04

「夜分にすみません、リヒト殿下」

「ううん、構わないよ。どうぞ入って」


 突然の来訪にも関わらず、快く受け入れてくれた部屋主が、広間へと通してくれる。

 お飲みもの、お淹れしますねと呟き、一時期に使い慣れた台所に立った。


 就寝用のショルダーホルスターを晒したままの格好は不躾だけど、上着のことを考える余裕がなかった。


 自動的に動く手がミルクを温め、お休み用のミルクティを完成させる。

 ソファに座るリヒト殿下の前に茶器を置き、静かに頭を下げた。


「殿下、どうぞ」

「ありがとう。ベルの分は?」

「……いえ、僕は」

「春先といっても、夜は冷えるよ。シャツ一枚じゃ寒いでしょう?」

「……失礼します」


 いつもより回りにくい頭では、上手く言葉を捻出することが困難だ。


 適当にお茶を作り、殿下の対面に茶器を置く。

 身を屈めた僕の肩に、ブランケットがかけられた。

 冷えていた身体を自覚するぬくもりに、はたと顔を上げる。


「ベル、顔色悪いよ。座って」


 気遣うようにこちらを覗き込む殿下に、ブランケットのお礼を述べて断りを入れる。


 俯いた視界が血色の悪い手の甲を映した。

 クリーム色をした手触りの良い布をかけ直しながら、リヒト殿下が口を開く。


「アルバートのこと?」

「……はい。殿下はもう、ご存知だと伺ったので」

「うん」


 穏やかな相槌に、息を吸って、膝に置いた手を固く握る。

 吐き出す仕草に合わせて、音を乗せた。


「僕自身、坊っちゃんのご提案に賛同しています。何と言いますか、ノエル様は危うい感じ……でしょうか。追い詰められた状態にも思えて、僕がいては足枷になってしまいます」

