04

 ※残酷描写注意



 はじめは家の廊下だと思った。

 でも違った。

 廊下がずっと真っ直ぐに伸びている。

 俺の家は、こんなに広くない。


 それに窓から見える外の景色が、延々雨の景色で気持ち悪い。

 途切れた風景を杜撰に繋いだだけの、ループにすらなっていない雨模様。

 雨音がざあざあうるさくて、気がついたら耳を塞いでいた。


 本当なら廊下の突き当たりに反省室があって、遠目からでも重たい南京錠が見えるはずだ。

 反射的に確認した廊下の奥は、まだずっと廊下が続いていて、反省室が見えないことにほっと安心した。

 徐に前を向く。


『反省室』


 呼吸の仕方がわからなくなった。


 どくりと心臓が嫌な音を立てて、忙しなく動悸を訴える。

 同時に背中を突き飛ばされた。


 咄嗟に振り返ると、顔に火傷を負った母親が、憤怒の形相で俺を突き飛ばしていた。

 喉の奥が引きつる。悲鳴すら上げられない。

 がたがた、身体が強張る。


 震えて動けない俺の後ろから、コードくんが母親を殴った。

 めしゃり、ロッドが食い込む音を立てる。

 吹き飛んだ母親の、目と耳と鼻から血が出ていた。


 駆け寄ろうとした俺の腕を掴んで、コードくんがびくびく痙攣する肢体を越えて駆け出す。

 コードくんは何かを叫んでいたけど、雨音がうるさくて聞こえない。


 ――あの日は寒かった。

 家に入れてもらえなくて、頭から爪先までずぶ濡れで、窓から漏れる光はあたたかそうで、雨なのか涙なのか、わからないくらいびしょびしょだった。

 厩に潜り込んで、身を縮めてがたがた震えたんだっけ。


「ノエル様っ、……風邪引きますよ?」


 ここは何処だっけ?

 ベッドがふたつあって、古臭いテーブルがひとつある。

 卓上に丁寧な文字のメモと、水の入ったボトルと、伏せられたグラスがふたつ置いてあった。

 白くて薄いカーテンが、光に透けて眩しい。


 身を縮めていた俺の身体に、柔らかな布がかけられた。

 驚いたような声をした先輩は、すぐに呆れた声をして、ブランケットをかけてくれた。


 部屋の中は明るくて、先輩もごそごそ音を立てていて、ちっとも寝られる環境でなくて。

 それでも身体がしんどくて、目を閉じていたんだった。

 先輩と話をしたくなかった。


 俺は、『お話聞いて、はいよしよし』って、してもらったこと、あったっけ?


