06
※残酷描写注意
俺が王族に貸し出されるようになった時期は、結構早かった。
初めて紹介された第二王子サマは、にこりともしなくて、セドリック殿下との違いに驚いたことを覚えている。
ああ、かわいそうな子なんだなあ。
幼い俺は、直感的にリヒト殿下をそう印象付けた。
彼の母親は王妃様とは異なり、魔術師として覚醒した息子を受け入れなかったらしい。
父親はあの通り、殿下をスペアとしてでしか見ていない。
大変窮屈な生活を強いられてきたのだろう。
愛らしさの強い容姿で、薄っぺらい笑顔を浮かべる殿下の姿に、同い年だというのに『お兄ちゃんが守ってやらなきゃ』との思いを抱いた。
父上からも「お仕えするんだ」との遠回しの助言をいただいたので、きっと俺の役目は支えることらしい。
毎日をつまんなそうに生きるリヒト殿下と、形式上のオトモダチになった。
俺がコード家と親交を持つようになった時期も、早かった。
両親に交流があったことで、ミュゼット嬢とは、本当に小さな頃から接している。
どのつく内気な彼女は大変な人見知りで、時々会う程度では、俺に慣れることはなかった。
更には笛つきケトルもびっくりな癇癪持ちで、彼女の地雷を知らない俺は、よくこの家のお姫サマを泣かせてしまっていた。
さすがに会う度に女の子を泣かせていては、良心が痛むし、具合も悪い。
どうしたものかと小さい脳みそを振り絞って、大人の対応を観察した。
大人は彼女が泣き出す度に、お菓子やプレゼントを与えていた。
なるほど。面白いくらいにぴたりと泣き止む。
学習した俺も、ものを持参して彼女と接した。
ミュゼット嬢はしょっちゅう癇癪を起こしたが、お菓子をあげると、にこにこ微笑んだ。
泣き顔と怯えた顔ばかり見ていた俺には、その笑顔が大変眩しく見えて、可愛らしく思えた。
それからミュゼット嬢は、お菓子がないことに泣くようになってしまった。
ベルは色んなものを治してくれた。
ベルが来たのは、俺たちが6歳の頃だ。
本当にびっくりした。
背なんて、あんなにちまっこいミュゼット嬢よりも小さくて、がりがりでひょろひょろで、腕なんて掴んだら折れそうだったんだ。
同い年とか嘘だろう? 何度も疑った。
実年齢は拾い子だからわかんねーんだと。大人が教えてくれた。
ぼうっとしていることの多いベルだったが、話しかけると、いつもにこにこしていた。
すぐに俺にも懐いてくれた。
なんだかこう、周りが気難しい殿下とかミュゼット嬢とか、他のご子息ご令嬢ばっかりだったから、無邪気な姿は本当に心が浄化された。
全力でかわいがった。
弟が出来たみたいだった。
驚いたことに、ベルが来たことで、あのミュゼット嬢の癇癪が治った!
おしゃまにお姉さんらしく振舞う彼女は、ベルのお手本になろうとしていて、会う度にお嬢さまらしく成長していた。
苦手な勉強だって、ベルに教えるために頑張っていたんだ。いやはや偉い。
更になんと、あんなにつまんなそうだった殿下が笑うようになった! 快挙だ!!
