演習場立て篭もり事件
今わたくしは、とても緊張した場面に立っている。
相手を刺激しないよう、静かに上げた両手。
吸い込んだ空気が、嫌に喉を干乾びさせた。
「落ち着いて、ベル。落ち着いて、落ち着くの。大丈夫、落ち着いて」
「ぐすっ」
残念なことに、交渉しているわたくしが、全く落ち着いていない。
胸中で唸り、必死に言葉を探す。
けれども動転しているわたくしの口から零れた言葉は、結局「落ち着いて」だった。
事の発端は、実に単純だった。
領地の私兵の訓練に、ようやく三角巾の取れたベルも参加するようになった。
それまで見学だけで、彼自身随分やきもきしていたらしい。
落ちた体力を取り戻そうと駆け回る彼は、とても生き生きしていた。
屈強な軍人さん方から指導をもらえ、練習試合を重ねる。
アーリアとベルがよく手合わせしていたのは、わたくしの記憶にも深く残っている。
そんなベルが、リズリットさんと手合わせした。
わたくしも混ざりたい。
そう思うのは、お転婆なことだったのかしら。
次のベルの試合相手に、ぴんと手を伸ばして立候補した。
これでもわたくしも、日々着々と演習を積んでいる。
「わたくしと手合わせ、」まで言葉を発したところで、鮮やかな仕草で暗器を抜いたベルが、瞬きよりも短い速度で、自身の喉に切先を当てた。
ぽかんとする間もなく、顔面を蒼白にしたベルが口を開く。
「なりません……、なりませんお嬢さまッ! 例えお嬢さまのご命令であろうとも、その命にだけは従えません!!」
「えっ、待ってベル、まずはそれ下ろして……っ」
「演習といえどお嬢さまへ刃を向け、お嬢さまの御身にお怪我を負わせる危険を冒すなどっ、そのような叛逆行為! ベルナルドは忠犬でありたいのです! お嬢さまへ造反を働き、お守り出来ないこの身ならば、今ここで喉を掻っ捌き自害します!!」
「待って待って待ってベル!? 落ち着いて! 落ち着いて!?」
びっくりした。泣き出したベルの、突然の自害発言だ。
それも実行力を伴っている。
待って待って待って。わたくし展開についていけてない。
まだ声変わりを迎えていないベルの声は良く通り、誰もが唖然と彼とわたくしを見詰めた。
そしてその表情を引きつらせた。
完全に恐慌状態へと陥っているベルは、ひとたび誰かが発した体重移動の軋む音を聞くなり、喉へ加える圧を深くした。
遠目に窺える白い首筋が、赤い玉を浮かび上がらせ、静かに零す。
その光景に冷や汗が流れた。
私兵に緊張が走る。
その緊張感に、余計ベルの警戒心が跳ね上がった。
肌に触れる空気が、ピリピリと痛い。悪循環だ。
わたくしはわたくしで大変動揺してしまい、「落ち着いて」以外の言語を忘却してしまったようだ。
恐らくきっと、現状の打開に頭を悩ませている人たちの中で、誰よりも混乱していると思う。
唯一わかったことは、わたくしは軽やかに彼の地雷を踏み抜いてしまったという事実だ。
そしてその発見は、現時点の膠着状態を解除するのに、あんまり必要でないことだった。
今後に役立てるためにも、今彼の恐慌を解かなければならない。
「落ち着いて、落ち着くの」既に何度も繰り返している言葉が、冒頭に繋がる。
すん、鼻を啜ったベルが、静かに目を閉じて震える声を零した。
「この身果てるまでお供出来ない罪過をお許しください。……お嬢さまの御身に、幸多からんことを」
「落ち着きましょう!?」
もう完全に命を絶つ気でいる、この子!!
祈りの言葉を口にしてる!!
全力で制止を叫び、必死に頭を働かせる。
アーリアがベルの後ろへ回ろうとするも、一歩動く毎に出血量が増す。
苦虫を噛み潰した顔で、アーリアが止まった。
実力行使が無理なら、やはり言葉で彼を落ち着かせるしかない……!