 それなのにブランケットはあたたかくて、先輩はいいにおいをさせていて、涙が止まらなくて、嗚咽が聞こえないように必死で。

 そういえばコードくんと先輩って、いつも同じにおいをさせてる。

 そのにおいがする。

 しゅって音がしていた。


「ノエル!! 気をしっかり持て!」


 掴まれた胸倉ががくんと揺すられ、顔色の悪いコードくんが視界に映る。

 はっと辺りを見回せば、廊下に隙間なく扉が敷き詰められていた。


 ――反省室。並んだ扉が同じ顔をしている。


「せん、ぱいっ、せんぱい、せんぱいっ」


 どうして先輩を呼んだのか、わからない。

 ただへたり込んだ俺は、泣きじゃくりながら先輩を呼んでいて、コードくんは焦ったように俺の名前を繰り返していた。


 窓がないのに雨音がうるさくて、自分の声も聞こえにくい。


「おいふざけるな! 泣くならあとにしろ!!」

「せんぱっ、せんぱいっ、うわぁっ、せんぱいっ」


 コードくんが反省室のひとつにぶつかった。

 何かに突き飛ばされた。

 がちゃがちゃ、扉が軋んだ音を立てている。


 ――駄目だ。開いたら、コードくんが中に落ちちゃう。

 反省室に入れられたら、いつも長く出してもらえない。


 コードくんの手を引っ張って、無我夢中で走り出した。

 廊下はずっと伸びていて、両脇の反省室は延々続いている。

 時々扉がうっすらと開いていた。

 中を見たくなくて、転びそうなほど震えた脚を動かす。


「ノエル! 深部へ行くな!!」


 焦燥に駆られた声で、コードくんが腕を引っ張る。

 そのまま数度気持ち悪そうに咳き込んだ。


 裏返った声が嘔吐を予感させ、それでも殺意のこもった目で、辺りにかまいたちを走らせている。

 扉がずたずたに切り裂かれた。


「……階段が見える」


 コードくんの強張った声が、雨音の中、微かに聞こえる。

 彼が凝視する方へ顔を向けた。

 ……反省室が開いていた。


「ギルベルト、階段を見つけた。……ギルベルト?」


 南京錠もかんぬきも外れて、外開きの扉がゆっくりと開いていた。

 風もないのに、どんどん開いていく。


 悲鳴を上げた。雨が降っていて、自分の声が聞こえない。


 突き飛ばされて、開けてもらえなくて、ずっとひとりぼっちで寒くて、先輩の毛布はあたたかくて、せんぱい、せんぱいを探さなきゃ!


「おい、ノエル!?」

『悪い、アルバート! どうした!?』

「ああくそっ、階段を見つけた! ノエルとは今し方はぐれた!」

『はあ!? いいか、絶対に階段には近付くなよ。ノエルとすぐ合流しろ! 情報班を呼べ!』

「……下り階段だ。瞬きごとにこちらへ近付いている。距離を取っても、陽炎のようにそこにある。……はは、すまないな。面倒をかける」




 *


 白いシャツがじっとりと吸い込んだ赤色が、黒いベストにまで染みを作っていた。

 リヒト殿下が、恐る恐る包帯の縁に触れる。

 のろのろとシャツの釦を留めながら、彼の動作を見送った。


「……ベル、この怪我、……ぼくのせい?」

「ちがいます」

「でもっ」

「殿下と、対峙して作った傷は、頬の、ものだけです」


 怪しかった呂律が、無事機能するまで回復出来た。

 さすがはお嬢さまの治癒術。安全の防護壁の中。


 ……お嬢さまは、お身体ご負担ではないだろうか?

 お嬢さまと坊っちゃんは大丈夫だろうか?


 息をついて、続きを口にする。

 もたつく指先が、最後の釦を留めた。


「ほかに、あなたを正気に戻す方法を、思いつけませんでした。……申し訳ございません」

「……ッ」


 青褪めさせたお顔を力なく左右に振り、リヒト殿下が項垂れる。


 お嬢さまの壁の中にいる間は、脇腹の怪我も、痛みが和らぐように感じられた。

 けれども慣れない術の行使や、疲労が蓄積しているのか、身体がぐったりしている。

 今も予備の武器を収める箱に寄りかかり、もたもたとネクタイを巻いていた。


 さすがのクラウス様もお疲れが祟っているのか、一緒に壁の中で休んでいる。

 彼が救急用品の入った箱を閉じた。


「ベル、これは応急処置だ。止血も充分じゃない。わかってるよな?」

「はい。ありがとうございます」

「……いっそ残していけたらいいんだがな。敵に囲まれると、厄介だからな……」


 一所に停留すると、敵に捕捉される。

 集結した敵は、お嬢さまの防護壁を破壊することが出来る。

 既にひとつ、防護壁が失われている。

 ……そこにいたであろう、生徒達は無事だろうか?


 クラウス様の苦渋のお顔を無視して、鈍重な動作でショルダーホルスターを装着する。

 失ったナイフを機械的に補填させ、装備を整えた。


「一時間、切ったところです。残り30分、何とかして乗り切りましょう」


 ヒルトンさんからもらった懐中時計を握り締め、挫けそうな内情を取り持つ。


 あの衝撃の中、壊れなかったことが、何よりの救いだった。

 深く息をついたクラウス様が、僕の頭をわしわし撫でる。

 いつもよりぎこちないけれど、彼が笑みを浮かべた。


「よし! アルバートんとこに報告に行こうぜ。殿下、どうしますか?」

「……エンドウと連絡を取るよ」

「さいっすか。じゃあ途中まで同道っすね」


 ぱしっと膝を叩いたクラウス様が立ち上がる。

 壁に張り付くマネキン人形を、彼の氷柱が貫いた。


 ……体感だけど、防護壁内で休んだ時間に対して、当初より寄ってくる敵が増えているように思う。


 立ち上がろうと身体に力を入れて、ぎしりと引きつれた傷口に、うっかり震えた。

 痛い。びっくりするくらい痛い。

 慌てたリヒト殿下に肩を支えられ、よろよろと立ち上がる。


 う、うわあ、僕この状況知ってる……!