「追い詰められてる?」

「まだ、数回しかお話したことはありませんが、……ご本人様も、『幸運が欲しい』と仰っていました」

「幸運ね……」


 ミルクティを引っ張ってきたリヒト殿下が、僕の隣に腰を下ろす。

 こちらを見詰める視線を俯いて逸らし、ブランケットの縁を目で辿った。


「気にし過ぎ、かも知れませんが……。ノエル様はいつも、僕にふたつのお菓子を差し出します。ひとつを選ぶよう指示されるのですが、そのときが特に危うい印象で……」

「二択なんだ? それで幸運を?」

「そのようです。僕はまだ、彼の言う『当たり』を引いていないので、何とも言えませんが」

「ふー……ん」


 ぽつぽつ状況を話しながら、ノエル様の様子を思い出す。


 柔らかそうなミルクティ色の髪から、ところどころピンク色に染めた房が覗いていた。

 緑色の目は大きく、愛嬌のあるお顔はベビーフェイスと称すれば良いのだろうか。

 小柄な印象を抱きやすいが、実際は背が高い。

 隣に立たれたときに、ふと驚いた。


 一見するとにこにこと愛想の良い彼だが、ふとした瞬間に、目が笑っていないことに気付く。

 獲物を見定めるようなそれは、猛禽類のそれに似ている。

 こちらへ向けられたにっこりとした笑みに、怖気を覚えたのも記憶に新しい。


 気のせいなら、疑って申し訳ないことをお詫びしなければならない。

 けれども、彼の対応は何だか逃げ道を封鎖していくような感覚が付き纏ってくるため、どうにも警戒してしまう。


 物理的な重量なんてないのに、ずっしりと重たい圧迫感が、心情にかかっているような感じさえする。


 ひとまずは、坊っちゃん方にご迷惑をおかけないよう、距離を空けることが望ましいのだろう。

 校内で坊っちゃんにお仕え出来ないことは心苦しいが、我を通して不利益をもたらしては話にならない。


 幸いにも、朝の支度とお弁当、お夕食とおやすみの準備は、許可をいただけた。

 そこで目いっぱいお仕えしようと思っている。

 お会い出来ないのは、日中だけ。


 ……それでも落ち込んでしまっているので、僕はこうなっているのだけど。


「当分は坊っちゃんのお傍にいられないので、その、……またリヒト殿下のお世話になっても、よろしいでしょうか……?」


 意を決して顔を上げ、頼りない声を振り絞る。


 リヒト殿下は王子殿下であって、僕の都合のために利用していいお方ではない。

 身近にいるためうっかり忘れてしまうが、彼はとても高位な存在だ。

 一使用人の自己満足にお付き合いいただくなんて、何かの罰則に引っ掛かることだろう。


「大丈夫だよ、ベル。ぼくはいつでも歓迎するからね」

「……ありがとうございます」


 穏やかな声音で柔らかに微笑んでくれるリヒト殿下は、とても優しい。

 いつも要望を受け入れてくれる。


 眉尻を下げた彼が、繊細な手付きで僕の頭を撫でた。

 はたと、彼が閃いたお顔をされる。


「そうだ! ベル、またここの部屋使いなよ。アルバートの部屋も、9階の方が近いでしょう?」

「いえ、2階に帰ります」

「アルバートのお弁当も作ってるんでしょう? そこの台所使えるし、ついでにぼくの朝ごはんも作ってほしいなー」

「いやっ、そんな凝ったの作れませんって!」

「大丈夫大丈夫! この前の卵焼き、おいしかったよ!」

「食中毒起こさせたときの、僕の責任!!」

「あはは! 平気だってー」


 落ち込んでいた空気を吹き飛ばし、殿下が楽しそうに笑う。

 必死に首を横に振るも、まあまあと流されてしまった。


 殿下、元気のつけ方が独特ですね……?

 感傷なんて、しゃぼん玉くらい容易く消えるものだったんですね……?


 坊っちゃんは、自室でお食事を取られている。

 まだ入学して日も浅いため、食堂のごはんに慣れていらっしゃらないためだ。

 日数をかければ幾分か改善されるだろうけれど、日中はお昼ごはんの問題がある。


 そのため報告と相談の結果、僕がお弁当を作ることになった。

 今はまだ簡単なものしか作れないが、これなら坊っちゃんも自力でお食べになられる。

 お口に合って、本当に良かった!


 このことがあるため、最近の僕の愛読書はレシピ本だ。

 坊っちゃんのために、がんばって習得いたします!


 けれども、うちの坊っちゃんと国の王子様では、重責が違うと思うんだ。

 何て恐ろしい提案をするんだ、殿下……!

 また無茶苦茶言ってー!


 反論する僕をくるくる言いくるめる姿に、もしかして真の敵は、リヒト殿下だった?

 内心首を傾げた。




 *


 廊下から窺える外の景色はずぶ濡れで、さあさあと絶え間なく雨音が響いていた。

 こういう日は空中庭園で時間を潰すことが出来ないので、毎回どうしようかと悩む。


 一先ず図書室へ行こうと、薄暗い階段に爪先を乗せた。


 授業中であるため辺りは静かで、窓を打つ雫が、いつもより大きな音で聞こえる。

 春霖は止むことを知らず、今日一日を分厚い雨雲の下で過ごすことになりそうだ。


 階段の踊り場に辿り着いたところで、こつん、靴音を聞いた。

 索敵が誰かの気配を伝え、癖のままに耳を澄ませる。


 軽快な靴底が階段を跳ねる音を立て、息つく間もなく間近に迫った誰かに、ぎょっと振り返った。

 左腕が強引に掴まれ、力任せに押し付けられる。


「せーんぱい、やっと会えましたね。72時間と38分振りですよ」


 背中が壁にぶつかり、勢いの良い衝撃に呼吸が詰まった。

 角に追い込まれた身体に、ひやりとした壁の温度が制服越しに伝わる。


 こちらの動きを封鎖するように、左の肘を突くのはノエル様だった。

 にっこりと笑う幼顔に反して、僕の腕を掴む右手にはぎしりと圧がこもっている。


 昔、リヒト殿下にもやられた壁ドンの悪夢を思い出し、泣きたい心地に陥る。

 ……こわい。恐喝現場こわい。

 笑顔の圧がこわい。

 これなら真正面から怒鳴られる方が、精神衛生面は保たれると思う……!


