02
高い空に、伸びやかな鳥の鳴き声が響く。
空中庭園を抜ける風は柔らかで、鉄柵に撒きつく蔦には、青々とした葉が茂っていた。
徐々に春の季節から、新緑の季節へと移行している。
冬場は停止していた噴水も水を循環させ、小道の水路が日差しを反射している。
膝の上にレシピ本を開き、時折強く吹く風に煽られないよう、頁を押さえた。
隣にどすりと座ったノエル様が、不満そうに脚を組む。
「先輩って、結構無神経ですよね。初めはあんなに怖がってくれたのに」
「毎日やられれば、さすがに耐性もつきますよ。こんにちは、ノエル様」
「はいはい、コンニチハ。もっとぐちゃぐちゃに怯えてくださいよ」
「きゃー」
「せめてこっち見て言ってくれませんか?」
レシピ本から顔を上げ、眩しい視界が半眼のノエル様を映した。
不貞腐れたように頬杖をつく彼に、小さく笑みを向ける。
「これでも、結構傷付いているんですよ?」
「じゃあ、もっとわかりやすく表現してください」
「そういわれましても……」
ますますじっとりと睨まれてしまい、困惑してしまう。
悪感情を抱かれるような心当たりもない中、こうも直接的な悪意を向けられて、落ち込まないはずがない。
しょんぼりと気に病んでしまうが、リヒト殿下が目いっぱいお世話させてくださるので、僕の均衡は保たれている。
坊っちゃんは、相変わらずお世話の隙を見せてくださらない。
その点においても、僕は悲しい。
おかしいな、僕の主人は坊っちゃんのはずなのに……。
「何すれば、先輩はもっと嫌がってくれますか? ひどい目に遭ってもらいたいんです」
「……失礼ですが、僕は、ノエル様に何か無作法を働きましたか……?」
「先輩が目障りなんです」
「あ、はい」
ばっさりと言ってのけられて、心の柔らかいところがぐさりと音を立てる。
何だろう、この暴風雨に晒される心地……。
目障りなら、近付かなければいいのに……。
一先ず、苛立っているノエル様の様子を窺う。
じと目の彼は、にこにこしているときよりも素の表情に見えた。
「痛いのは嫌いですよ」
「外傷なんて作ったら、俺に不利です。却下」
あ、はい。思わず高い空を見上げる。
……それはつまり、外から見えない心の傷を作りたい、ということですね。
わかりました。お断りします。
そう考えれば、僕の周囲にいる人物への危害も、彼にとって不利益となるから行わないだろう。
ノエル様のお家は伯爵家で、爵位が敵わない。
だからこそ、使用人の僕を狙ったのかも知れない。
はあ、小鳥の鳴き声が微笑ましいなあ。
「先輩に水かけても、しれっとされそうですし」
ノエル様が零した物騒な計画に、不意に脳裏を、ゲーム内に出てきたリヒト殿下が過ぎる。
嫌がらせで水を被ったヒロインへ、指ぱっちんで使用人を呼んで、『彼女に制服を』というあのシーン。
……僕はこれまで、エンドウさんが嫌がらせに遭っているところを見たことがない。
そもそも、ヒロインの定義が揺らいでいる……。
くっ、平和が一番だけど……!
じゃあ、せめて指ぱっちんだけでも達成させなければ……!
「……驚きはしますよ」
「もっとメンタルボロボロになって、咽び泣くとかしてください」
「えええ……」
指ぱっちんを脇に置き、ノエル様にお返事する。
つっけんどんに返され、困惑した。
ノエル様、どうしてそこまで殺伐とされていらっしゃるのですか……?
僕は何か、お気に障ることを仕出かしてしまったのでしょうか……?
悩み深く身動ぎすると、ポケットの中で乾いた音がした。
そうだ、と思い立ち、ジャケットのポケットに手を突っ込む。
ふたつ取った銀紙の包みを両手に握り、ノエル様、彼を呼んだ。
「どっちでしょう?」
いつもされてばかりなので、たまにはやり返してみようと、悪戯に口角を持ち上げる。
ぽかんとしたノエル様が、一瞬泣きそうに顔をしかめた。
はたと瞬いた後には呆れ顔で、内心首を傾げる。
ノエル様が半眼を作った。
「……何の真似ですか?」
「あはは、なんちゃって。この前見つけたチョコレートなんです」
手を返して、ぱっと開く。
ころりと手のひらを転がったのは、赤色の包みと白色の包みの、真ん丸なチョコレートだ。
両端の捻られたそれが、陽光を受けてきらりと輝く。
色とりどりの銀紙が賑やかで楽しそうだったので、坊っちゃんとリヒト殿下のお茶請けにと購入したものだ。
どうぞと差し出したそれに、ノエル様が神妙な顔で口を噤む。
彼が胸の辺りを握り締めた。
「えっと、包装が違うので、味が違うのかなと勝手に期待しているんです。おひとついかがですか?」
「……どっちが、当たりなんです?」
「うーん、……どちらも当たりだと思います」
「意味、わかりません」
掠れた声を振り絞り、一層悲痛に顔を歪めた。
苦しそうな様子に、ノエル様が心配になる。
恐る恐る赤い包みを手にした彼が、慎重にそれを引っ張った。
回転した包装が剥がれ、中からこげ茶色のチョコレートが顔を出す。
僕も手許に残った白い包みを、同じように開けた。
「――ふふっ。中身、おそろいみたいですね」
「……ッ!!」
ころりと転がった、こげ茶色の丸いチョコレート。
外見が違うだけだったらしいお菓子に、引っ掛かったと笑う。
唐突に立ち上がったノエル様が、走って出て行ってしまった。
唖然と、外階段を駆け下りる音を見送る。
え? ええっ、どうしたんだろう……?
