02
「何か良いことがありましたか?」
今日の坊っちゃんは機嫌がいい。
いつもは大体無表情だけれど、なんとなく表情が柔らかい。
坊っちゃんがご機嫌だと、僕も嬉しくなる。
特にここ最近は、物騒なものごとが立て込んでいるから、なおさら坊っちゃんにオアシスを感じる。
にこにこ、紅茶を差し出した。
僕の淹れた紅茶をひとくち含み、坊っちゃんがソーサーへ戻される。
ゆるりと黄橙色の目が緩められた。
「エンドウと婚約することにした」
「……はい?」
今、なんと?
「エンドウさん……って、あのエンドウさんですか!?」
「他にどのエンドウがいるんだ? 僕の知っているエンドウは、桃髪の性別詐欺師だけだ」
「あっ、僕の知ってるエンドウさんと同じ方ですね!!」
坊っちゃんの呆れた半眼に晒され、慌てて顔を背ける。
ええっ!? 何で!? いつそんなフラグが立っていたんだ!?
あっ、どうしよう、声が震える……!
エンドウさんがヒロインしていないため忘れがちだが、あの人はこの物語のヒロインだ。重要人物だ。
そしてアルバート坊っちゃんは、攻略対象のひとりだ。
それもお嬢さまの死亡エンドの、一番どぎついやつをお持ちの攻略対象だ。
具体的には、お嬢さまへの愛憎を拗らせた坊っちゃんが、旦那様もろともお嬢さまを処刑へ追い込み、コード家を潰すルートだったはずだ。
だ、旦那様ー! 国王陛下と坊っちゃんから、死亡フラグがふたつも立てられちゃいましたよー!?
だらだらと冷や汗を掻く僕に、坊っちゃんのお顔から微笑みが消え去る。
むすりと無表情になった彼が、無感動そうに腕を組んだ。
「……ベルナルド?」
「あっ、す、すみません! びっくりしてしまって!」
「……喜んでは、くれないんだな……」
ぽつりとした呟きを残し、坊っちゃんが俯かれる。
前髪によって遮られた表情は窺えず、おろおろと言葉を探した。
「そ、その、……エンドウさんとは、いつ頃から交際されていたのでしょうか?」
「何と言えば満足だ?」
「いえあのっ、……全く、存じ上げなかった……ので……」
坊っちゃんの苛立ったお声に、反射的に肩が跳ねる。
ど、どうしよう。突然間近に迫ったお嬢さまの死亡フラグもそうだけど、坊っちゃんのお気持ちとか、ご様子とかもどうしよう……!
エンドウさんとそんな親密な仲になっていただなんて、本当に、全く知らなかった。
そんなご様子、双方から微塵も感じられなかった。
いつからだろう……? 婚約を結ぶほどの仲なのに、それを察することが出来なかっただなんて、従者失格だ。
お顔を上げた坊っちゃんは、眉間にきつく皺を寄せていた。
怒りの表情に凄まれ、肩が震える。
「坊っちゃん」か細く呼んだ僕の声を遮るように、彼がドアを指差した。
「……出て行ってくれ」
「あ、あの! 坊っちゃん……」
「出て行ってくれ。話したくない」
「……ッ」
絞り出したような、平坦なお声だった。
怒りを押し込めていたのかも知れない。
ただ、拒絶されたことに空虚感を抱いた僕は、頭の中が真白になっていて、静々腰を折ることしか出来なかった。
「……失礼いたします」
機械的に呟き、要望通り退室する。
考える事柄の多い頭が思考をかき混ぜ、気がついたら寮の最上階へと上がってきていた。
身体に染みついた習慣に、泣きそうになる。
このお部屋を開けても、リヒト殿下はいらっしゃらない。
警備のおじさんに頭を下げる。
開いた扉の向こうは暗く、余計に空虚感で胸が苦しくなった。
広間の窓を覆うカーテンを開け、鉄柵越しの星明りを窓硝子が透過する。
契約主がいないことをいいことに、ぼやりとその場に座り込み、薄らと明るい窓を見上げた。
僕は夜目が利く。
本音を言えば、薄明かり程度を灯したこのくらいの環境の方が落ち着く。
ぼんやり、膝を抱えた。
僕の中の第一条件は、お嬢さまの死亡フラグの根絶だ。
今年の冬の景色も、その先の季節も、お嬢さまにお届けしたい。
お嬢さまをお守りしたい。
けれども、あの人嫌いの坊っちゃんが、ようやくご婚約を考えられたお相手だ。
祝福こそすれ、拒絶するなんて、何てことだ。
お嬢さまと坊っちゃんのご関係は、ゲームで見たものとは大きく異なっている。
もしかすると、お嬢さまの死亡エンドに結びつかないかもしれない。
けれども、ゲームの通りになるかもしれない。
どちらにも根拠がない。何が起こるかわからない。
結果を覆したくてあがいているけれど、そこへ至る原因も過程もなにもわからない。
底の見えない沼に手を突っ込んでいる気分だ。
ただ、お嬢さまをお守りしたいだけなのに……。
変化といえば、フロラスタ様はゲームにいただろうか?