「ノエル、様、お久しぶりですね……」

「ふふっ、最近全然会えませんね。どうしてですか? コードくん、寂しがってますよ?」


 ノエル様のお顔は笑みの形を取られているはずなのに、弧を描く目許が笑っていない。

 体勢の都合で見上げることになった彼の緑色の目は、瞳孔を不規則に収縮させていた。


 本能的に恐怖心を抱いた僕へ、うっそりと微笑みかけ、ノエル様が口角のつり上がった唇を開く。


「あは。せんぱい、何でそんなに怯えているんですか? もしかして俺のこと避けてます? ふふ、やだなあ。俺、せんぱいの怖がることなんて、なぁーんにもしてませんよ?」

「いえ、……避けてなど、」

「こっち向いてくださいよ、せぇーんぱい。人と話すときは、相手の目を見て話すんですよー?」


 優しく嬲るように諭され、無意識に逸らしていた視線を、目の前の人物まで持ち上げる。

 よくできましたと微笑んだノエル様が、ゆったりと僕の腕を握る手から圧を抜いた。


「せんぱい、ちゃんと寮のお部屋に戻ってますかぁ?」


 丸みを帯びた発音で告げられた言葉に、どきりと心臓が脈打つ。


 リヒト殿下とお話したあと、結局僕は殿下のところのお部屋を借りることになった。


 坊っちゃんの7階と、リヒト殿下の9階の行き来は、思っていたよりも便利だった。

 完全に殿下に丸め込まれている。


 けれども、どうしてノエル様がそのことを知っているのだろう?


 そっと頬に指が這わされ、思わず肩が跳ねる。

 左の目許を何度も撫でる指先に、肌が粟立った。

 思わず跳ねた手を握って正し、必死に言葉を押し出す。


「あの、手を……」

「不思議そうな顔、してますね。先輩の名前、コードくんちっとも教えてくれなかったんです。

 なので寮の管理者さんに聞きました。

 黒髪で、ここに泣き黒子のある従者の先輩、お部屋どこでしたっけ? って。

 面白いくらい簡単に教えてもらえました。

 ベルナルド・オレンジバレーさん、二年生。コード家の使用人で、属性は闇の安息型。今年の身体測定で、王子様の身長を超したことを喜んでいたんですっけ?

 真面目で優しくって主人思いで、あはは、皆にこにこと色んなことを教えてくれました。

 お部屋は226号室で、今年も同室の人がいなかったんですってね。残念がっていたそうですけど、そんなに同室のおともだちが欲しかったんですか?

 俺、先輩に会いたくてずうぅぅっと待ってたのに、どうして帰って来てくれないんです?

 外泊届けは出してないから、誰かの部屋でお泊りですか? ふふっ。真面目な顔して、不良さんだなあー」


 心臓を冷え切った手で鷲掴みにされたような心地だ。

 外に聞こえてしまいそうなほど脈打つそれに、じっとりと冷や汗を掻く。


 的確に言い当てられた個人情報と、ぞっとした状況から顔を背けたい。

 けれども、何度も何度も泣き黒子の辺りを、指の腹が往復している。


 ノエル様はにっこりと嘲るように笑っていて、竦んだ身が震えた。

 ヘビに睨まれたカエルとは、こういう状況を示すのだろうか?


 授業中ともあり人の気配はなく、大きな声を上げることも憚られる。

 困窮する僕をにったりと見下ろし、彼が幼顔を緩めた。


「どうしたんですか、せんぱい。震えてますよ? ああ、今日雨ですもんね。冷えますよねえ。俺、雨苦手なんです。雨の日って、いやなことばっかり起こるんですよね。せんぱいもそう思いませんか?」

「……いえ、僕は」

「あは。そうやって奥ゆかしくすればいいんですか? いいなあ。俺も安息型だったら、皆から大事にしてもらえましたか? 俺だって面白くもないのに、にこにこにこにこ笑顔頑張ってるんですよ?

 なのに先輩みたいになれない。何でかなあ。何処が違うんですか? 髪色? 目の色? この黒子かな。

 俺だって先輩みたいに愛されたいですよ、色んな人から。頭撫でて褒めてもらいたいんです。いい子だねぇって。いいなあ、羨ましいなあ。

 先輩ってアリヤ先輩から挨拶くらい容易く頭撫でてもらえるんでしょう?

 何したらそうなれるんです? 俺もそれしたら、大事にしてもらえますか? ねえせんぱい、教えてくださいよ。参考にしますから。

 ふふっ、せぇーんぱい、こっち見てくださいよ。今、俺と喋ってるんですよ?」


 優しくやさしく、小さな子どもに言い聞かせるような口調で話すのに、瞳の温度が冬場の真水のように冷たい。

 表面上の穏やかさと、こちらへ降りかかる嫉心のちぐはぐさに、視線が泳いだ。


 ノエル様が僕へ向ける念は、羨望や猜疑、憎悪に似たものだ。

 皮膚の薄い箇所を撫でられる感触に、怖気を覚える。


 どうしてこんなことになっているのだろう? 何故、僕なのだろう?