俺に向かって、「ぼく、自然に笑えてる? こわくない? 大丈夫?」と尋ねられたときには、本気で病気を疑った。
それからはびっくりするほど温和な性格になったのだから、すごいものだ。
それからベルは、アルバートのことも治した。
俺が会ったときには、彼は落ち着いていたから、荒れていた様子はわからない。
けれども、アルバートの様子を見ていれば、彼が誰に心を開いているのかがよくわかる。
リズリットは貴族らしくない貴族だった。
悪ガキと称すればいいだろう。
元気が有り余っていた。
「遊ぼうぜー!」とやってきては、ちゃんばらごっこに興じて、よく大人に怒られた。
騎士団の訓練場なら、お咎めもなかったんだけどな。
リズリットは伸び盛りな俺と同じくらいの背丈で、いつも快活に笑っていた。
悪戯好きで、よく驚かされたもんだ。
俺もリズリットといるときは、『お兄ちゃん』でいることを忘れていられた。
一緒に遊ぶと楽しいし、馬鹿騒ぎしては一緒になって怒られてた。
友達っていいものだなと思った。
「またなー!」と笑うリズリットは明るくて、会う度に元気になれる。
上手くいかない人付き合いも、彼と遊ぶとぱっと忘れられた。
彼の髪が真白になって、うわ言を呟いていた姿はショックだった。
リズリット、名前を呼んでも反応しない。
触ったら悲鳴を上げて暴れ回る。
彼の腕が俺の頬に当たって、稽古でもっと痛い目を見ているはずなのに、何故だかひどく痛かった。
そこから、何だか駄目になった。
ベルはリズリットのことも治した。
無理だと思っていた。諦めていた。
けれども、ベルはリズリットのことを取り戻してくれた。
ベルは俺のことも治してくれた。
諦めていた。無理なんだ。
母上が来るまで持たないと、諦め切っていた。
思えば、俺はずっと諦めていた。
いや、取り組もうとすらしていなかった。
殿下がつまんなそうにしていても、ミュゼット嬢が癇癪を起こしても、他人事だと、俺には関係ないと割り切っていた。
俺自身が薄っぺらく笑っているんだ。
毒にも薬にもならなかったのだろう。
俺は普通に階段を下りていたはずなのに、だぼんっ、水に落ちるような音が響いた。
泡の揺蕩う視界に、咄嗟に空気の確保について焦る。
けれども不思議と苦しさは感じられず、通常通り呼吸も続けられている。
相変わらずの不可思議現象に、苦く笑った。
そういえば、昔は氷より水を使う方が得意だったはずだ。
いつから得意が変わったんだっけな?
「……ああ、」
そうだ。リズリットが変わった頃だ。
あいつの巻き込みで母上に稽古をつけてもらったとき、思うように水の魔術が打てなくなったことに気付いたんだ。
必死に氷の魔術を習得したんだっけ。
階段を降り切った瞬間、水が音を立てて引いた。
水気ゼロ。何処も濡れていない。すげえ。
「ベル、何処だ……!?」
見回した周囲は、第一階層と異なっていた。
無条件に不安にさせる空気の立ち込めるこの部屋は、保護したリズリットを閉じ込めていたあの部屋だ。
認知した瞬間に苦い心地へ陥り、ずかずかと薄暗い室内を横断する。
異臭の混じったそこは大して広くなかったはずなのに、異様に広く感じられた。
焦りから生まれた苛つきのまま、閉め切られたカーテンを大きく開ける。
陰気な室内を開放する。窓も全開だ。
暗鬱な空気よ、さよならだ!
風が通ったおかげか、少しだけ呼吸が楽になった。
ふと気付いた、毛布に包まった膨らみ。
生白い二本の脚を伸ばしているそれに、一瞬ぎょっとした。
「……リズリット?」
ちがう。彼はここにいない。
彼の持ち場は小ホールだ。
緊張に干上がった喉を懸命に嚥下させ、布の塊に近付く。
いつでも剣が取れるよう警戒を高め、布を剥ぎ取った。
「嫉妬してたくせに」
そこに寝転がっていたのは、子ども時代の痩せ細ったベルだった。
彼の周りに集る羽虫は、あの頃のリズリットを彷彿させる。
窓から差し込む光が、漂う埃を白く映す。
息を詰めた俺を、大きな目が見たこともない色で睨んでいる。
「本当は疎ましかったくせに」ベルの口が、掠れてひび割れた声で吐き捨てた。
ベルは殿下を治した。
ミュゼット嬢も、アルバートも、リズリットも治した。
アルバートを除けば、みんな俺が先に出会っている。
それなのに、彼等の心を動かしたのは、ぽっと出のベルだった。
悔しくなかったはずがない。俺は『おにいちゃん』になれなかった。
父上からも支えるよう言いつけを受けたのに、俺の存在は誰からも認められなかった。
ベルはにこにこと愛想良くしていただけだ。
……俺だって、愛想はよかったはずだ。
何がそこまで違ったんだろうな?
「なあ、本物のベルは何処だ?」
「邪魔なくせに」
「ははっ。ベルはそんなこと言わねーよ」
「このまま放っておけば、いなくなるのに」
「それは困るな。俺もベルがだいすきだからな」
「憎いくせに」
「参ったなあ……」
ベルの顔で、ここまで言われたらさすがにへこむ。
苦笑いを浮かべて首の後ろを掻いた。
俺とベルの違うところ。そんなものは簡単だ。
ベルはいつでも全力で、俺は相手の反応に合わせている。
やっぱり社交辞令で喜ばれるより、心から喜んでもらう方が嬉しいだろう?
