不連続の五文字

「ベルナルド」


 間近で聞こえた坊っちゃんのお声に、はたと辺りを見回す。

 しかし別邸の廊下には僕ひとりしかおらず、ついに幻聴を聞くに至ったのかと青褪めた。


 おろおろ、坊っちゃんのお姿を探しする。

 見付けた曲がり角の先にいらっしゃった薄茶の髪色に、縋りついた。


「ぼ、坊っちゃん……! 先ほどお呼びされましたか!?」

「いや? 何の話だ?」

「……ついに幻聴が……!!」


 あり得る話にますます青褪め、泣きそうな心地に陥る。

 幻聴を患ってしまっては、正確に迅速に主人の要望を叶えることが出来ない。

 どうしよう……!


 よっぽど僕は悲壮な顔をしていたらしい。

 耐え切れないとばかりにくつくつ笑い出した坊っちゃんが、上品に片手を口許に添えた。


「冗談だ。確かに呼んだ」

「で、ですけど、随分距離がありましたよ?」


 坊っちゃんがいらっしゃったのは廊下の突き当たりで、僕がいたのは、そこから離れた階段の近くの廊下だ。


 疑問符を並べる僕を再度笑い、何処か得意気に坊っちゃんが口角を持ち上げた。


「今、魔術の練習をしているんだ。離れた相手に声を届ける方法なんだが、ヨハンがいないと手間取るな」

「そうだったのですか! すごいです、坊っちゃん!!」


 坊っちゃんがおひとりで習得された魔術に、感嘆の声を上げる。

 電信みたいな感じなのかな? いいな、便利そう!


 面映そうな表情をされた彼が、冬場に息を吹きかける仕草のように、口の前で両手を合わせた。

 ぽつり、肉声の聞こえない声で、何かを囁く。


 ぱっと開かれた両手に浮かんだ、淡緑色の粒子が、光とともに掻き消えた。

 ほけ、と見とれた僕を、にんまりとした坊っちゃんが笑われる。


「今のはリズリットに送った」

「……はっ! これなら、離れていても坊っちゃんとお話出来るのでは!?」

「……一方通行だ。僕からしか送れん」

「そ、そうでしたか……」


 しょんぼり肩を落とした僕を軽く小突き、坊っちゃんが階段の方へと足を向ける。

 慌てて追いかけた後姿が、話を続けた。


「これについて、色々と試したいことがある。手伝ってくれないか?」

「はい、喜んで!!」


 うきうきと弾んだ返答に、坊っちゃんの口許がやんわりと緩む。

 御髪で遮られた横顔は、表情の全体図を見せることはなかったけど、それでも嬉しそうだと感じた。


 直後、勢い良く突っ込んで来たリズリット様が、「さっきアルくん俺のこと呼んだよね? 絶対呼んだよね? 絶対聞こえた。アルくんの声だった。ねえ呼んだよね? ねえねえねえねえ」と坊っちゃんに詰め寄り、お腹にぐーぱんを食らわされていた。