わたくしとベルの間は、目測3メートル。
アーリアとはおよそ2メートル。
白い石造りの床に、刃物を伝った赤が数滴落ちる。
軍人さん方は、それよりも離れている。
彼等が行動を起こすよりも先に、ベルが喉を裂いてしまう方が圧倒的に速いだろう。
まさか修練が、こんな形で裏目に出るとは……。
誰かが言っていた。
暴動の制圧より、人質を取られる方が厄介だと。
まさか身を持って経験するとは、思いもしなかった。
「坊主、落ち着け。お嬢が困っている」
私兵のひとりの言葉掛けに、ベルが左右に首を振った。
あああっ傷口が広がってるううう……!
「お嬢さまを煩わせる存在に自身が該当するのであれば、喜んでこの命滅しましょう」
「喜ぶな。止まれ、思い直せ」
「お嬢さまをお守り出来ないこの身に価値などありません。本来であればお嬢さまを害する両の手を切り落とし、口を縫いつけ首を落とすところですが、何分自害のため簡易的になることをご容赦ください。せめて余り汚さないよう務めますので、何卒……ッ」
「ベルくんの心の深淵深過ぎない? 大丈夫?」
流れる猟奇的な発言に、ふっと意識が遠くなる。
ダメだわたくし、しっかりしろ。
ベルはちょっと思い込みの激しいところがあるだけで、後はほとんど穏やかな礼儀正しい可愛い子だ。
そう、ほんの少し表現方法が独特で、過激なだけだ。
私兵の皆さんとリズリットさんが、引きつった顔をしている。
……うちのベルがすみません……。
胸中で頭を下げた。
「ベル、落ち着いて聞いて。……何もなかった。白昼夢だったの」
「はくちゅうむ」
両手で制する私に、ベルが辿々しい声で復唱する。
ええ、そう。相槌を打った。
全てなかったことにする作戦だ。
「悪い夢だったの。夢だから何もなかった。都合の悪いことも不具合も、何もなかったわ。何もなかったの」
「なにもなかった」
ぶつぶつ呟いたベルが、ふっとナイフを持つ手を緩める。
たったそれだけの動作で、強張った身体に安堵感がしみた。
いやでも、予断を許さない。
ナイフから手を離すまでが勝負だ。
ピンと張り詰めた空気に、ぽつりとベルの声が響く。
「……お嬢さまのお言葉を僕が聞き間違えるはずも聞き逃すはずもましてや聞き漏らすはずもありません。あれは現実でした」
「どうしてそっちに拗らせちゃうかなー……」
「いい加減にしろ!!」
固唾を呑んで様子を見守っていたリズリットさんが天を仰ぎ、果敢にもつかつかと歩み寄ったアルが、ベルの額をぺん! 叩いた。
そのまま胸倉を掴みあげた義弟が、こちらに背を向けて怒鳴る。
最早脊髄反射なのだろう。
主人の登場に、がくがくされながらもベルが速やかにナイフを仕舞った。
「いつまで茶番を続ける気だ! 時間は有限なんだぞ!?」
「も、申し訳ございませんッ、坊っちゃん! ですがっ、ですがベルナルドは……!!」
「うるさい! 大体お前が死んだら、僕が困るだろう!」
「坊っちゃん……!」
「あと無闇に死体を出すな! 手続きと処分が面倒だ!!」
「坊っちゃん!?」
あっ、この子効率主義だ、と思った瞬間だ。
あと照れ隠しの反動がえげつない。
ベルが違う意味で涙目になっている。
問答無用で引き摺られるベルの姿に、深い息をついて両手を下げる。
……非常に緊張した。
まさか自分の軽率な発言ひとつで、ああも震撼する出来事が起こるなんて思いもしなかった。
これはもう、わたくしがベルより強くなって、演習くらい大丈夫だと知らしめなければならない。
わたくし、もっと精進いたします。
ため息と苦笑を漏らした私兵の方々へお詫びを入れ、新たな決心を伝える。
アーリアを含めた皆さんが遠い目をした。
アーリアの肩を軍人さんが叩く。
リズリットさんが「何でそっち行っちゃうかなー……」再び天を仰いだ。
……わたくしも強くなりたい。
そう思うのは、お転婆なことなのかしら……。
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