを整えたというのに。
道を通り過ぎる人ばかりか、通りの両側に並ぶ店の中からも、視線が集まっているようだ。特に人目に付くような姿はしていないはずだ。
おかしなクマの着ぐるみで歩いているわけでもないのに。
そう思ってふと後ろを見ると、クマに似た生き物が悠然と後ろを歩いていた。
「どうしておまえが勝手に外に出ているのだ、パンダ?」
「いや、千年ぶりの大きな街ですから、気になって……」
「ふざけるな!」
そもそも千年前には片端から人を呑み込んでいた凶悪な魔獣が、こんな風に気楽に人里へ出られたのか?
そんな筈がない。
人々の好奇に満ちた視線は、生まれ変わって小さくなった、白黒のゆるキャラに集まっている。
「おい、ここでいきなり消えるなよ。そこの路地へ入って、一度人目を避けよう」
私はパンダを伴い、狭く薄暗い路地を左へ折れた。
そこは雑貨屋と八百屋の間の通路で、奥の軒先には細い竹がたくさん立て掛けられていて、店の奥で誰かが籠を編んでいる気配がする。
その手前で立ち止まり、パンダに集まっていた好奇の視線が消えたのを肌で感じる。更に魔力の感知能力を広げて、周囲に異常のないことを確認した。
「よしいいぞ。早く消えろ」
「え、いいんですか?」
「何がだ」
「こんな街中で俺がいなくなれば、姫様は大恥をかきますよ」
「そんなわけあるかっ!」
「だって、表通りに出た姫様を見たら、みんなが言いますよ。あの娘はノーパンダって。いいんですか?」
「くっ、下らない。下らないのに下品な駄洒落とは……」
はぁ、この化け物の相手は非常に疲れる。
「いいから、黙って影の中から街を眺めていろ!」
私の足元の影に消えるパンダが、今日はピンクか……と呟くのを聞いて、私は地面に残ったその顔を思い切り蹴り飛ばした。
軽い手応えというか足応えと共に小さな悲鳴が上がったので、多少は溜飲を下げた。
宿で汚れた旅装を解いて、幾らか娘らしい服装になって出直したのが裏目に出た。スカートを履いた時には、エロパンダが私の影から出入りするのを禁じなければ。
そうして私はやっと一人になり、何食わぬ顔で路地から表通りへ出た。
「いやちょっと待て。今あいつ、日本語で駄洒落を言ってなかったか?」
それとも私は、思った以上に緊張し、疲れているのだろうか。
これ以上深く考えるのは止めよう。
私は髪や目の色はそのままに、二十歳の前世の姿を真似ている。
元々日本人女性としては目立たぬ体格であったが、鍛え上げた筋肉質の体は細く、しなやかだ。
この国の人間は私の両親も含めて西洋人に近い人種が多いので、今の私の外見は大体十五六の少女に見えるらしい。
どうせならもう少し大人びた姿に化ければよいのだが、例えばプリスカなども似たようにスレンダーなアスリート体型なので、まあいいかと思っている。
偽造した身分では、私は二十歳の商家の娘、ということになっている。まさか六歳の幼女が化けているとは、誰も思うまい。
ここは、まだ谷からそう遠くない街だ。王宮直轄領の豊かな田園地帯の北側、日本で言えば、春から初夏になろうかという季節である。
ただ、島国の日本と違ってここは大陸の奥地だ。季節は大きく分けて夏と冬があり、それぞれに、雨季と乾季がある。
夏も冬もその入口に雨や雪が多く降り、その後に乾いた晴天が続く。
今は短い春から夏の入口で、夏の雨季を前にした一番いい季節なのだ。
そんな時なので、私は一人浮かれて街を歩いていた。
旅立つにあたり、山育ちのエルフ三人組は、海が見たいと言った。
同じく山育ちの私も、この世界の海を見たことがない。
それはフランシスもプリスカも、同じであった。
これから私たちは南へ向かい、海沿いの町を訪ねる予定だ。
ところで、私のような田舎育ちの山好きがそのまま成人して異世界へ来たので大した混乱もなかったが、引きこもりのニートが突然異世界へ転生した場合には、相当の衝撃だろうと今更ながらに思う。
だって、ゲームもスマホもPCもない世界へ突然放り込まれたら、普通の人間でもパニックになるだろう。
それに、中世ヨーロッパ風の異世界は現代日本とは違って不潔で、魔物以外にも嫌な虫や病気が蔓延し、食事も口に合わず栄養も不足しがちで、常に不快な異臭に満ちている。
人の命の重さは思った以上に軽く、衛生観念は低い、というか、無いに等しい。
潔癖症の人間なら、目覚めた途端にギャッと叫んで即死レベルだ。
いやこれは、私が野蛮で鈍感で良かったね、という話じゃないぞ。
私の場合は五歳のアリソンが持つ知識と経験によるガードがあったから、すんなりと溶け込めたのだ。
私が田舎で掘られたばかりの芋であり、特別な野蛮人であったかのように思うのは、ちょっと違うんだよ。いや違いますのよ、何しろお貴族様ですから、ホホホ。
アリソン・ウッドゲートは、読書好きのインテリジェンス溢れる五歳児であった。
しかし突然、脳筋アウトドア志向だった前世の記憶が蘇り、今はこうして先の見えない旅の空にある。
一見正反対に見える二人の共通点は意外に多かったようで、一人の人間として破綻することなく、どうにか暮らしている。
