04

 壁に凭れた体勢で、ベルが床に座り込んでいる。


 ようやく呼吸の落ち着いた彼は、リヒト様とリズリットさんに挟まれ、クラウス様を交えて談笑している。


「えええ……。リヒト殿下、何であんなに素早さ補正かかってるんです?」

「ほせい? よくわからないけど、ベル相手だと、力押しだけじゃ負けるって思ったから、頑張ってみたんだ」

「戦う気満々ですね!?」

「ベルくんすばしっこいから、とりあえず足狙おって思うんだよねー」

「こわい。両隣が仕留めにきてる……」

「ははは。まあ、あれだな。持久戦に持ち込むかなー?」

「クラウス様は味方だと思っていたのに……!!」


 ……そんなに談笑でもなかったみたい。


 でも、いいなあ。わたくしもああやって弱点や攻略法をお話したい。

 わたくしだって本当は手合わせしたいのに、ベルが発作を起こすから我慢しているのに。

 男の子はずるい。


「アル、あなたはベルと手合わせしたこと、あるのかしら?」

「いや、ない」


 さっぱりとした調子でアルが答える。

 体育座りをしている彼は、膝に乗せたベルの上着の銀細工で遊んでいた。


「それより、術の練習につきあえと言えば、喜んでついてくる」


 しれっと告げられた言葉に、その手があったのかと彼の顔を振り返る。

 退屈そうな黄橙色の目は、華奢なチェーンを映していた。


「今度、そのように誘ってみるわ」

「ああ」

「坊っちゃん、上着ありがとうございます」


 頭上からかかった声に顔を上げる。

 腰を屈めたベルは汗も引いたのか、いつも通りの微笑みを浮かべていた。


 彼の纏う白いシャツは、普段第一釦まできっちり留められ、リボンタイまで巻かれているのに、やっぱり暑かったのか首許が空いている。

 珍しい姿に目を細めた。


 いつの間にか、抱き上げられないくらい大きくなっていたベルは、思っていた以上に男の子っぽくなっていた。

 声だって低くなった。


 無言で、無造作にアルが制服を突き返す。

 はにかんだ笑顔でお礼を述べたベルが、早速それに袖を通した。


「ベルくん、もう着ちゃうの? 制服着崩してるの珍しかったのに」

「着崩したくて着崩していたわけではありません。僕はきっちり制服を着たい派です」

「真面目だー」

「お嬢さまと坊っちゃんのお傍にお仕えするのに、だらしない格好は出来ません」


 リボンタイを結びながら言われた言葉に、拗ねていた胸中が浮上するのがわかる。

 自分でも単純だと思っている。


 それでもやっぱり、わたくしのベルが、わたくしのことを思ってくれることは嬉しい。

 変わらない姿勢が、彼が彼なのだと教えてくれる。

 自然と口許が綻んだ。


 ジャケットの前を、銀色の鎖が横断する。

 てきぱきと身支度を終えたベルは、いつものベルに戻っていた。


「……おい」


 ベルの前に立ったティンダーリア様の姿に、思わずむっとしてしまう。

 彼があの子へ向けて放った言葉の数々、わたくしは忘れてなどいない。

 確かにちょっと意表をつかれたけれど、わたくしの宝物を侮辱するものは許せない。


 警戒心を強めるわたくしに反して、相変わらず退屈そうなアルは、床を指先でなぞっていた。


「お前が俺より強いことは認めよう!」

「まあ、あれだけボロ負けしてたらね」

「うるさいぞ、リヒト!!」


 茶々を入れたリヒト様に、ティンダーリア様が食ってかかる。

 苦笑いを浮かべたベルには怪我のひとつもなく、その点に関しては心底安心した。


 わたくしのベルが、あの方に負けるわけがないと確信していたので、勝敗については当然だと思っている。

 ティンダーリア様が、不遜に腕を組んだ。


「だが、エリーだけは駄目だ! お前には渡さんからな!」

「私が嫌よ。あなたみたいな猪」

「なっ、エリー!?」


 唐突に聞こえた、別の人の声。

 一段下げて作られている広場の、上階に位置するところから、冷めた半眼でこちらを見下ろす白髪の少女がいた。

 ティンダーリア様の身体が、ぎょっと竦む。


 手摺りから身を乗り出していた彼女が長い髪を払い、各所に設置された階段を下りた。

 華奢で色の白いエリーゼ王女殿下の登場に、慌てて立ち上がって頭を下げる。


 騎士団本部と、ここ演習場は、王城と同じ橋を越えた土地にある。

 リヒト様もそうであるように、王女殿下も顔を出しやすい。


 ベルがそのような話をしていたけれど……。

 だからってそんな、本当に来られるなんて思ってもみなかった!


「エリーゼ様! すみません、終わってしまいました」

「見てたわよ。あなたがお兄様に追い掛け回されてるところ」

「エリー? 言い方に悪意を感じるよ?」


 淡々とした王女殿下のお言葉に、ベルとリヒト様の表情が引きつる。

 ティンダーリア様が間に入ろうとするも、剣呑な赤い目が下から睨み上げた。


 ……こわい。

 ベルのことを無理矢理買収しようとしたり、わたくしはあまり王女殿下が得意ではない。

 半眼を正面へ戻した王女殿下が、素っ気ない口調で言葉を紡いだ。


「それに私、お付き合いするなら、断然この人がいいもの」

「エリーッ!?」


 真っ直ぐ向けられた人差し指が、ぴんとベルを指差す。

 ………………えええええええええええっ。


「あなたはいいわよね。大きな声も出さないし、落ち着いているし、温和だし丁寧だし。いじめたら素直に怖がってくれるし、何よりお兄様が最高に面白い顔をしてくれるもの」

「いじめてるご自覚がおありだったんですね!?」


 音が立ちそうな勢いで顔色を悪くさせたベルが、泣きそうな顔で抗議を上げている。

 対する王女殿下は愉悦に口角を持ち上げていて、ふたりの関係性が見えた。


 それがとても、とてもとてもとても胸の中に靄を生んでしまい、発言権が与えられていない現状を歯痒く思う。


 相手が王女殿下だからって、そんな横暴!

