05

 ※残酷描写注意



「ベル!!」


 ベルナルドに突き飛ばされた勢いで、転んだ僕の前に、リヒト殿下が到着する。

 先程まで確かにそこにあったはずの階段は、ベルナルドを飲み込んだと同時に、幕を下ろすようにただの床へと変質した。


 階段のあった箇所にリヒト殿下が屈み、繋ぎ目を求めるように指先をさ迷わせる。

 切れ目どころか傷ひとつない白い床に、彼が握った拳を叩きつけた。


 展開された幾何学模様が、こちらへの被害を顧みずに放たれる。

 網膜を焼く白光を、咄嗟に腕を掲げて防ぎ、きつく瞼を閉じた。

 間近の破壊音に、生命の危機を覚える。


「……くそっ」


 いつにない悪態をついたリヒト殿下が、口惜しげに立ち上がる。


 ……僕だって今すぐ立ち上がりたい。

 閃光弾を食らったような心地だ。視界がついてこない。


「殿下! 照明弾にしては派手過ぎ……待て、ベルは何処だ!?」

「ギルベルト。ベルナルドが僕を庇って階段に落ちた。階下へ下りる許可をくれ」

「はあ!?」


 回復待ちの視力に代わり、聴覚が鋭敏に仕事する。

 新たに駆け寄ってきたのは、クラウスだろう。

 ノエルも一緒なのか、嗚咽が聞こえる。


 石の小鳥が僕の頭に乗ったらしい。

 ぴい! 鳴き声の直後に、慌てたギルベルトの声がする。


『はあ!? おい、冗談だろ!?』

「現状でこんな悪質な冗談を言える余裕があると思うか? お前の家の郵便受けに、一文字ずつ怪文書を届けるぞ」

『やめろ……。お前が怒っていることは十二分にわかった……』


 ようやく視力が回復してきたのか、瞼を開いた向こうが朧気に像を結ぶ。

 徐々に鮮明になるそれに、ようやく現状を把握出来た。


「今この場に、リヒト殿下、クラウス、ノエルがいる。階段は、ベルナルドを取り込んだ瞬間に消えた」

『怪奇現象かよ……。すぐにエンドウを呼べ。時間がない』

「アルバート。ぼく、階段を探してくる」

「リヒト殿下の単独行動の許可を、無効にさせてくれ」

『リヒトお前ッ! 落ち着けってお前!!』

「ギルうるさい!」


 ぴいぴい羽ばたく小鳥が、リヒト殿下の頭に移動する。

 弾む小柄に、殿下が苛立ったような顔をした。

 払おうと振るわれる手を、小鳥は的確に避けている。


 彼等が口論している間に、エンドウへ召集の連絡を入れる。

 ……何とかして階段を見つけなければ。


 クラウスが辺りの敵を薙ぎ払っている足許で、蹲っていたノエルが顔を上げた。


「……んぱい、はんせいしつ、あけたら、あえる?」


 覚束ない声だった。

 騒ぐリヒト殿下とギルベルトの声に掻き消されてしまうような、不安定な声量。


 空へ伸ばされたノエルの手が、何かを掴む仕草をした。

 捻る動作が、ざわりとした空気を引き連れる。


 そこには何もない、だだっ広い白い床と暗闇の天井しかなかったはずなのに、徐々に隙間を作る空間が、扉の形を作った。

 じわじわと姿を現した真っ暗な下り階段に、思わず呼吸を忘れてしまう。


 唖然とする僕たちを置いて、ふらふらと立ち上がったノエルが、階段を降りようと空間の切れ目に手を添えた。

 我に返って、彼の首根っこを掴んで引き寄せる。ノエルが暴れた。


「うあぁあッ! せんぱいせんぱい!! せんぱい!」

「どういうこと……? 階段って、作れるの……?」

「ギルベルト! ノエルが階段を見つけた! 許可をくれ!」

『まだ誰も降りるなよ!? 降りてないよな!?』


 ノエルは力が強い。

 羽交い絞めにしようとするも、僕の体力では確保出来ない。


 僕の代わりにクラウスが彼を押さえた。

 手薄になった攻撃を、リヒト殿下が受け持つ。


 彼の頭に乗っていた小鳥が、もそりと金髪に埋もれた。


『……あー、見えたわ。今攻撃してるの、リヒトだろ。……いや、お前ら離れ過ぎじゃないか? 何処まで大冒険してるんだよ。ちゃんと帰ってこいよ? え、不安だわ。時計あるよな?』

「無駄口が多い。さっさと指示を寄越せ」

『お前っ、知らないかも知れないけど、俺だって必死なんだからな!

