浸水の季節

「――先輩?」


 ノエル様の声に、はっと我に返る。

 見回した周囲は空中庭園で、伸びやかな緑と鮮やかな花、高い空が心地好い風を運んでいた。


 どきどきと忙しない心音を、服の上から撫でる。

 隣で不審そうに目を細めているノエル様へ顔を向けた。

 一気に湧いた現実感に、詰まっていた呼吸を再開させる。


「……すみません、ぼうっとしていました。どうしましたか? ノエル様」

「……先輩、見える人とか、言わないですよね……?」

「はい?」


 不思議なことを言い出した彼は、よく見れば顔色が悪い。


 何かと僕を痛めつけたいらしい彼は、こうして空き時間を狙って授業をさぼっているようだが、度々言動が不審だ。


 首を傾げるこちらへ、ますます顔色を悪くさせたノエル様が、肩を震わせ俯いた。

 ジャケットの袖が僕の前を通り、彼方の一点を指差す。


「虚空を凝視して、怯えた顔してたんですよ? あそこに何があるんです? 妙なものでもいるんですか!?」


 彼の指差す先には、鉄柵と青空と緑があるだけで、別段なにも変わったものは見えない。

 ええっ、僕そんな顔してたの!?


「何もありません。妙なものとは、何ですか?」

「俺が聞きたいんです!!」

「……ノエル様、もしかして、おばけの類が苦手ですか?」

「大ッッッ嫌いです!! 枯れ尾花が幽霊だと判明するまで、徹底的に調べ上げなければ、落ち着いて息も吸えません! 先輩、あそこに何かいるんですか!? いないんでしたら、疑わしい行動を取るのはやめてください!!」

「……はい」


 一気に捲くし立てられ、咄嗟に返事する。


 そんな、ノエル様こそ人間がこわいタイプのホラーの実演型なのに、おばけがこわいとか思っちゃうんだ? へ、へえ……。


 両手で顔を覆った彼が、はああああ、深くため息をつく。

 迂闊に触れるとまた怒らせてしまうので、「大丈夫ですか?」お声をかけるに留めた。


「一番恐ろしいのは生きてる人間ですけど、オカルトも心霊現象も大っ嫌いですよ……。滅びればいい」

「ノエル様にも、可愛らしいところがあるのですね」

「どういう意味ですか? だって生きている分には、殴ったりなんだり出来るじゃないですか。死んだら物理攻撃が不可だなんて、反則だと思います。国交断絶してほしいです。切実に」