そりゃあ殿下だってミュゼット嬢だって、めろめろになるわ。
「俺がベルのこと猫かわいがりすんの、罪悪感からなんだぜ」
「ほら、嫌いだ」
「あんなにちっさくて、何にも知らない子にだぜ、俺嫉妬してたんだ。馬鹿みたいだろ? ベルはあんなに俺に懐いてくれてんのに」
「嫌いなんだろ」
「ベルの顔見る度に申し訳なくってさ、可愛がれば可愛がるほど懐くんだ。いつもにこにこしてて、人を疑うことすら知らなくて。俺がえぐいこと考えてるなんて、思いもしねーんだろうな」
「にくいくせににくいにくい」
「もう、つらくってさ。あいつ自分が怪我しても、相手を怒らねーの。
ああ、守んねーとって思ってさ。あいつ、すぐ怪我するくせに、全く自衛しないんだぜ? いっつもされるがまま。もう、見てらんなくてさ。大怪我しちまう前に、守ってやんねーと」
そうだ、守らないと。
リズリットに髪引っ張られても、殿下に執拗に付き纏われても、ミュゼット嬢守って大怪我しても、ベルはちっとも怒らない。
ノエルに意地悪されても、ギルから誤解されても、ベルはいつでも許していた。
痛みを痛みと感じられなくなったら、危機管理出来なくなって、大怪我するんだぜ?
なあ、ベルはまだ無事か?
「なあ、ベルは何処だ?」
かたん、物音がした。
振り返った先に扉が見えた。
……こんな扉、あったかな?
不思議に思いながらドアノブを捻った。
すんなり開いた扉の向こうには、星祭りの景色が広がっていた。
思わず立ち竦んだ俺の前で、ウサギの面を剥ぎ取った小さなベルが、黒い男へ飛び掛る。
「ベルッ!!」
振り払われた小柄が、地面を転がった。
男の手には黒く塗られたナイフが握られている。
咄嗟に駆け出し、振り被られた腕が振り下ろされる前に、引き抜いた剣で男の胴体を切り捨てた。
――怖かった。あの日、ベルとアーリアが殺されるんじゃないかって怯えた。
助けたかったのに、脚が竦んで動けなかった。
それを、ようやく助けられた。
……何だ、俺でも守れるんじゃん。
「ベル!」
蹲る彼は震えていて、あの日のリズリットを彷彿させる仕草に、触れることを躊躇った。
さ迷わせた手をそっと背中に乗せ、静かに名前を呼ぶ。
くぐもった声は頻りに何かを呟いていた。
「……あか、まっか、あか、ばらばら、まっか、あか、あか」
両手で耳を塞いでいるベルは、リズリットと同じように、虚ろな目で、涙を零しながら、うわ言を繰り返していた。
大袈裟なくらい震えている彼の身体を、慌てて抱き寄せる。
縋るように服が握られた。
小さくない、16歳のベルの身体。
脇腹の怪我と、頬の傷。
ズボンのポケットを失敬して中を改めると、天使の文様の描かれたペンダントが出てきた。
……間違いない、本物のベルだ。
「あか、あかい、まっか、あか、ばらばら、あかい、あか、まっか」
「ベル、もう大丈夫だ。一緒に帰ろうな」
優しく頭を撫でて、肩口に寄せる。
シャツが涙を吸い込み、ひやりとさせた。
ふと疑問が浮かぶ。
ベルはこれまで色んな人を治してきた。
そのベルが壊れたら、一体誰が彼を治すのだろう?
「あか、あか、まっか、あか、……あか、あか、」
ベルの旋毛を見下ろす。俺の指が、黒髪に埋もれている。
縋るように握られたシャツと、震えている身体。
止まらない涙と、俺が施した応急処置。
抱き寄せた身体はあたたかい。
――今度こそ、俺にも治せるんじゃないだろうか?
今まで、ずっと逃げてばかりだった。
今度こそ向き合えるんじゃないか?