 坊っちゃん……アグレッシブになられて……。






 庭に立たれた坊っちゃんが、紙に九本の縦線と、五本の横線を描く。

 ざっくりとした升目は、王都を示しているのだとぴんときた。


 坊っちゃんがお顔を上げられる。

 僕とリズリット様、ハイネさんを見回し、口を開かれた。


「ハイネとケイシーを使って試してもみたんだが、今回は効果範囲を調べたい。

 僕はウラニア第五通りから術を使う。お前たちはカリオペ通りまで、一本ずつ通りを遠ざかり、何処まで僕の声が聞こえたかを調べてもらいたい」

「なるほど。わかりました」


 繊細な指先が升目の隅っこを指差し、縦道を順に示す。


 ウラニア通りとカリオペ通りは、それぞれ端の通りの名前だ。

 頷いた僕とリズリット様に、坊っちゃんが言葉を重ねる。


「ベルナルドは第一通りを進んでくれ。リズリットは第五通りを頼む」

「畏まりました」

「アルくんの声、意地でも聞く」

「……もっと平常心で臨んでくれ」


 気合い充分とばかりに、ぎゅっと拳を作ったリズリット様に、呆れたお顔で坊っちゃんがため息をつかれる。

 坊っちゃんが懐中時計を取り出し、涼しい目で文字盤を見下ろした。


「そうだな……。30分ごとに術を行使する。ひとつの通りで二回ずつ、無差別に選んだ数字を五つ読み上げる。各通りの名前と、僕が並べた数字を書き記して欲しい」

「30分ごとにアルくんの声が聞けるんだね。嬉しいなー!」

「……僕は度々お前の正気を疑うんだが、……その、大丈夫か?」

「何を仰るのですか、坊っちゃん! 30分ごとに坊っちゃんのお声が聞けるのですよ!?」

「……そうか。……腕の良い医者を探しておくな」


 何処か遠い目をした坊っちゃんが、小さく頭を振られる。


 懐中時計を仕舞い、頭痛に耐えるようこめかみを押さえているが、僕もリズリット様も別段おかしなことは言っていないはずだ。

 はたと重要課題に気がつく。


「それで坊っちゃん、護衛は?」

「ハイネを借りる。慣れない術を使うんだ。さすがに僕も、注意を他所へ向けられない」

「ハイネさんがいらっしゃるなら、僕も安心出来ます!」


 気掛かりが晴れて、ぱっと笑顔になる。

 呼び出されたハイネさんは今日も目付きが悪く、小さい子どもなら泣かせそうなお顔をされていた。


 あと坊っちゃん。慣れない術を使わなくても、ハイネさんはお連れください!

 そういうお約束だったでしょう!!


「設定時間に僕の声が聞こえなくなった段階で、僕のいる場所まで来い。カリオペ通りまで行けたら、屋敷で集合だ」

「集合って、待ち合わせ感があって、何だかわくわくするよね」

「そうですね」

「ベルくんとアルくんとデート……? はっ、これは日頃の俺の行いが評価された、役得……!?」

「ハイネ、腕の良い医者を調べてくれ」

「給料外だ」


 閃いたお顔をされたリズリット様に対し、目許に険を乗せた坊っちゃんが、ハイネさんに指示を出す。


 ま、待ってください、坊っちゃん!

 何でハイネさんが調べもの得意って、ご存知なんですか!?


 悔しそうに唸られた坊っちゃんが、剣呑な表情のままこちらを向いた。

 発せられる覇気に、びくりと身を竦ませる。


「それから、ベルナルド。30分の時間を設けているんだ。走るな。絶対に走るな。無茶をするな転ぶなぶつかるな。わかったな?」

「そ、そんな大袈裟な……!」

「うるさい。口答えは健康な状態になってからにしろ」


 苛々と並べられた注意事項に、一気に悲しい心地に陥る。


 ……リヒト殿下を襲撃からお守りして負傷した僕は、再びあの忌々しい三角巾のお世話になっていた。


 リズリット様が放った、「ベルくん、左半身呪われてるの?」の言葉が忘れられない。

 そんな謂れ、あんまりです……!


 学園に復帰したら復帰したで、クラスメイトから「オレンジバレー、左腕封じられたのか!?」とからかわれるし。

 お嬢さまとリヒト殿下は、ずっと悲壮なお顔をされるし。


 あと、ネクタイが結べない!

 殿下やクラウス様がネクタイを結んでくださろうとされるのだけど、他人のネクタイは、自分のものを結ぶのと違って、少々てこずる。


 お嬢さまはそもそもネクタイをされず、アーリアさんにお願いするのは心情的に絞殺されそうで、僕が勝手に怯えている。

 結果的に、ネクタイでリボン結びしてもらうことになった。


 何より! アーリアさんが譲ってくれた、週末のお嬢さまお世話係権が!

 完治するまで延期になったんです!!

 悲しい、何よりも悲しい!

 この約束のために、僕は生きてきたというのに!!

 お仕えしたいって、あんなにもっ、あんなにも切望したというのに!!


 運動会だって小雨なら雨天決行なんですよ!

