05
全く、どういうことかしら!
その令嬢は焦っていた。
息を潜めて、足音を立てないよう階段を上り、そっと扉に張り付く。
授業中である現在は人の声も遠く、彼女自身の呼吸音がやけに大きく聞こえた。
誰かに聞かれているのではないだろうか……そのような妄想に掻き立てられる。
彼女はローゼリア・フロラスタの取り巻きのひとりだった。
今現在、彼女はローゼリアの指示を受け、ミュゼット・コードの私物を壊しに向かっていた。
正直、彼女は気乗りしていなかった。
しかしここで反感を買ってしまえば、家に何をされるかわからない。
フロラスタ公爵家のわがまま令嬢は、機嫌ひとつでパパにおねだりしてしまう、恐ろしい人物だった。
そっと扉を開け、隙間からロッカールームを覗き見る。
消灯された室内は薄暗く、誰の気配もしない。
無機質な箱が整列している空間は薄気味悪く、意を決した彼女は、ミュゼットのロッカーを求めて扉を潜った。
まるで、スパイにでもなった気持ちだわ。
彼女がそっとロッカーの陰に隠れる。
事前に知らされた番号と、ダイヤルの書かれたメモ紙をくしゃりと握り、上履きが床と擦れる音を立てた。
そーっと、そ-っと、彼女が二年生のロッカーへと近付く。
もしもこれが失敗したら、わたしもローゼリア様の従者のようになってしまうのかしら……?
不意に脳裏を過ぎた疑問に、彼女がぶんぶん首を横に振る。
しかし彼女の顔色は蒼白で、小刻みに身体が震えていた。
この頃のローゼリア様はおかしい。
あんなにもご自慢されていた従者たちを、顧みることなく暴行されている。
先日は扇子の骨がぶつかったのか、従者の方の鼻血が止まらなかったわ。
その前はティーセットを次々と投げられて、何人かの従者が怪我をしていたわ。
……今度は、わたしが標的なのではなくて?
そこまで考えた彼女が、表情をぞっとさせる。
冗談じゃないわ! どうしてわたしが痛い思いなんてしなければならないの!
ああっ、でもローゼリア様に歯向かっては、家を没落させられてしまう。
それもこれも、全てミュゼット・コードが生意気なのがいけない!
さっさとローゼリア様の言うことを聞いて、大人しくすればいいのよ!
窃盗と損壊に対する罪悪感を捨てた彼女が、ミュゼットのロッカーのダイアルを回す。
かち、かち、……かち、かたん。
震える指でも呆気なく開いた鍵に、固唾を呑んだ彼女がロッカーを開いた。
整列された教科書を、むんずと掴む。
「おっと。そこまでだぜ」
「ひっ!?」
突然、背後からかけられた声に、弾かれたように彼女が振り返る。
そこにいたのは、桃色の短い髪に、適度に制服を着崩した男子生徒だった。
にっと口角を持ち上げた彼が、一歩二歩と彼女へ近付く。
彼の両手は、ズボンのポケットに突っ込まれていた。
「いけねぇお人だ。おいたが過ぎるぜ。今ならその持ってるもん返せば、見逃してやるぜ?」
「こ、来ないで……!!」
動転した際、ぶつかった中身が崩れ、彼女の足許にロッカーの中身が散らばる。
落下の激しい音がした。ますます彼女が慌てる。
震える彼女が折れた教科書を掴み上げ、踵を返して逃げ出した。
眉をひそめた男子生徒がそれを追う。
脚をもつれさせる彼女が扉を開けるより先、彼がそれを塞ぐ方が圧倒的に速かった。
だんっ、扉が派手な音を立て、片腕をついた男子生徒に彼女が閉じ込められる。
いわゆる壁ドンだ。
「お嬢さん。そいつを返しな」
低過ぎず、高過ぎない声に囁かれ、このような状況だというのに、彼女の頬はのぼせていた。
彼女を見下ろす若葉色の瞳はゆるりとしており、口角を持ち上げた表情は端整だ。
至近距離で見詰めた整った顔立ちに、彼女は見惚れた。
ぽう、と反応のない彼女を不審に思い、小首を傾げた男子生徒が、彼女の顎をくいと持ち上げる。
瞬間、これ以上火照るまい。それほど赤かった彼女の顔が、限界を超えた。
「折角きれいな手ぇしてんだ。汚すにゃ勿体ねぇぜ?」
耳許で低く囁かれ、後に彼女は「耳が孕んだ」と証言した。
頭の中で祝福の鐘が鳴り響き、天使が花びらを撒き散らす光景が見えたらしい。
そこからどうやって保健室のベッドへ辿り着いたのか、彼女は覚えていない。
ただうわ言のように、「桃髪の王子様……」と熱っぽく呟き、今日も広い校内をさ迷い歩いているそうだ。
「……なんていいますか、エンドウさんって罪深いですよね」
「そうだなー」
「何してんだ、兄ちゃんら。そんなとこにいねぇで、お嬢さんのロッカーを復元してくれや!」
気絶した女子生徒を横抱きにしたエンドウが、ひょこりと顔を覗かせたベルナルドとクラウスへ、ロッカーの惨状を伝える。
神妙な顔付きのクラウスが、まじまじとエンドウを見下ろした。
……こいつ、本当に女なんだよなあ……?
彼の顔は怪訝そうだ。
その後、折れた教科書はベルナルドのものと交換させられ、ミュゼットのロッカーは元通りとなった。
ミュゼットはミュゼットで、自分のものでない教科書にあわてふためき、ベルナルドのものだと知った途端に、更に自主的に厳重に管理するようになった。
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