部屋だってそこにある。
ベルも震えて怯えて、俺を頼っている。
ここには俺しかいない。
今度こそ、『おにいちゃん』がまもらないと。
唐突に割れ鐘を叩くような音が聞こえた。
がらんがらん、不規則に乱れ打たれるそれに、徐々に意識が鮮明になる。
はっと我に返った。
咄嗟にベルを抱き上げ、忙しなく辺りを見回す。
がらーん、がらーん、鐘の音が鳴り響いていた。
「やっば……!!」
一気に血の気が引き、心臓が脈打つ。
鐘の音は調停の合図だ。
鐘が鳴り止むまでに外へ出ないと、この頭おかしい世界に死ぬまで閉じ込められる!
あ、あぶねええええええ!!!!!
今、間違いなく頭おかしくなっていた我が身として、早々にこの場から逃げ出したかった。
ベルは変わらずがくがく震えていて、頼りのアルバートからの連絡もない。
慌てて入ってきた扉を開けようとするも、ドアノブがなかった。
欠陥住宅かよ!!
悲しいことに、先程まで静かだったこの場にも対立が沸き出てきて、逃げ惑う脚がますます入り口から遠退いた。
得意の氷柱を連発させるも、人ひとり抱えた状態で、90分耐久レースはさすがに堪えた。
あとこの階層、エーテルが少ない。
びっくりするくらい枯渇していく。
「……ははっ、わりぃ、ベル。リズリットじゃねーけど、こんままだとクラウスさんと心中コースだわ」
乱雑に壁に凭れて、荒い息をつく。
こちらを取り囲む幼少期の面々に、悪態をつきたくなった。
うっせ、誰がショタコンだ。
お前らみんなあくが強過ぎて、クラウスさんの繊細な心はボロボロなんだわ。
あーあ。天井を見上げる。
「兄ちゃん、無事か!?」
頭上に、開かれた扉と階段があった。
概念さん、どういうことだよ。住宅設計ちゃんとしろよ。
唖然とする俺に、一瞬呆けたエンドウが慌てて身を乗り出す。
俺も我に返り、差し出された彼の手を取った。
「しっかり掴まってろ! 従者の兄ちゃん離すなよ!!」
「おうっ」
「どっせいやぁああッ!!!」
巨大魚の一本釣りでも彷彿しそうな掛け声を上げ、扉の縁に足をかけて踏ん張ったエンドウが、俺たちを救出する。
幸いにも鐘の音はまだ続いており、先に脱出すればいいものを、律儀に待っていたのだろう面々と無事再会出来た。
感動はお預けに、鐘の音の中をみんなで必死に走った。
殿下の術の威力が恐ろしかった。
この人、めちゃくちゃ心が荒れてるんだろうなと察した。
ノエルはわんわん泣いていたし、アルバートはひたすら静かで恐ろしかったし、合流したギルには、はちゃめちゃに怒られた。
多分一番元気で平和だったのは、エンドウだと思う。
走りながら教えてもらったが、エンドウが合流した頃には、俺にもベルにも連絡がつかず、残された彼等は混沌としていたらしい。
ノエルが泣きじゃくりながら、あの不可思議ドアを片っ端から開けていき、殿下が下りようとするのをギルが必死に引き留めていたそうだ。
その隙にアルバートが下りようとし、ノエルが更に階段を増やす。
すげえ、カオス。
最終的にエンドウが階段を下り切らないよう顔を覗かせ、俺たちを回収したそうだ。
いやあ、申し訳ない。本当に助かった。
ようやくの小ホールに入った途端に扉が閉められ、そのまま縺れるように入り口の扉を抜ける。
最後尾のギルが走り抜けた瞬間、鐘の音が余韻を残して止んだ。
ダアンッ!! 独りでに閉じられた扉が、派手な音を立てる。
……もっとゆとりがあっても良くないか?
「閉めまーす!」みたいな掛け声があっても良いだろう?
急過ぎないか? せっかちかよ。
肩で息をする俺らと、呆然とする周囲。
誰かが泣き出した声に合わせて、わあわあ周りが泣き出した。
子どものようだと思ったけど、俺らってまだ学生だったよな。
社会を知らない子どもだったわ。
フェリクス教官とノイス教官が、生徒の人数と容態を確認していく。
こちらへ駆け寄って来たミュゼット嬢とリズリットが、ベルの前で崩れ落ちた。
気付けばベルは、ぐったりと気絶していた。
彼の手を握って泣き出したミュゼット嬢は、あの日よりも大人になった顔で、あの日にはあり得なかった、人のための涙を流していた。
「全員いる……、おかえり、おかえり……ッ」
フェリクス教官とノイス教官が泣いたところを、多分俺は、初めて見た。
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