 様々な混乱から踵は下がるのに、彼の腕が逃げ道を塞いでいる。

 真正面から向けられた不安定な狂気に、呼吸が浅くなる。

 ノエル様が笑った。


「ねえ、せんぱい。その幸運、俺にもわけてくださいよ」

「……離してください」

「あは。そうだ、右か左選んでください。運試ししましょう?」

「お断りします」

「どっちか選んでくださいよ、せんぱい。せんぱいが選ばなきゃ、意味ないんですから」


 右ですか? 左ですか? 尋ねる彼が指先を滑らせ、僕の喉に手のひらを当てる。

 やんわりと脈を撫でる仕草に、咄嗟に彼の手首を掴んだ。

 反射的に逃げた身体が、彼の左腕にぶつかる。

 黒色のツイル生地が衣擦れの音を立てた。


「僕が表情を保つのに、面白いとか面白くないとか、そういう理由はありません。主人にお仕えするため、相応しくあるようにしているだけです」

「じゃあ、もっと使用人らしく後ろに引っ込んでたらどうですか? 邪魔です。俺みたいなのに失礼ですよ」

「……ご忠告、ありがとうございます」

「『畏まりました』じゃないんですね。先輩、今のご自身の状況、わかってます?」


 採血を彷彿させる、脈を探る仕草。

 陶酔したような顔で微笑むノエル様が、首筋をなぞる。


 突き飛ばしたい衝動を懸命に耐えて、「お離しください」繰り返し伝えた。


 冬の舞踏会でも揉めたけれど、使用人は基本使い捨てだ。

 貴族と僕たちには、絶対的な隔たりがある。

 コード家に所属する僕の失態は、全てコード家の不始末とされてしまう。


 特に学園という閉鎖的な空間での悪い話は、良い話が広まる以上に瞬間的に拡散されてしまう。

 お嬢さまや坊っちゃんにご迷惑をおかけしないためにも、使用人である僕は、言動に気をつけなければならない。


 ……強く出られない現状が、苦しい。


「右か左、選んでください。今日は食べてもらいます」

「……右」

「『かしこまりました』」


 吐息に笑みを混じらせ、嗜虐心に満ちた笑顔で、ノエル様が首から手を離す。

 ジャケットの右ポケットへ差し込まれたそれが、銀色の包みを引っ張り出した。

 彼が僕の手に、無造作に落とす。


「ほら、先輩。開けてください。俺、今日は食べてあげませんからね」

「……中身、何が入っているんですか?」

「当たったら教えてあげます」


 ……何でこんな脅された状況下で、中身のよくわからないお菓子を食べなければならないんだ。


 反抗心はあるが何とか体裁を整え、捻られた包みを開いた。

 あっと思った頃にはノエル様に摘まれ、無理矢理口へ押し込まれてしまう。

 最中のようなそれに、勇気を出して歯を立てた。

 チョコレートのような、甘い味がする。


「ざーんねん、『外れ』です。先輩は、まだまだ俺に付き纏われます」

「…………」

「おいしいですか? たくさんありますからね。明日もやりましょね、運試し」

「……遠慮します」

「せんぱいの予定、ちゃんと把握してます。コードくんも残念ですね。俺のこと見誤り過ぎです」


 にっこりと穏やかな表情に整え、彼が身を離す。

 俯く僕の顔を覗き込んで柔らかく微笑み、彼が優しい声音で囁いた。


「ちゃんと先輩がひとりのときを選んであげているんです。明日も遊んでくださいね、約束ですよ?」


 返事のないこちらに気にすることなく、踵を返したノエル様が、軽快な足取りで階段を下りられる。

 たたん、とリズムの良いそれは、何度か繰り返される内に小さくなり、遠退いた。


「っ、げほ」


 込み上げてくる吐き気に抗うことが出来ず、ジャケットから引き摺り出した白地のハンカチへ向かって咳き込む。

 口内にこべりついた甘ったるい味に、初めて嫌悪感を抱いた。

 目的地を手洗い場に変更し、上り階段に足をかける。


 ……あんなにも直接的に甚振る人に、僕はこれまで会ったことがない。

 恐らくこれが、彼の指した『幸運』なのだろう。


 僕は恵まれている。

 優しい主人に拾っていただけ、親切な友達と過ごすことが出来る。

 僕には勿体ないくらいの幸福だ。


 ……何と返答すれば、良かったのだろう?

 これを、何と報告すれば良いのだろう……。


 動揺と困惑でぐるぐるする心情が、初めて誰にも話したくないと訴えた。

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