 矢の一発くらい、掠り傷で多目に見てください!!


「お前、今、『矢の一発くらい多目に見ろ』と思っているだろう?」

「……読心術ですか? 坊っちゃん」

「かえしのついた毒矢を無理矢理引き抜き、血抜きのために切開され、発熱で数日寝込んでおいて、掠り傷などと称する気ではないよな?」

「あ、あはは……? おかしいな、坊っちゃんあの場にいらっしゃらなかったはずなのに……」

「人の口に戸は立てられんな」

「容疑者いっぱい!!」

「ベルくん、身体は資本だよー」


 淡々とした口調の端々に静かな怒りを感じ、即座に口を噤んで背筋を伸ばす。

 リズリット様とハイネさんの呆れ顔が心に刺さる……!


「で、では! 早急に実験開始としましょう!! さあっ、リズリット様行きますよー!!」

「あはは、ベルくん冷や汗すごいね」


 坊っちゃんの舌打ちを背に、リズリット様を引っ張って、あわあわと門を潜った。




 *


 坊っちゃんの声を届ける魔術には、どうやら特徴があるらしい。

 三つ目の通りを終えたところで、視界に反射した淡緑の粒子が霧散した。


 ――お屋敷で目にした、坊っちゃんの手から弾けて消えた、あの光と同じ色だ。


 これを届けて声を聞かせているらしい。

 周りの、他の人には聞こえないのかな?

 その辺りはどうなのだろう?