 ベルは! わたくしのベルは! 絶対に、断固として誰にも譲りませんから!!


「エリー? そんな不純な動機でベルに手を出すの? ぼく認めないからね?」

「お兄様に認めていただかなくて結構ですわ」


 ぴしゃりと放たれた冷水のような言葉に、体感温度が5度くらい下がったように感じる。

 リヒト様と王女殿下から発せられる寒々しい空気が、実はここが屋外だったと言っても信じられそうなほどの気温を作り出している。


 渦中にいるベルは今にも死にそうな顔をしており、蒼白な顔色のクラウス様が懸命に仲裁しようと間で手を振る。


 ティンダーリア様は別のショックで床に伏しており、小さな声で何かを呟いていた。


 表面上はリヒト様も王女殿下も笑顔のはずなのに、彼等の背後に禍々しい何かの幻覚が見える気がする。

 わざとらしい仕草で、妹君が口許を押さえた。


「あら。お兄様ったら、いつものお澄まし顔は何処に落としてしまったんですの?」

「ふふっ。ねえ、エリー。ぼく、きみに何か悪いことしたのかな? どうしていつも、ぼくの嫌がることばっかりするの?」

「よろしいのではなくて? 今のお兄様、最高に人間らしいお顔をされていますわ。不気味ではありませんか。いつもいつも何が楽しいのかにこにこされて」

「おかしいなー。ぼく、今もその不気味なにこにこ顔のはずだよ?」

「お兄様、鏡でしたらそこの曲がり角の先にありますわ。少々ご自分のお顔をご覧になったらいかがかしら? 宮廷画家に描かせたいお顔をされていますわ」

「ふふふー。ねえエリー、ちょっと向こうでお兄ちゃんとしっかり話し合おうか」

「嫌ですわ、お兄様。お兄ちゃんだなんて気色の悪い」

「え、り、いー?」


 流れるような毒物の応酬から、静かに目を背ける。


 あのアルまでもが、アーリアでさえもが顔色悪く俯いている辺り、この皮肉と毒舌の合戦は中々にえぐいものに分類されるらしい。


 見た目は完璧な笑顔のはずなのに、全く笑っていらっしゃらないリヒト様の器用さに戦く。

 いつもお優しいお顔をなされている彼の怒気に、リヒト様にも怒りの感情が備わっていたのかと驚いた。

 そう疑ってしまうくらい、普段の彼はにこにこしている。


 突然噴き出した王女殿下が、手の甲で口許を押さえながら笑い転げた。


「はっ、傑作でございますわ! お兄様にも人の心がおありでしたのね!」

「ごめんねー、ベル。エリー、ちょっと捻くれてるから、お付き合いには向いてないみたい。怖がらせちゃったね?」

「……ひゃいっ」


 今にも倒れそうな顔でクラウス様に支えられているベルが、ほぼ泣いている声音で応答する。


 顔を背けているリズリットさんも、わたくしたちと同じような表情をしていた。

 ごめんなさい、ベル。

 あなたは誰よりも間近で見てしまったものね……。


「殿下両方、きょうだい喧嘩は、お家でやってください!」

「嫌よ。部屋でまでお兄様と顔をつき合わせるだなんて」

「エリー、ちょっとお話しよう? ぼくは歓迎するからねー」


 つんと顔を背けた王女殿下と、笑っているのに笑っていないリヒト様の剣呑な空気が、いつ収束するのかわからない。


 起き上がったティンダーリア様までもが表情を引きつらせているため、現状、彼等に口出し出来る存在はクラウス様しかいなかった。


 ひゅ、と聞こえた呼吸音に、はたと顔を上げる。


 ベルが過呼吸を起こしかけてる!?

 慌てた様子のクラウス様が、手のひらで口を塞いでくださっているけれど、ベルの呼吸がおかしいことになっている!


「お二方! うちの子を挟んで喧嘩されるのは、やめてください!!」


 思わず叫んで駆け寄り、冷え切った手を握る。

 気休めになればと、癒しの術を行使した。


「ベルくん落ち着いて……! 吐いてー、息吐いてー!」

「ご、ごめんね、ベル! ああもうっ、怖がらせるのは本意じゃないのに……!」

「そっ、そんなに怖がることないじゃない! あなた公爵家に勤めているんでしょう? このくらい耐えられるようになりなさいよ!」

「はい、おふたりとも、ごめんなさいしてください」

「「ごめんなさい」」


 クラウス様の誘導に、お二方が素直に従う。


 混沌が回復した頃、王城にご用事のあったお母様が戻ってきた。

 わたくしたちのぐったりした様子に不思議そうなお顔をされたお母様は、平和の象徴のような微笑みを浮かべていらっしゃった。


 お母様……あと5分、せめてあと5分お早くお戻りになられていれば……。

 わたくしの仕様のないたらればが、喉の奥に引っ掛かった。

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