03

「……風邪ですか」

「ちがいます」


 咳き込みそうな喉を懸命に鎮めて、アーリアさんの冷ややかな目に耐える。

 問答無用で僕の額に手のひらを当てた彼女が、呆れ顔で首を横に振った。

 やだやだ。そんな雑な審判しないで。


「伝達事項のみ報告します。あなたはこのあと保健室へ向かい、薬をもらって大人しく寝なさい」

「やだー!!」

「報告1、旦那様よりお嬢様と坊ちゃまへ招集がかかりました。私はおふたりをお屋敷へお送りいたします」

「僕は!?」

「寝なさい」


 仲間はずれはよくないって、先生いってたのに!!

 涙目の僕を放って、アーリアさんは淡々としている。


 ひとくちに使用人といっても、その仕事の幅は広い。

 侍従である僕たちの本来の仕事は、主人の最も近くでサポートすることだ。

 それこそ衣服の着脱だってお世話する。

 ……坊っちゃんは上着をお預けになるくらいしか、活用してくれないけど。


 お嬢さまも坊っちゃんも、お手のかからない方々だ。

 暇を持て余した僕とアーリアさんは、ミーティングを兼ねて、こうして早朝に馬の世話をしている。

 といっても、コード家が厩舎に預けている馬は、グリ一頭しかいない。

 乾草を食むグリの毛並みを、ブラシで撫でた。


「報告2、グリと馬車を使用します。今後に備え、グラを随伴します。あなたはこれまで通り、グリを使いなさい」

「あれ? そんなに長期に渡る用事なんですか?」

「あなた自身の行動範囲を見直しなさい」

「……はい」


 掃除を終えたアーリアさんの言葉に、しゅんと俯く。

 確かにそうだ。僕がグリを使えば、馬車を引く馬がいない。

 お嬢さま方のご予定を乱してしまう。


 横を向いて咳き込んだ僕を見て、呆れ顔のアーリアさんがため息をついた。


「お嬢様、坊ちゃまへ風邪をうつさないためにも、寮管理者、もしくは保険医の元へ向かうこと。いいですね?」

「……わかりました」

「はい、確かに」


 首肯するアーリアさんのこの決まり文句には、『私は確かに聞き届けた。言質に反する際は、相応の理由を述べよ』の意味がある。こわい。


 めそめそしながらグリの世話を終える。


 朝の時間は急ぎ足だ。あっという間にお見送りの時間となった。

 御者台にアーリアさんが座り、馬車にお嬢さまと坊っちゃんがお乗りになる。

 心配そうなお嬢さまから、保健室へ行くようしっかりとお約束させられた。

 坊っちゃんは一度もこちらを見ることがなく、それが余計につらい。

 静々、扉を閉めた。


 しょんぼりした心地にふたをして、彼等を見送った。

 その足で、約束通り保健室へ向かう。

 お嬢さまとのお約束は、必ず履行しなければならない。


 朝だからいなかった、との言い訳を述べたかった。

 けれども、僕の思惑に反してノックに応答があり、ますます落ち込む。

 ……ままならない世の中だ……。


「失礼します。フィニール先生、風邪薬、ありますか?」


 朝の日差しが眩しい保健室に、銀髪の眩しい保険医がいる。

 椅子から立ち上がったフィニール先生が、細い眼鏡のフレームに光を乗せた。


 逆光ってすごく眩しいですね、先生。

 目がきゅっと細くなります。


「風邪ですか。熱は?」

「計ってません」


 開いた窓が、白いカーテンを揺する。朝の風はぬるかった。

 星祭りを過ぎれば、収穫祭へ季節は移行する。


 こちらへ近付いたフィニール先生の手が、僕の額に触れる。

 ひんやりとした体温が心地好い。

 僕の顔を覗き込んだ竜胆色の瞳が、けぶる睫毛を上下させた。


「体温計を出します。こちらに座ってください」

「……薬飲んだら、ぱっと治りませんか?」

「……きみは薬を万能だと勘違いしていませんか?」


 本日ふたりめの呆れ顔に晒され、肩身の狭い思いをする。

 ……失礼しました。ごもっともです。


 促されるままベッドの端に座り、手渡された水銀製の体温計を脇に挟んだ。

 フィニール先生が薬棚を漁っている。

 うう……、身体がだるくなってきたなんて、錯覚だ……!


「お薬いただけたら、大人しく教室へ戻ります」

「体温次第ですね」


 白い薬包紙を手にした先生が、グラスに水を注ぐ。

 両手のふさがった彼がこちらへ戻ってきた。簡単な問診を行う。


「症状は?」

「咳だけです」

「……関節に痛みは?」

「ありません」

「症状はいつから?」

「今朝です」

「今後症状がひどくなるようなら、医者の診察を勧めます」


 薬包紙を手渡され、脇から体温計が抜かれる。

 目盛りを読んだフィニール先生が、あんまり芳しくない数値を告げた。

 やだやだ! ただの気の迷いだもん!!


「これを飲んで、安静にしていなさい」

「ううっ」


 薬包紙を開き、中に収められた白い粉薬を口に含む。

 渡されたグラスはひんやりしていて、むせない内に水で流し込んだ。


 グラスを先生へ返し、手の中の薬包紙をくしゃりと鳴らす。

 僕の手から半透明の紙を抜き取った先生が、それを白衣のポケットへ突っ込んだ。


「ありがとうございます」

「オレンジバレーくん、少し休んでいきなさい」

「自室で休みます」

「……そうですか」


 眼鏡越しの目が、呆れたように細められる。


 もちろん大人しく自室へ帰る気もないので、今日は空中庭園へ行かないようにしよう。先生にばれる。

 殿下のところへは徒歩で向かわないといけないのだし、授業以外は図書室にいておこうかな?

 坊っちゃんのお部屋を掃除して――……、昨日から今朝にかけての坊っちゃんのご様子を思い出し、気持ちが沈んだ。

 坊っちゃん、まだ怒っていらっしゃる……。


「あ、れ?」


 脳内で予定を組んでいた。

 立ち上がった途端に、くらりと視界が回る。

 ふらついた身体をフィニール先生に支えられた。


 ……立ちくらみなんて、珍しい。ざあざあ血の気の引く音がする。

 視界一面が赤色に染まり、なんだか気持ちがざわついた。

 平衡感覚のなくなった身体が、何かに横たえられる。……多分、ベッド。

 ぐるぐるとしためまいのせいで、予測でしか状況を判断することができない。


 働きの悪い聴覚に、先生の声が届いた。


「少し、休んでいきなさい」


 目許にひんやりとした手が乗せられ、意識がふつりと途切れた。


 次に目を開けたときには、夕方だった。

 ぎょっとした。本当にあったこわい話かと思った。

 身体は軽くなっていたけれど、僕、なんのために登校したんだろう……!?


 情緒不安定に、お役目が、授業がと泣き出した僕に、あのフィニール先生が完全に引いた顔をしていた。

 覚束ない手で頭を撫でられ、「きみは真面目ですね」と慰められた。

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