本好きのアリソンの知識欲は強く、目の前に未知の高い山があれば登りたいという渇望がある。
それは山で一度死んだ私の望む田舎のスローライフとは対極にあるようで、そうでもない。
どんな人生にもきっと、目の前に越えるべき山がある。
山高きが故に
樹あるを
人は見かけで判断してはいけないという意味だ。
本来の意味とは少々違うが、そこにどんな樹木が生育していようとも、山は山だ。
樹木のまるでない岩場を好んで登っていた私が言うのもなんだが、今生では立派な樹木の茂る山のような人生を送りたいものだと思う。
五歳まで純真な娘であったアリソンの、まっすぐな瞳を濁すことばかりしていたこの一年だが、それだけが前世の私の役割ではなかろう。
五歳で魔力に目覚めると同時に、私は前世の記憶を取り戻した。
それまでのアリソンは体が弱く、滅多に外へ出ず読書に耽っていたのも、それが一番の理由だった。
しかし貴重な星片の水晶を爆砕したあの日から一転して、徐々に心も体も強くなった。
それにはきっと、魔力というものが大きく関係している。
今でも、例えばフランシスの魔手から逃がれる方便として、体調が悪いだのなんだの言ってサボることはある。
しかし、以前のように本当に具合が悪くて寝込むようなことはなくなった。
溢れんばかりの魔力とルアンナの加護が、物理的な危険から私を守ってくれる。
恐らくフランシスやプリスカが過剰に元気なのも、人並外れたその魔力や武力のせいなのだろう。
その点、エルフ三人娘はその内に大きな魔力を秘めながらも心は穏やかで、常に落ち着いて見える。
その域に達するには、やはり百年近く生きないとだめなのだろうか?
フランシスなどは、このまま百年経っても大して変わっていないような気もするけれど。
そんなことをぼんやり考えながら、春の街を歩く。
前方からは、食べ物が焼ける香ばしい香りが何種類か混じって漂ってくる。
横浜の中華街を歩く修学旅行生のように、私は匂いに吸い寄せられた。
思えばこうして一人で人間の街を歩くのは、初めてのような気がする。
以前は幼児の姿で、一人の時には人目に付かぬようにしていた。
だから気楽に店を覗いたり、買い食いをしたりということはなかった。
店先や屋台で売られている食べ物は、生の果実かその場で焼いたものが多い。
油で揚げる料理は一般的ではなく、煮物は器が限られる。
甘い菓子などは庶民の口に入る物ではなく、砂糖自体が貴重品だ。
だから、串に刺して焼いた肉や野菜が一般的だった。
そう。ファンタジー世界では有名なあの、肉串という奴である。
田舎町の肉串は固いし獣臭いし、私のような貧乏貴族の娘でさえ口に合わない食べ物だった。香辛料やバーベキューソースなんてものは、ないからね。
しかし、ここのように大きな街なら、もっとましな料理に巡り合えるかもしれない。
実際に、香草のような複雑な香りが混じっているではないか。
進むにつれて道幅が広がり、道の中央に並木の植えられた歩道も整備されていた。
未知の左右に並んだ店先と、歩道に点在する屋台には人々が群がり、思い思いに食べ物を買い求めて、歩きながら食べている。
串揚げやおでん、土手焼きのようなものは無かったが、スパイシーな香りの焼き鳥と、柏餅のように木の葉で包んだ芋団子のようなものが、人気だった。
私もその二つを買って、齧りながら人波に紛れて歩いた。
特別な祭りでもないようで、この辺りは普通に毎日こんな賑わいなのだろう。
よく見れば、子供の喜びそうな素朴な玩具や、安物の髪飾りなどを売る屋台も散見される。
「姫様、気を付けて。前を歩く若い男は、スリだよ」
ルアンナの忠告で前を見ると、ふらふら人に当たりながら歩く地味な服装の痩せた若い男がいた。
面白そうなので、そのまま距離を保ったまま観察する。
なかなか器用な男で、見る見るうちに財布や小銭を抜き取り、肩から下げた薄い布のカバンに無造作に放り込んでいる。
「あの鞄は、収納の魔道具だね」
確かに盗み取ったものをあそこへ入れてしまえば、簡単にはバレないだろう。
それに、そんな貴重で高価な魔道具を使い、僅かな小銭を掠め取るようなことをする意味が分からない。
よく見ていると、身なりの良い人を選んで小銭入れを狙っているようで、腕に自信のある分、大騒ぎにならない程度に数を稼ぐ仕事に徹している。
この世界で大金と言えば金貨で、日常的にこんな場所で金貨を持ち歩くような者は少ない。
地元の商店街で買い物をするのに、分厚い札束を持ち歩くようなものだから。
その意味では、この場所は彼の格好の稼ぎ場所なのだろう。
ただ、この世界のスリは手先の技術というよりも、複数の魔法を組み合わせた応用によるものだろう。まあ、それも努力の方向性が誤っているだけで、中々たいした技術だ。
私は自分に被害のないよう、彼の持つ魔力の特徴を記憶し、これ以上近寄らないように歩みを止めた。
後編へ続く
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