「介護!!」

「ベル、今絶対アドレナリンすごいことになってるでしょ。クラウス、おんぶしてあげて」

「はちゃめちゃに戦いにくいっすわ」

「ぼくがせめてベルより5センチ高かったら、わざわざお願いしなくても自分で抱えたのに……」

「僕、地に足をつけたいタイプなんで、意地でも自力で歩きます」

「堅実だなあー」


 いつものように軽口を叩き合い、気持ちを軽くする。

 強張っていた表情を緩めたリヒト殿下が、僕の腕を引いた。


「……ベル、ペンダント、持っててね」

「チェーンを壊してしまったことで、なくしやすさ増し増しなんですけど……」

「そのときはそのときで構わないよ」

「待って……? 王家の持ちものを故意に破損した……? クラウス様! 審議をお願いします!!」

「よーし! まずは脚を動かせ。話はそれからだ!」

「うわああああんっ、これ確実に極刑ルート決まったよー!! おじょうさまの花嫁姿を見るまでは死ねないのにー!」

「うん、生きて?」


 再度鋭い氷塊を壁の向こうへ振り落とし、クラウス様が先陣を切る。

 リヒト殿下に腕を引かれるまま、外へと飛び出した。


 この戦いを乗り越えても、僕、重罪に処されるのかも知れない……。

 背筋の凍る罪状に涙目になるが、必死に脚を動かした。


 まず現状からして足手纏い!! つらい!!


『――ベルナルド、……すぐに来てくれ』

「坊っちゃん?」


 不意に耳許で聞こえた坊っちゃんのお声に、はっと意識を切り替える。

 視界を舞った淡い緑の光が掻き消える様子が、漠然と不安を感じさせた。

 リヒト殿下がこちらを覗き込む。


「アルバートから?」

「はい。何か急用のようです」

「急ぐか」


 お腹の痛みになんか、構っていられない。

 坊っちゃんのお声はとても微かで、僅かに震えていた。

 きっと何かよくないことが起きたのだろう。急がなければ!


 坊っちゃんの気配を辿ると、予想外に深部に存在を感知した。

 さっと青褪め、駆け出した僕におふたりが続く。

 僕の進む方向に、クラウス様が渋面を浮かべた。


「ベル、本当にこっちなのか?」

「はい。間違いありません。……あれ?」


 遠目に映った、白いのっぺりとした塊。

 折り重なるように蠢くそれらは対立で、次から次へと密集する肢体にぞっとした。


 ――まさかあの中に、坊っちゃんが?