具合、悪かったのかな……?
今日は一段と不思議だな……?
ふと、今日は『運試し』をしていないことに気付いた。
それは良いことなんだけど……ええっ、追った方がいいのかな?
でも僕、ノエル様の活動範囲なんて知らない……。
あとで坊っちゃんにご様子をお尋ねしよう……。
*
「……ねえ、クラウス」
「なんすか、殿下」
移動教室で廊下を渡りながら、リヒトが口を開く。
隣を歩くクラウスが、目線を正面から眼下の金髪へ落とした。
「ただでさえぼく駄目人間なのに、ここのところ駄目人間製造機のベルに、ものすごく駄目人間にされてるんだ」
「駄目人間が駄目人間になっただけじゃないすか。問題ありませんよ、殿下」
駄目人間を連呼するふたりが、歩みを止めないまま踵をかつかつ鳴らす。
歩幅の大きなクラウスはゆったりとしており、リヒトは歩き方教室の手本のような姿勢を保っていた。
じっとりと、リヒトが碧眼を睨ませる。
「大有りだよ。これでベルの派遣期間が終わってみて? 残されるのは駄目人間になったぼくだよ? ぼくのことは遊びだったんだ?」
「殿下が言うと、洒落になんねーすわ……。楽しそうで何よりっすね」
「ベルとアルバートには申し訳ないんだけど、毎日がすごく楽しい……!」
教材を抱えた手に顔を埋め、リヒトの柔らかな金髪が揺れる。
嬉しさがいっぱいといった仕草に、クラウスが呆れ顔で微笑んだ。
前向きましょーねー。やる気ない声に、もたもたと金髪が揺れる。
「今朝もね、お弁当作ってるベルが、『玉子焼き、あまいのとしょっぱいの、どっちがいいです?』って聞くの」
「へえ」
「どっちでもいいよって返したら、何でかじゃんけんを始めてね。ぼくが勝ったんだけど、そしたら『じゃあ、あまいのですね』ってくれたんだ!」
「殿下、輝き5割増っすわ。もうちょっと光度落としてくれません?」
クラウスへ向けられたリヒトの輝かしい笑顔に、真正面から食らった彼が、手のひらで影を作る。
窓から差し込む光と相俟って、クラウスの目は閉じているのと変わらない細さまで絞られていた。
そんな彼に構うことなく、リヒトがうきうきと言葉を続ける。
「だいぶんぼくの部屋にも慣れてくれたみたいで、掃除ついでに探検してるみたいなんだー」
「なんすか、洞窟でもあるんですか?」
「窓が小さくて日当たり悪いし、ある意味あの寮全体が洞窟だよね」
「鍾乳洞作りましょうよ」
「えー。卒業するまでに見れるー?」
気のない会話をぽんぽん続けながら、彼等が階段を上る。
遠くから聞こえる休憩時間のざわめきに靴音を混じらせ、リヒトが小さく笑みを零した。
「まあ、度々落ち込んではいるんだけどね、ベル」
「体裁整えるの、上手いっすよね。とりあえず顔色には気にかけてますよ」
「うん。それで励ますつもりでお世話してもらってるんだけど、駄目だね。駄目人間にされる。快適がこわい」
「はははっ、ベルも使用人冥利に尽きますわ」
こわいこわい、と呟きながら、踊り場を曲がる。
リヒトがやんわりと微笑んだ。
「まだベルと一緒には寝れてないんだけどね、」
「……クマちゃんのぬいぐるみあげるんで、ひとりで寝てくださいよ、殿下」
「ベル違いかな。でも、最近ガードが緩くなってるんだ」
ぴたりと一瞬動きを止めたクラウスが、内心冷や汗を掻きながら最後の段に足を乗せる。
表面上、若干引きつった笑みを浮かべているが、彼の胸中は「どうしよう」と大慌てだった。
そんなクラウスに構うことなく、夢見がちにリヒトが顔を上げる。
「最終的に、草原に寝転がって、流れ星を探したい」
「……殿下、意外とメルヘンですね。普段どぎついリアリストのくせに」
「これでも一応、少年の心は忘れてないから。干草のベッドとかに憧れてるから」
「はー、意外っすわ~」
ほっと息をついたクラウスが、干草ねぇ、と相槌を打つ。
「厩舎のワラにシーツ巻いてやりましょうか?」
「やだー」
彼等が指定の教室に辿り着いた。
クラウスが薄い扉を開き、リヒトが中へ入る。
自教室と同様の造りをしているそこの適当な席に、リヒトが抱えていた教材を置いた。
賑やかな室内は授業開始まで時間もあり、談笑に弾んでいる。
椅子を引いたリヒトが、物憂げにため息をついた。
「ベルが近くにいるから、やりたいことがどんどん出てくるのに、ぼくの行動範囲が狭いんだよなあ……」
「あれっすね。殿下が王子様廃業して、コード領にもらわれたら万事解決っすね」
「それだクラウス! 天才! ぼくが王位継いでたら、アリヤ領あげてた!」
「あれー? 俺の実家アリヤのはずなんすけど、でんかー?」
再び笑顔を引きつらせるクラウスに構うことなく、ご機嫌な調子で椅子に座ったリヒトが、にんまりと考え事を始める。
……ああ、やっちまったぜ……。
クラウスがひとり静かに懺悔の言葉を口にした。
目許に手のひらを当て、自然光の反射する白い天井を見上げる。
これからは、もうちょっと脳みそ通して会話するわ……。彼の胸中が教訓を述べた。
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