ゲーム通りであれば、奥様を失った旦那様は、言っては何だがダメ貴族となる。
現在の朗らかで仕事のできるコード卿は、どこにもいない。
……わざわざフロラスタ家が敵対視するほど、コード家は発言力を持っていなかったのかな?
……わからない。そんなところまで見ていなかったし、そもそもそんなに内容を覚えていない。
あと、メイン攻略対象であるリヒト殿下が、こんなにも長期的に抜けるイベント、あっただろうか?
……あったらバグでしかないと思う。
星祭りが終わった今、収穫祭へ向けて準備が組まれている。
リヒト殿下は収穫祭の中心人物だ。
そんな人物が欠けるなんて、行政的にもイベント的にも事故にしかならない。
……国王陛下は、リヒト殿下を『邪魔』だと称した。
僕が邪魔をしたから、リヒト殿下の御身は危機に晒されている?
僕が収穫祭を手伝ったから、殿下は毒を盛られた?
僕がいなければ、……昨年のリヒト殿下の言葉を思い出す。
彼は僕がいたから、『最後までがんばれた』と言っていた。
きっと僕がいなければ、『途中で諦めていた』……陛下は、リヒト殿下の何を『諦めさせる』つもりだったのだろう?
最後に、ゲーム上でベルナルドは、突然失踪する。
どういうことなのか、今でもよくわからない。
国王陛下の指示は、リヒト殿下の変質に結びついているから、きっとゲーム本来の仕様とは異なる。
なら、どうしてベルナルドは突然姿を消すのだろう?
お嬢さまが大切ではなかったのだろうか?
僕の忠誠心は、その程度のものだったのだろうか?
そんなまさか!!
首を横に振る。そんなことがあるわけない。他に原因があるはずだ。
……自分の精神状態を振り返る。
対立戦のあとから、ずっと赤いぬいぐるみが視界にちらついている。
――殿下がお城へ戻ると言った日、片付けた旅行鞄を開いた中に見た。
空中庭園の木陰で。
リヒト殿下が閉じ込められている、白いお部屋にも。
フロラスタ様に追われている最中の廊下で。陛下の詰問で。ノアさんのお部屋で。坊っちゃんと話している最中――
はじめは、なにかわからなかった。
『見た』という感覚だけで、どんなぬいぐるみだったか、記憶に残っていなかった。
けれども見える間隔が狭まってきたからか、段々とぬいぐるみの全貌が見えてきた。
……今も視界の端にいる。
見たくなくて、かたく瞼を閉ざした。抱えた膝を強く抱きこむ。
ぬいぐるみは、そのときどきで部位が足りない。対立戦で見た、マネキンみたいだ。
腕がなかったり、脚がなかったり、頭がなかったりしている。
赤色が、血の色みたいできもちわるい。
しっとりしているのも不気味だ。
詳細を思い出そうとすると、強烈な眠気に襲われる。
次に瞼を開いたときには、見回した部屋は明るく、僕の喉はけんけん咳をしていた。
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