新緑が囁く
坊っちゃんが重たくため息をついていらっしゃる。
とても肩身の狭い思いで、きゅっと身を縮めた。
坊っちゃんのお部屋は一人部屋で、整頓の行き届いたそこは、今日も掃除するところがなかった。
主人が腰を下ろすベッドも、ピンとシーツの張られたもので、直す箇所もない。
坊っちゃんのお世話をしたいのに、お世話する隙がないとは、これ如何に。
「……実技クラスが同じ以上、何処かで鉢合わせると思ってはいたが、……そうか」
「その、申し訳ございません、坊っちゃん……」
「いや、僕の采配ミスだ」
顎に手を添えた坊っちゃんが、短く嘆息される。
僕自身がだいぶん参ってしまったけれど、結局ノエル様の件は報告することにした。
ただ、内容が内容だけに、伏せるべき点も勿論出てくる。
ノエル様と一番接点の多い坊っちゃんと、ヒルトンさんへの報告書には、大部分をお伝えした。
他の方には、オブラート80枚包みくらいで伝えよう。
特にお嬢さまのお耳には入れたくないので、あっさりと「嫌われちゃってるようです~」程度で済ませようと思う。
そして坊っちゃんがご指摘されたが、ノエル様も実技クラスがAクラスなんだ。
……うん、攻略キャラだもんね。
……ゲーム中のノエル様、あんな人だったかなあ?
「坊っちゃんはご配慮くださいました。そんな、不備なんて……」
「入寮時にも言ったが、この閉鎖された空間で警戒するべきは、隣人だ。指摘していながらそれを怠った、僕の認識不足だ」
「坊っちゃん、ご自身に厳し過ぎませんか?」
「僕には目的がある。それのためなら、多少自身を律することくらい、訳ない」
「そ、そうですか……」
しれっと言いのける、坊っちゃんの克己心に感服する。
うちの坊っちゃんが大変ストイックです。
僕もその精神を見習いたいと思います!
ところで、坊っちゃんの目的って何だろう?
「……しかし、厄介だな」
「僕のことでしたら、お気になさらずに。一日に一度、お菓子を選べば良いだけですので」
「それだけならいいんだが……」
思案気な坊っちゃんの様子に、首を傾げる。
黄橙色の目がこちらを向いた。涼しい目許が緩く瞬く。
「リズリットを例に挙げる。あいつの僕やお前に対する執心を禁止した場合、どうなると思う?」
唐突な問い掛けに虚をつかれる。
最近は落ち着いているリズリット様の抱き着き癖だが、彼が入学してから一年間と、僕が入学した一年間は、それはそれは激しかった。
それこそ、コード邸に居候し始めた頃のリズリット様に戻られたかのような、情緒の不安定さだった。
今はにこにこと温和に微笑まれている、リズリット様の行動を制限する。
……彼、中々衝動的なタイプだもんな。
……こわい。荒れそう。
学園一の問題児の伝説が、更に増えてしまいそう……。
青褪めながら、首を横に振った。
「同列に扱うことは不本意だが、ノエルからの接触を規制したとしても、手段はいくつでも作り出すことが出来る。より悪質にならないためにも、適度に流して本質を見極められれば良いんだが……」
「一日に一度、お菓子を選びます」
何だろう、こわい……。
今はまだ謎のお菓子で済んでるけど、更なる進化を遂げてしまうということかな……?
それは困る……。
ヒルトンさんには報告書を出したし、多分ハイネさんが動くと思う。
アーリアさんの方でも、調査が行われるだろう。
僕は坊っちゃんやお嬢さま方へご迷惑をおかけしないよう、現状の維持に努めよう。
徐に視線を逸らせた坊っちゃんが、何事か口篭る。
脚を組み直した彼が、静かに唇を開いた。
「……あと、日頃のノエルの様子を見ていると、僕が領地へ来たばかりの頃を思い出すんだ」
「えっ、な、どういうことでしょうか!?」
淡々とした声音が零した言葉に、さっと青褪める。
慌てふためく僕を見上げ、膝の上で頬杖をついた坊っちゃんが、呆れた面持ちでため息をつかれた。
「僕も感覚だけで物を言っている。説明など困難だ」
「そうですか……ですけど、似ているところとは、何処でしょうか?」
少なくとも、僕は坊っちゃんに首を絞められたことはない。
思い出した事柄に、どんより落ち込んだ。
長考する坊っちゃんが視線を俯ける。
一点を見詰めていた彼が、諦めたように視点を上げた。
吐息に混じらせるように声を紡ぐ。
「性質的なものだ。……根本的な解決にはならんが、少し整理しておく」
「ご無理なさらなくて、大丈夫ですからね?」
「平気だ。今はお前がいる」
しれっと告げられた簡素な言葉に、体温が急上昇する。
ぼ、坊っちゃんがデレてくれた……!
坊っちゃんに頼っていただけてる!
わ、わあああああっ!!
「今日の良き日を心に刻むよう、日記に記させていただきます……!!」
「明日の日記は、腕の良い医者の診断結果だ。覚悟していろ」
音がしそうなほどこちらを睨みつけられた坊っちゃんが、僕を部屋から追い出す。
わ、わあーん! ごめんなさい坊っちゃん、だって嬉しかったんですもん……!!
「僕の世話は仕舞いだ。さっさとリヒト殿下のところへ行け!」
「あ、あんまりです、坊っちゃん! 確かに喜び方は過剰になりましたが、全て本心です!!」
「うるさい! 早く行け!!」
「わあああんっ、坊っちゃああああん」
廊下へ押し出され、背後で扉が派手に閉められる。
本気ですか!? そんなっあんまりです、あんまりです坊っちゃん!
