04
「ノアさんのお母様のお名前は、クロエさんですか?」
使用人部屋で切り出した言葉に、紅茶を注いでいたノアさんの手が止まる。
何ごともなかったかのように動作を再開させた彼が、ソーサーごとティーカップをこちらへ差し出した。
「違うと言って、きみは信じるか?」
「いいえ」
「誰から聞いた?」
険のこもった声音だった。
今日もアイザックさんには席を外してもらっている。
退室間際、心配そうにこちらを振り返った彼が、僕の頭をわしわし撫でて行った。
多分、僕の顔色は、あまり良くはない。
ノアさんのベッドに座り、国王陛下から受けた命の一部を伝える。
陛下がクロエさんの子どもを捜している。
それを聞いたノアさんが、無表情でカップに口をつけた。
「つまりきみは、王子殿下のために、俺を売るということだな」
「ち、違います!! そんなつもりじゃ……!!」
「違わない」
僕の正面に立ったノアさんの底冷えした声に、冷や水を浴びせられたような心地になった。
陛下の要求は交換条件だ。
リヒト殿下を解放するために、ノアさんを差し出す。
そのあとのノアさんの処遇について、僕は何も聞かされていない。
リヒト殿下のために、ノアさんを売る。
そんなつもりじゃなかったのに、図式ではそうなってしまっている。
「ちがっ、ちがうんです! そうじゃない、そうじゃないのに! でも、どうしたら……ッ」
ただ、リヒト殿下を助けたいだけだ。
いくら宰相閣下に手紙を送ろうとも、最高権力者が頷かなければ事態は改善しない。
このままだと、殿下の御身は危ない。
どうにかして、外へ連れ出したい。
けれども、それにはノアさんを犠牲にしなければならない。どうしたら……!
「……すまない。いじめすぎたな」
頭を抱き寄せられ、緩く背を撫でられる。
前屈みになったノアさんのため息が、頭上で聞こえた。
「すまない。大人気なかった。……少し、昔話に付き合ってくれ。俺には、愛していた人がいた」
ノアさんの声は微かだった。
とんとんと宥めるように背を叩かれ、自分の視界が滲んでいたことを知る。
ノアさんの手が、僕の膝からカップを遠ざけた。
「相手は、当時俺が勤めていた先のご令嬢だった。身分違いの恋だ。思いを告げることはなかったが、それでも傍にあれて幸せだった」
初めて聞いた、ノアさんのいとおしむ声。
どこか悲しげなそれが、明確に言葉にされる。
「結局、思いを一生告げることはなかった。フロラスタ家に家を潰され、お嬢様はこの世を去ってしまった。……元々、あまり身体の丈夫な方ではなかったんだ」
腰を屈めたノアさんが、僕の目許を指の背で拭う。
表情は柔らかなはずなのに、彼の笑顔は仄暗かった。
「俺の目的は、ローゼリアに私怨を晴らすことだ。……長かった。ようやく、ここまで揃った」
ノアさんは笑顔だった。
美しいほどに儚く、ぞっとするほどきれいな微笑みだった。
「きみたちには感謝している。ミュゼット様がいるだけで、あれは平常を失う。更には、
「ノアさん……っ」
「ここまで揃えたんだ。もうすぐ。決して仕損じてはならない。焦るな。
……だから、俺の邪魔をしないでくれ。俺には俺の事情がある。きみも忠義に生きるなら、俺の気持ちがわかるだろう?」
優しく頬を撫でられた。時々リヒト殿下がする仕草だ。
ゆったりと、彼は微笑んでいる。
「立場や家柄など関係なく、俺は、ただのノアとして、全てを清算したいんだ」
ノアさんは、フロラスタ家に勤めて長いと言っていた。
その間、ずっとこの復讐心を抱え続けていたのだろうか?