 いいか、よく聞け! 階段を下りるのがクラウス。リヒトはそのままばんばん攻撃しろ。目立つ! エンドウが見つけやすい! アルバート、お前はそこからベルナルドとクラウスに通信を送れ。

 ノエルとははぐれるな。二回とも、お前とノエルがいたときに階段を見つけている! わかったなら返事!』


 ぴいっ!! 鳴き声と共に短い翼を広げた小鳥に、リヒト殿下が苦渋の顔をする。

 クラウスが険しい表情で頷いた。


 ノエルは恐らく話が聞こえていない。

 彼は僕とともにいた頃から、状態が危うくなっていた。


「わかった」

『エンドウが合流したら、すぐに連絡しろ! 時間がない。クラウス、頼んだぞ! お前一番頑丈そうだ!!』

「ギル。次会ったら、ほっぺ引き伸ばしの刑にするからな」


 苦く笑ったクラウスが、僕へノエルを寄越した。

 皮肉なことだが、彼が恐慌状態だからこそ、更なる深層への階段を見つけることが出来たのだろう。


 ノエルやリヒト殿下が平常から外れているからこそ、僕はまだ取り繕えるのかも知れない。

 そうでなければ、焦燥に焼き切られて、どうにかなっていたかも知れない。


 震える手を固く握る。

 ……喪失は恐ろしい。本当は、叫んで探し回りたい。


「頼んだ」

「おう。ぱっと見つけてくるわ」


 無理に浮かべたいつもの笑みで、クラウスが階段を下る。

 ノエルが開いた扉だからか、今度は消えることなく、忌避したくなる暗闇は残っていた。




 *


「カレンさん、ベルくんまだかなー?」


 無邪気な仕草で、リズリットが踵を浮かせる。

 喉を動かしたミュゼットが、しかし一旦言いよどむように唇を閉ざした。

 言葉を選び、再度口を開く。


「……そうね、リズリットくん。おつかいが長引いているのよ」

「どこまでいっちゃったの? またおしろ?」

「ふふ、ひみつ」

「えー? どこー?」


 頬を膨らませたリズリットが、退屈そうに纏めた髪に指を絡ませる。


 ミュゼットは彼の均衡に合わせ、彼女の母親の言葉をなぞらえていた。

 ……お母様なら、何と答えるかしら。

 彼女が懸命に取り持つ微笑の下で、記憶を探る。


「ねえねえ、カレンさん。ベルくんかえってくる?」

「ええ、勿論帰ってくるわ」

「ぜったい?」

「ええ。……絶対」


 語尾の震えた返答に、リズリットが不思議そうに瞬く。

 ミュゼットと目を合わせるために膝をついたリズリットは、心配そうに小首を傾げていた。


「カレンさん、どうしたの? おなかいたいの?」

「いいえ、いいえっ。ベルもアルもみんなみんな、無事に帰ってくるわ。だから大丈夫。絶対、絶対よ」

「うん。なかないで、カレンさん」


 はち切れんばかりの不安に苛まれ、ミュゼットの伏せた睫毛が零す大粒の涙を、リズリットが指先で拭う。


 歪な応酬から顔を背けたノイスが、締め切られた扉へ目を向けた。

 がたがた音を立てるそれに、彼女がリズリットを呼ぶ。


「リズリット」

「はい、ニーナさん。またうるさいのきたの?」


 ぱっと立ち上がったリズリットが、ノイスをクラウスの母親の名で呼ぶ。

 表情に苦痛を混ぜた女教官が、退行している彼の頭を撫でた。

 背丈は明らかに、リズリットの方が高い。


「……すまない、リズリット」

「ニーナさん、どうしてあやまるの?」

「……きみには、あれが、何に見える?」


 ノイスが指差した上方向。

 彼女は決して上を見ないその指示に、素直に従ったリズリットが天井を見上げた。

 ぼんやりとした仕草で、彼がそのままその場でくるりと回る。


「うんっとねー。くちのなか。にんげんの、うわあごみたい。ほら、しわくちゃで、あかくてあおいでしょう?」

「……そうか、すまない。すまなかった……ッ」

「このおへやも、きたないよね。なんかね、かわいたよごれが、いーっぱいついてる。

 そことか、てのかたち。それにね、どくどくしてる。かべがたまに、ぴくってはねてる」

「もういい、リズリット! 私が悪かった!」

「あのドアも、ないぞうみたい。メイドのこがたらしてた、……ちょう? しわしわしてる」

「リズリット!!」


 両肩を掴まれ、揺すられたリズリットが、はたと瞬く。

 ノイスの顔を見下ろした彼が、焦点の合った目で不思議そうに首を倒した。


「ノイス教官、どうしたの?」

「――ッ、すまない、すまない!」

「どうしたの教官!? ええ!? 王女様……だ、大丈夫!? 具合悪いの!? ミュゼットちゃん、どうしよ……ミュゼットちゃん!?」


 謝罪を繰り返すノイスが項垂れ、現実を突きつけられたエリーゼとミュゼットが顔面を蒼白にさせる。


 ノイスを含めた成人は、このホールに足を踏み入れた瞬間から、皆一様に具合の悪そうな顔をしていた。

 フェリクスは、当時から現在にかけて、見えなかったものが見えてしまったのだろう。彼は暫し呆然としていた。


 ……知りたくなかった。

 エリーゼが汚れなど微塵も見当たらない、灰色の壁面を一望する。


 ――そうか、あの壁の蔦模様は、血管が浮かんでいるのか。


 建物の外周と合わない内部構造。

 ならば私たちは、その不可思議現象の腹の中にいるのね。

 エリーゼが内心で皮肉った。

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