せめておやすみの挨拶くらいさせてください!!
明日のお弁当のおかずだって、まだお伺いしてなかったのにー!
めそめそしながら、リヒト殿下のお部屋に向かう。
両手で顔を覆ってぐすぐすする僕を出迎えた彼がぎょっとし、お弁当のおかずはリヒトくんセレクションになった。
殿下がものすごくお世話させてくれたので、僕の元気は回復した。
殿下、甘やかし上手ですね。
*
初めて立ち入った五階の談話室は、シノワズリで統一されていた。
浅縹色の壁紙には黒縁の額がいくつか飾られ、金縁の鏡を囲むように取り付けられている。
透かし建具で区切られた室内には、形の異なるテーブルが三台置かれていた。
そのひとつのお世話となり、濃紺の座面に、蓮の花を形作った背凭れの椅子に座る。
藍と白で描かれた茶器を手に取り、にこりと穏やかな笑みを心掛けた。
「一年のノエル・ワトソン様、ですか?」
「はい。わたくしの弟がお世話になっているようで、恥ずかしながら、まだお顔を合わせたことがありませんの」
対面に座るお姉さまが、考え込むように口許に手を当たられる。
リサ・ノルヴァお姉さまは、とても頼りになる先輩だ。
初めて出来た女の子のお友達で、色々なお話をご存知だ。
こうしてご相談させていただくこともしばしばあり、その度に「お姉さんに、どーんと任せなさい!」と言ってくれるので、胸の中があたたかくなる。
わたくしは彼女のことがだいすきだ。
視線をそわそわと左右に揺らせたお姉さまが、窺うように顔を上げる。
他のテーブルでは透かし建具が壁となり、様相のわからないご令嬢等が花咲く談義で盛り上がっていた。
淑やかな笑い声が絶えない。
「そうですね……明るいお話は、今のところ少ないですね」
「そうなのですか?」
「といっても、一年生が入学してまだ一ヶ月も経っていませんし、これからですよ!」
ぱっ! とお日さまのような笑顔で励まされ、胸の内が少しだけ軽くなる。
けれども、『明るくない話』の方が目立つとは、どういう状況なのだろうか?
アルの口振りが気になったので、アーリアにばかり任せないで、わたくしも調べてみようと思った。
ベルが関わっているんだ。あの子は学園内で、立場が弱い。
無理を要求されても、断れない環境下にいる。
わたくしのベルが害されようとしているというのに、黙って見ているなんて出来なかった。
ただ、わたくしもわたくしで、迂闊な行動を取ることが出来ない。
わたくしとアルバートにはコードの名がかかっており、人目を引く爵位であるばかりに、慎重にならざるを得ない。
つくづく面倒だと思ってしまう。
可能なら本人に直接、「ベルに関わるのはよしてください」と言ってのけたのに。
「……ただ、その……」
言いにくそうに視線を辺りへ這わせたお姉さまが、身を乗り出して小声で囁く。
密やかなそれに、前のめりになって耳を傾けた。
建具の向こうで楽しげな笑い声と、茶器の触れ合う音がする。
「ノエル様のお菓子、二択で選ばされるそうなんですけど、ランダムですっごく不味いやつがあるそうなんです」
「ま、不味い、ですか……?」
「不味かったり辛かったり色々ありますが、とにかくそれを口に入れると、保健室のお世話になってしまうらしいです!」
「そ、そんなに重傷を負いますの!?」
「負います」
こくり、神妙なお顔でお姉さまが頷かれる。
わたくしの背筋を冷や汗が流れた。
ベルが、わたくしのベルが、何かよくわからないものを摂取して、保健室へ運ばれてしまう……!
ど、どうしましょう!
ベルがお腹を壊してしまうわ……!!
「アーリア! このことをベルに伝えられないかしら……!?」
「現在の時刻ですと、寮の入り口に鍵がかかっております」
「そ、そう……。なら、明日わたくしから伝えるわ……」
「畏まりました」
いつでも後ろに控えてくれるアーリアの冷静な言葉に、くっと唇を噛む。
わたくしがベルのお腹を守らないと……!
おろおろと忙しなくするわたくしを微笑ましそうに見詰め、お姉さまが表情を緩ませた。
しかし、はたと何かに気付かれたご様子で、唐突にぶんぶんと首を横へ振られる。
不思議な一連の動作に、首を傾げた。
「お姉さま?」
「あああっいえ! 何でもありません~」
明るい笑顔で両手を上げたお姉さまが、「宿題残っていたの、忘れていたんです~」と照れ笑いした。
そ、それはいけません!
教官によっては、厳罰されてしまいますわ……!
慌てるわたくしが解散を伝え、お姉さまが申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。
「ミュゼたん、ありがとー! 今度埋め合わせするからね! 何かあれば、いつでもお姉さんに相談してね!!」
「頼りにしております、お姉さま」
「美少女スマイル、いただきましたぁあ!!!!」
力強く拳を作ったお姉さまが天井へ向けて突き上げ、勇ましいお声を出される。
透かし建具の向こうにいたご令嬢等がちらちらとこちらへ顔を向けており、ちょっとばかり恥ずかしくなった。
お姉さまは時々弾けた言動を取られるので、少しびっくりする。
彼女の侍女は諦め切ったのか、表情を変えることなくてきぱきと片付けを行っていた。
……そういう不思議な点も、お姉さまの魅力のひとつだと思う。うん。
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