 悪い想像が脊髄を駆けるよりも先に、身体が動いていた。

 短刀を抜き放ち、マネキンの首を掻く。


「ベル! 屈んで!!」


 リヒト殿下の号令に、即座に体勢を屈めて生白い脚を裂く。

 僕の頭上を光の筋が通った。

 瞬きのあとには、崩れ落ちたマネキン人形と、蹲るように耳を塞いでいるノエル様が残されていた。


「ノエル様!? お加減は……ッ、坊っちゃんはご一緒ではないのですか!?」


 短刀を鞘へ戻して肩を揺すると、怯えたように上体を跳ね上げたノエル様が、ますますその泣き顔をひどくさせた。

 僕の首に腕を回した彼が、わあわあ泣きじゃくる。


「せん、ぱいっ、せんぱ、せんぱいっ、うわああッ」

「ノエル様、落ち着いてください。坊っちゃんは何処ですか?」

「はんせッ、コードくん、はんせ、しつ、あいてて、ひっ、はんせいし」


 ノエル様の背を宥めるように叩き、聞き取った嗚咽に歪んだ言葉を、焦る脳内で反芻する。


 以前ノエル様は、『反省室』の話の最中に混乱していらっしゃった。

 彼にとってそれは大きなトラウマであり、それと一緒に坊っちゃんのお名前を出している。

 すっと血の気が引いた。

 よくないことが起こっている。急がなきゃ。


 ――ノエル様から身を離し、彼の頬を両手で包んで目を合わせた。

 ……彼はとても悲壮な顔をしていた。


「大丈夫です。大丈夫です、ノエル様。すぐに坊っちゃんの元へ向かいます」

「ベルッ!!」

「クラウス様はノエル様をお願いします! 殿下、急ぎます。はぐれたら、何か信号弾っぽいことしてください!」


 即座に立ち上がって早口で伝え、振り返らずに駆け出す。

 何よりも坊っちゃんの御身が心配だった。


 気を回す余裕がないためか、不思議と痛みを感じない。

 周りの景色が変わらないから、自分がどれだけの速度で走っているのかもわからない。


 途中途中に現れる対立の喉を切って、坊っちゃんの気配を辿る。

 リヒト殿下がついてきているのか、そこまでの配慮すら出来ていない。


「ッ!」


 遠目にぼやりと浮かび上がる人影を見つけた。

 僕の主人だと確信する。

 後ずさる彼の近くに、不自然に暗い影を認知した。

 本能的に忌避する闇の色が、坊っちゃんのすぐ足許にまで迫っている。


「ッ!? ベルナ――」


 駆ける速度のまま、坊っちゃんの細身を突き飛ばす。

 僕の片足が下段に食い込んだ。

 あっ、と思った頃には身体は転落していて、愕然と目を見開いた坊っちゃんのお顔が、瞼を下ろすように暗闇によって遮られた。


 ろくに受身を取ることも出来ないまま、強かに打ちつけた身体は、凄まじく痛かった。

 多分少しの時間、意識が飛んでいたと思う。

 起き上がるのに、しばしの時間を有した。


「……うっ、げほッ、げほ!」


 ふらつく上体を起こし、壁に凭れて激しく咳き込む。

 ……さっきの比じゃないくらいにお腹がいたい。

 蹲って、両腕でお腹を抱える。


 ……いたい、きもちわるい。


 血の気の引く音が、ざあざあ聞こえる。

 ……ここは視界が悪い。

 何だか、砂嵐のテレビ画面を見ている気分だ。

 減退した色彩が視界をモノクロに仕上げて、余計に不気味さを演出している。


 よろよろと辺りを見回し、僕が落ちてきただろう箇所を見上げる。


 ……僕は階段っぽいものを転がり落ちたはずなのに、そこにはのっぺりとした、高い壁しかなかった。


 何となく路地を思い起こさせる狭い通路を、朧気な視覚で辿る。

 薄汚れた壁に手をつき、何処となく異臭と雑然さを感じる狭苦しいここから、外へ出ようと立ち上がった。


 右の脇腹を左手で押さえて、左肩を壁に預ける。

 落下の際に左足を負傷したらしい。

 体重をかける度に、ずきりと痛みを訴えた。


 ――坊っちゃんは、みんなはご無事だろうか?

 勝手な行動を取ってしまったから、大変な迷惑をかけてしまった。

 もしも時間までに戻れそうになかったら、作戦通りに見限ってくれればいいのだけど。


 お嬢さまの今後をお守りしなければ。

 お嬢さまの花嫁姿、見たかったな。

 坊っちゃんはお食事を、きちんととられるだろうか?

 リズリット様、問題児伝説を増やさなければいいな。

 ノエル様、お加減大丈夫かな?

 あ、リヒト殿下にペンダント返せない。どうしよう。

 クラウス様がいるし、大丈夫か。

 ヒルトンさん、……おとうさんに会いたいな。


 だめだめ、がんばって戻らなきゃ!


 浅い呼吸が苦しい。

 ずるずる、引き摺る身体が、通路の切れ目へと差し掛かった。

 踏み出した右足が、何かに躓く。

 支え切れずに転倒してしまった。


「……ぃた、」


 蹲って咳き込む。

 心臓って、脇腹に移動するのかな? どくどくしてる。熱くて寒い。


 さ迷う視界が、正面の壁を映した。

 ……なにか、書いてある?


 壁の落書きを認知した瞬間、色彩が鮮明になった。

 カメラのフラッシュのように、世界が切り替わる。


 路地の間に出来た、ちょっとした広場だった。

 ごろごろと転がるマネキン人形は、手足も胴体も首も全てバラバラにしていて、無造作に、けれども秩序を持って並べられていた。

 ぴちゃぴちゃ滴る音が、何処かで鳴っている。

 音の方へ顔を向ければ、棒に引っ掛かった頭部が、赤い雫を水溜りに落としていた。

 マネキンの無表情は、こちらを向いている。


 赤色が鮮やかで、どす黒くて、そこら中水浸しだった。


 僕が躓いたのは、どうやら誰かの腕だったらしい。

 僕の体重のせいか、変形していた。思わず吐き気が込み上げてくる。


 壁の傍に、誰かの首が転がっていた。

 髪の長い――、赤色でべとべとのそれの上に、落書きがあった。

 右肩上がりの弾んだ文字。

 定まらない焦点が、無秩序に図形を拾う。


「たに、く、しゅ、」


 あのときの僕は、文字が読めなかった。

 けれども、今は読むことが出来る。


 あのとき? あのときって、いつのこと?


「あな、た、に、……しゅ、くふく、を」


 認識した瞬間、自分の中で、何かがひび割れる音を聞いた。

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