 道の端に避けていた身体を動かし、雑踏へ繰り出す。

 升目を描く街道は、歩きやすい。

 扇形をしている地形は、第五通りよりも、今僕がいる第一通りの方が短い。


 坊っちゃんのお心遣いに痛み入りながら、注意通り人にぶつからないよう気をつけた。


 九つ中、四つ目の通り、メルポメネ第一通りに到着する。

 メティスの橋の前であるそこは、所謂大通りの終着点で、王城へ続くための検問所がある。


 再び道の端へ避け、懐中時計を取り出した。

 ……あと五分少々。

 手帳を用意しておく。


 ふいとため息をつき、視界の先に延びる王城を見遣る。


 ……大分通い詰め、篭城することになったそことも、こうして接点を失えば縁のない場所だ。

 リヒト殿下も寮へお戻りになられている。

 あれだけ賑わっていた街並みも、一ヶ月も経てば、もう何処にも収穫祭の色はない。


 視線を手許へ移す。

 かちかち跳ねる秒針が、長針の動きを促進させた。


 かちり。進んだ針に合わせ、淡緑色の細かな光を目にする。

 時間に正確な様子は坊っちゃんらしくて、ついつい笑みが零れた。


『メルポメネ通り、一回目。1、4、9、7、5』


 坊っちゃんのお声に従って、聞き取った数字の羅列を書き記す。

 発信源から対角線上に伸びたこの位置からでも、彼の声を淀みなく聞くことが出来る。坊っちゃんはすごい。


 ペンを手帳の間に挟み、塀に下ろしていた腰を上げる。

 ……片手が使えないと、やっぱり不便だ。


 手帳と懐中時計を合わせてポケットへ仕舞い、年頃より落ち着いた坊っちゃんのお声に耳を傾けた。

 二回目が終わると同時に、淡緑の光が掻き消える。


 検問所のおじさんたちに挨拶して、軽い雑談を交える。

 何度もここを通過したため、おじさんたちとは顔馴染みになった。

 最早、顔認証だけで通してもらえる仲だ。


 ……僕は真面目なので、しっかり手続きを踏んでいくけど。


 ふと軽やかな蹄の音が聞こえ、徐に振り返る。

 見覚えある茶色の馬から、紺色の制服が身軽に下りた。

 手綱を引いた青年がこちらに気付き、人好きの笑みを浮かべる。


 いつもコード邸に手紙を配達してくれる、郵便屋さんだ。


「やあ、こんにちは。あれ? 腕、どうしたんだい?」

「郵便屋さん、こんにちは。ちょっとぶつかっちゃって……」


 空いた片手で制帽のつばを持った郵便屋さんが、挨拶の仕草を取る。

 彼が示した三角巾に、曖昧な返答をした。

 さすがにクロスボウを一発食らいました、なんて言えない。


 眉尻を下げた彼が、通り過ぎ様僕の頭を撫でる。

 やんわりとした笑みは、仕方ないなあとばかりに苦笑を描いていた。


「気をつけるんだよ」

「ありがとうございます。お仕事がんばってください」


 ひらひら、手を振った郵便屋さんが検問所にサインをし、人懐こい笑顔でおじさんたちに挨拶する。

 彼等と手を振って別れ、はたと引き摺り出した懐中時計に、急ぎ足で通路を突っ切った。

 い、いけない! 長居しちゃった!!




 *


 僕の手帳と、リズリット様の用紙。

 そして坊っちゃんご自身の手帳を見比べ、テーブルに肘をついた坊っちゃんが、思案気に頷かれた。


「直線上も対角線上も、問題なしか」

「はい! 一番離れたカリオペ通りでも、くっきりお声が届きました!」

「離れていても声が聞こえるって、これもう運命だよね!」

「人為的で作為的な運命だな。何か気になった点、聞こえ難さなどはなかったか?」

「アルくんがクール……」

「常温だ」


 冷めた目で手帳を閉じ、坊っちゃんが僕の手帳を差し出す。

 受け取ったそれをポケットへ仕舞い、テーブルに頬をつけて項垂れるリズリット様を笑った。


「聞こえ難さに関しては、特に問題はありませんでした。雑音も、音の遠さもなく、クリアです」

「そうか」

「気になったというより質問なのですが、この術は、周りの人にも坊っちゃんのお声が聞こえるのでしょうか?」


 小首を傾げた僕に対して、ご自身で淹れられた紅茶を、坊っちゃんが傾ける。


 本当は僕がお注ぎしたいのだが、三角巾の初回時に真冬を彷彿させる冷ややかさで見詰められたため、すごすごと引き下がった。

 無言の圧ほど、雄弁で恐ろしいものはない。


「複数人いる状態で試したことがないから、正確にはわからんが、僕が届けた声量は耳打ち程度だ。声量を大きくすればするほど、距離が遠退くほど、魔力の消費も激しいようだ」

「坊っちゃん、30分ごとといっても、四時間に渡りましたよ? お身体、ご負担ではありませんでしたか?」

「平気だ。枯渇するほどでもない」


 坊っちゃんの淡々とした返答に、もそりとリズリット様が顔を上げられる。

 組んだ腕に顎を乗せた彼が、不思議そうに口を開いた。


「ねえねえアルくん。その術、一度に何人まで声を届けられるの? 俺とベルくんのふたりとも、時間ぴったりに声を聞いてるでしょ?」

「……立て続けにふたりへ送るのも、ふたり同時に送るのも、消耗具合に大きな差はない」

「ははーん、さては多少の無理があったな? アルくんもベルくんのこと、とやかく言えな、いでっ」

「蹴るぞ」

「手帳投げた上で!? 更に蹴られるの!?」


 勢い良く投げつけられた黒い表紙の手帳が、リズリット様のおでこに平面をぶつける。

 涙目で患部を擦る被害者から顔を背け、坊っちゃんが膨れたお顔で腕を組まれた。

 おろおろ、おふたりの応酬を見守る。


「僕のことはどうでもいい。その内慣れる。そんなことより、改善点を僕は聞きたい」

「勤勉なのはいいことだけどぉ……まあ、特にないかな。アルくんの声を間近に聞けて、俺は満足」

「……協力感謝する。絶対にお前のことを医者に見せるからな」

「喋れば喋る分だけ、俺の好感度が下がっていく!!」

「お疲れさまです……」


 つんと椅子から立ち上がられた坊っちゃんに、リズリット様が悲痛なお声を上げられる。

 思わず漏れた、労わりの言葉。

 涙目で僕へ腕を伸ばそうとした彼が、「ベルくん、早く怪我治して!!」三角巾のお守りに身を引いた。

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