敵討ちなんて、復讐なんて。
……そう思うけれど、もしも僕がノアさんの立場なら、もっと直接的な方法で、簡単に報復へと走っているだろう。
彼の思考が理解できてしまうことが、つらい。
何と返せばよかったんだろう? 許容量を越えた悩みごとがぐるぐる回って、最適解が見つからない。
ノアさんが僕の頭を撫でた。
ぬるくなった紅茶を差し出される。
はじめて口をつけたそれは、この場に似つかわしくないほどおいしかった。
*
「ベールナールドー!」
陽気に二年生の教室を開けたのは、フロラスタ家の従者のひとりである、アイザックさんだった。
今日もにこにこと人懐っこい笑顔で、こちらへ手を振っている。
けれども彼の左の頬は若干腫れていて、唇の端が切れていた。
「アイザックさん!? どうしたんですか!?」
「聞いてくれよ! 上がさ、ミュゼット様の私物にいたずらしろって言うんだぜ!」
「あ、いや、僕が聞きたかったのはお怪我の具合で……ええっ、困ります。嫌です。させません」
やだやだ、首を横に振って拒否を示す。
ちなみにこの場には、渦中のお嬢さまも、クラウス様もエンドウさんもいらっしゃる。
ノアさんからもらったフロラスタ様の時間割を元に、僕はあの人との遭遇率を調整していた。
今はお嬢さまに近付いても大丈夫な時間だ。
そこへやってきたアイザックさんが、明け透けにこんなことを言い出すのだから驚いた。
さすがのお嬢さまも、困惑のお顔をされている。
「なー、無理だよなー? なんせこんなにガードかたいもんなー。いやあ、さすがに無理だなー!」
ひとり大袈裟にうんうん頷いたアイザックさんが、両手を挙げる。
盛大なため息がつかれた。
「これはもう、お手上げだなー!」
「そうかー、お手上げかー」
「お手上げだー!」
クラウス様と『お手上げ』を繰り返し出したアイザックさんが、くるりとこちらを振り返る。
明るい笑顔で片手が振られた。軽やかに片目が閉じられる。
「んじゃあ、俺戻るな!」
「あ、あの!」
立ち去ろうとしたアイザックさんを呼び止めたのはお嬢さまで、弱り切ったお顔で頭を下げられる。
ぎょっとしたアイザックさんが、あわあわと体勢を低くした。
「ちょっ、ミュゼット様、お顔上げてください!」
「ありがとうございます。今回のことも、いつもベルを守っていただいて、ありがとうございます」
「あーいや! 俺たちはノアの指示に従ってるだけで……ほら、ベルナルドも巻き込まれてるだけだし!」
「お礼に、あなたの怪我を治させてくださいませ」
「せ、聖女さまがいる……!!」
お顔を上げたお嬢さまが、アイザックさんの頬に手を添える。
ふわりと揺れたお嬢さまの御髪に合わせて、揺蕩う円陣が左回りに一周した。
「……あまり治してしまうと、怪しまれてしまいますわね……。この程度になってしまい、申し訳ございませんわ……」
「ええっ、すげえ! 痛み引いた! うわっ、ありがとー! 実は飯食うのもつらかったんだー!」
お嬢さまのお手が離れ、アイザックさんの頬の腫れが幾分かマシになる。
瞳を輝かせた彼が何度か自身の頬を擦り、お嬢さまのお手を取って、ぶんぶん上下に振った。
明るい声で何度もお礼を述べられる。
お嬢さまの清らかな御心と溢れんばかりの慈愛、ベルナルドは誇りに思います……!
感激です! お美しゅうございます、お嬢さま!
「……って、やべ! もうこんな時間か!」
掛け時計を見上げたアイザックさんが、慌ててお嬢さまから手を離す。
にぱ、人好きの笑みが浮かべられた。
「ミュゼット様、ありがとー! ベルナルド、またあとでな!」
ちゃおー! 大きく手を振ったアイザックさんが、二年生の教室を後にする。
嵐のような後姿へ手を振り返しながら、ぽかんとした。
「アイザックさん、何のご用事だったんでしょう……?」
「ミュゼット嬢の私物へいたずらだろ」
「充分な警戒をいたします」
背後に控えていたアーリアさんが、腰を折る。
暗に、この一度切りではないのだと、アイザックさんは知らせに来たのだろう。
クラウス様の言葉に、神妙な心地に陥ってしまう。
アイザックさんが虚偽の報告をするかしないかで、彼はまたフロラスタ様から罰則を受けてしまう。
この頃、彼等の受ける怪我の具合がひどいように感じる。
ノアさんですら、頬にガーゼを貼っている日がある。
僕はあまり話したことがないが、同じ従者のマシューさんは眼帯をつけ、エドさんはお身体を庇うように歩かれていた。
……とても、心配になる。
ノアさんは僕を、目の前にぶら下がったエサのように称した。
そして、お嬢さまのご様子にお変わりはない。
フロラスタ様は、とても苛立っている。……注意しなければ。
その数時間後にお会いしたアイザックさんは、ハンカチを鼻血でぼたぼたに汚していた。
マシューさんに介抱されていたが、俯く彼等の疲弊具合に胸が苦しくなる。
クラウス様の氷で冷やすことになったが、中でも特に、エンドウさんが思案気な顔をしていることが気に掛かった。
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