「おばけに何か恨みでも……?」


 余りに憎々しげに言われるので、うっかり肩が跳ねてしまう。

 膝に乗せたレシピ本を閉じ、隣の暗雲を見詰めた。

 重々しく息をつかれる。


「反省室の壁の染みと天井の汚れが、人の顔に見えるんです。丁度正面に壁の染みが向くんで、小さい頃は毎回死ぬような思いをしました」

「は、反省室……?」

「あるでしょう、反省室。かんぬきの錠前がついていて、南京錠で閉める部屋」

「初耳ですが!?」

「ありますって、何処の家庭にも一部屋くらい。……はーっ、また先輩の良い子ちゃんアピールですか? はいはい、良い子な先輩には、無縁のお部屋ですもんねー」

「コード家の名誉のために訴えますが、地下から天井裏までくまなくお掃除して回りましたが、南京錠で閉めるタイプのお部屋は、コード家の本邸にも別邸にもありません!」


 声を大きくして訴えた僕に、顔を上げたノエル様がこちらを向く。

 微かに震えている彼は、ひどく狼狽しているように見えた。


「……嘘だ」

「っ、他所のご家庭のことはわかりません。失礼しました、知った口を、」

「嘘だ! あった、あった!! 引っ叩かれて、そこに突き飛ばされて!!」

「の、ノエル様、落ち着いてっ、落ち着いてくださ……ううっ」


 掴まれた両肩が痛い。


 握力……っ。さすがは年頃の男の子と、鉄の塊を振り回せる筋力。

 マッサージの指圧なら、最弱の強度設定が丁度良いと思う……。


 ノエル様は大変混乱している様子で、矢継ぎ早にその『反省室』とやらの様子を語っている。

 ……僕に言い聞かせているというよりは、ご自身の中で整理をつけられなくなった思いを吐き出している、といったように思えた。


 お会いしたばかりの頃のリズリット様のような、攻撃的でひどく不安定な様子が浮かぶ。

 僕はやることなすこと、彼を怒らせてばかりなので、これ以上混乱させないか不安だ。


「ノエル様っ、大丈夫です、大丈夫です。ここはそのお部屋ではありません、空、見てください。天井なんて、どこにもありません」


 肩を圧迫されている状態で、腕を上げることはつらかった。

 けれど、何とか頭へ腕を伸ばして、宥めるように撫でる。


 ううっ、肩痛くて吐きそう。

 何とかして正気に戻ってほしい。

 ノエル様の心身のご健康のためにも、僕の肩のためにも。


「俺だって褒めてもらいたかった! 同じことしてるのに、何で!? 何で俺だけ反省室!?」

「……っ、大丈夫、大丈夫です、ノエル様」


 肩が痛い。

 つい最近リズリット様にも圧死させられそうになったけど、そろそろ対抗策というか、何かそういうのを身につけないといけないのかも知れない。


 反抗期の息子さんに立ち向かうお母さんって、本当にすごいな。


 うわ言のように、大丈夫と繰り返して、頭を撫でる。

 ノエル様の声がぐるぐる回る。


 腕を上げているのがつらい、いたい。

 なんで、なんで、興奮状態の声が、肩の圧迫とともに、ぴたりと止まった。


「せん、ぱい……?」


 震える声とともに、痛みから解放された身体がぐったりする。


 ……いたい。息が出来るしあわせ……。

 痛みが引くまで、身体動かしたくない……。


 柔らかな髪へ添えた手に、手のひらが重ねられた。

 よろよろと顔を上げる。

 表情を引きつらせたノエル様は、呼吸を詰まらせながら、泣き出しそうな顔をしていた。


「……大丈夫です、ノエルさま。……もう、大丈夫です」

「なにが、大丈夫なんです……? なんでッ」


 強い力で握られた手が、引き剥がされ、振り払われる。

 軋んだ肩とぶつかった手に呻いた。

 立ち上がったノエル様が、両手で顔を覆って喚く。


「何で、良いことしても一度だって撫でてもらえなかったのに、悪いことして撫でられるんですか!?」

「ノエルさま、」

「同情なんていりません!! 俺がおかしいんだって、わかってます! 俺の家がおかしいんだって、わかってるんです!!」


 泣いていないことが不思議なくらい、歪んだ声でノエル様が叫ぶ。

 打ち付けた手を擦り、名前を呼ぶ。

 びくりと肩を跳ねさせた彼が、怯えた顔で緑色の目を覗かせた。


「ノエルさまのやった良いこと、僕がほめます」

「……は」

「僕では、力不足だとは思いますが……」

「いりません! 先輩は、ずたずたになってください。そうしたら俺の気は晴れるんで!」

「そうですねー……。今日やった、僕の良いことはですね」


 相手を刺激しないように、表情と声音に気をつける。

 やわりと微笑み、口を開いた。


「坊っちゃんのおすきな甘い方の玉子焼きを、綺麗に巻けたことです」




 *


「失礼します。フィニール先生、……湿布ありますか?」


 熱を持った肩に、これは業務に支障が出ると判断し、保健室を訪れた。


 ノエル様はあの後、大層混乱した様子で庭園を飛び出して行ってしまった。

 その後については、存じ上げない。


 ……深追いしても、余計に彼の刺激になるだけだろう。

 素人判断だけど、今はそっとしておこう。


 とにかく今は、足許に落ちた本を取ることすら、扉を開けることすら苦痛に感じる肩をどうにかしよう!!

 これからが大事なときだっていうのに、もっと筋肉つけよう、僕!

 ああっでも、重量が増えると速度が落ちる……!


 銀髪の保健医が顔を上げる。

 細い眼鏡のフレームを押し上げ、立ち上がった彼が戸棚へと歩みを進めた。


「湿布ですか。どうしましたか?」

「……ちょっと痛めました」


 明らかに対人トラブルの痕跡なので、見せたくありません。


 言葉を濁して曖昧に微笑む。

 フィニール先生は引き出しを開いた体勢のまま、こちらを向いていた。

 しばし無言の膠着状態が続いた。


「……一枚ですか?」

「出来れば……二枚で……」

「貼りにくいでしょう。脱ぎなさい」

「なっ、なんで……!?」


 湿布を手にしたフィニール先生が、視線でベッドの方へ促す。

 びくりと肩を跳ねさせた僕へ、彼が涼しい顔を向けた。


「肌が露出している面積の方が少ないでしょう。見たところ、足許に異常はなさそうだ」


 淡々とした声に、頬が引きつる。


 何でみんなそんなに推察能力が高いの?

 僕が間抜けなだけ?

 常に頭脳戦を強いられているような気分で、色んな意味で気が抜けないんだけど?


「……いえ、自分で、」

「手早く済ませます。長引かせる方が、不自然ですよ」

「…………はい」


 見逃してくれなかった先生に、渋々項垂れながらカーテンの方へ向かう。

 しゃっと鳴ったレールの音に、諦めてベッドに本を置いた。


 シャツの釦を適当に開ける。

 肩です、と申告すると、後ろから襟首を引かれた。


「……内出血になっています。冷やしましょう」

「い、いえ! 大丈夫です、湿布で充分ですから」

「動作に差し支えますよ」

「……すんっ」


 素人知識が、保健の先生に敵うはずがなかった。


 カーテンの向こうへ行ったフィニール先生が、氷のうとタオルを持ってくる。

 後ろを向くよう言われたが、慌ててお断りの言葉を述べた。


「自分で出来ます。ありがとうございます」

「……熱が引くまで乗せなさい」

「わかりました」

「対人トラブルですか?」

「……いえ」

「何か困ったことがあれば、相談しなさい」


 こくこく頷き、手渡された氷のうを受け取る。

 触れた指先が冷たく、申し訳なさを抱いた。


 自分が準備する側だからか、誰かから施しを受けると困惑してしまう。

 捲った服の下に氷のうを当てながら、ふと気付いた。


「先生、静電気シーズン、終わったんですね」

「はい?」


 立ち去ろうとしていた先生を見上げ、ばちっとしなかった指先を示す。

 さすがにそろそろジャケットを手放す季節ともなれば、先生の静電気も落ち着くか。


「……静電気、ですか」

「あれ? 先生の方では、ばちっとしないタイプの静電気ですか? 冬場大変だろうなと思っていたんですが」

「……、そうですね」


 いつもの無表情で、「熱が引いたら呼んでください。湿布を貼ります」先生がカーテンを鳴らす。


 そっか。相手にダメージを与えるタイプの静電気なら、先生自身には衝撃とか薄いか。なるほどなあ。

 ……いるのかどうかは知らないけど、彼女さんとか大変だろうな。


 度々氷のうを交互に持ち替えながら、湿った指でレシピ本を開いた。

 10分くらい冷やせば、何とかなるんじゃないかな?

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