番外編:世界のゴミ箱からあなたへ
ふと意識が戻り、ぼやけた視界を緩く瞬かせる。
どうやら僕はゴミ溜めにいるらしく、異臭と腐敗臭が麻痺した嗅覚を鈍く刺激した。
指一本、呼吸ひとつ行うことすら億劫だ。
重たく瞼を閉じる。
僕はまた、目を開けることができるのだろうか?
浮上したばかりの意識が薄れるのは、容易かった。
ふと、頬にぬくもりを感じ、ゆるゆる瞼を押し上げる。
掠れた視界に映ったのは、身形の整った女の子だった。
僕が目を開けたことに、ほっと表情を緩めている。
「だいじょうぶ?」
頬に当てられたじんわりとあたたかなそれが、ゆっくりと動く。
うっすらとそれが彼女の手だとわかり、激しく動揺した。
自分はゴミに埋もれる、見るからにスラムの子どもで、相手はどう見ても貴族の子どもだ。
僕など、彼女が触れて良い存在ではない。
先程全く動かせなかった身体が、僅かに跳ねる。
懸命にもがこうと力を込めるも、碌に水も食料も摂っていない身体には余力なんかなかった。
それでも逃げようと躍起になる。
捻った身体が硬い地面にべしゃりと落ち、衝撃に軽く意識が飛んだ。
……なにもできない芋虫みたいだ。
空笑いを浮かべたかったのに、表情がぴくりとも動かない。
貴族の娘が、慌てたように屈み込んだ。
「ダメよ。じっとして。これからおうちに帰るんですから」
貴族のお帰りを、孤児に見送らせるのか?
擦り切れた思考が悪意を並べ、けれども抵抗するだけの力を有していない。
彼女が僕の頬を両手で包む。
何故だろうか、泣きそうになるくらいあたたかな手だった。
「それから手当てをして、お風呂にはいって、ごはんをいっぱいたべて、早く元気になるのよ」
並べられた言葉の意味がよくわからない。
彼女が「アーリア!」誰かを呼んだ。
騒がしくなった周囲が僕を持ち上げ、馬車の中へと押し込む。
朧気な意識が再び沈殿し、再度目を開けたら全く知らない場所にいた。
清潔な衣類に、臭くない身体。
あちらこちらに貼られたガーゼは体中にあり、呆然と、質素ながら穴もヒビもない部屋を見回した。
……僕は、死んだんだろうか?
試しに、一番大きなガーゼを殴る。
物凄く痛かった。
涙と一緒に、ガーゼがピンク色に滲む。
……夢でも死んだわけでもないらしい。
もう一度、ぽかんとした。
僕をゴミ溜めの中から救い上げてくださったのは、ミュゼット・コードおじょうさまと仰るらしい。
彼女は僕がおかゆを食べている間、隣でたくさんのお話をされた。
「アーリアと街を歩いていたら、路地の奥であなたの頭が見えたの。そうしたらいても立ってもいられなくて、ついつい走り出しちゃって。
あなたゴミ置き場で丸くなってて、苦しそうで。だからね、一緒に帰って手当てしなきゃって思ったの。
アーリアにいっぱいお願いして、ロレンスさんにあなたを運んでもらって、それで、あなたはわたくしのワガママでここに来たの。
ねえあなた、もしも行くところがないのなら、このままここで暮らさない?
お仕事はね、ミスターが教えてくれるわ。それでね、わたくしとお友だちになって欲しいの!」
膝にウサギのぬいぐるみを載せた彼女の言葉に、僕はおかゆを見詰めたままぼたぼた涙を零していた。
彼女に疑いをかけた罪悪感と、路肩の石と変わらない自分を拾い上げてくださった恩義に、ひたすら嗚咽が止まらなかった。
彼女は泣き出した僕におろおろとハンカチを差し出したが、それを緩く首を振って断った。
「ありがとう」
言葉を碌に知らない僕から伝えられる、精一杯の感謝の気持ち。
おじょうさまが照れたように微笑んだ。
「ねえ、あなたお名前は?」
尋ねられた弾んだ声に対する答えを持ち合わせてなくて、ぎこちなく首を横に振る。
一瞬目を瞠った彼女が、考えるようにウサギのぬいぐるみを撫でた。
「じゃあ、ベルナルドは? ベルナルド。どうかしら?」
ぱっと華やいだ笑顔とともに与えられた名前に、またしても涙腺が緩む。
泣きながら頷く僕の頭を、おじょうさまの細い指が優しく撫でた。
この人の傍にいよう。この人のために生きよう。
それが「僕が始まった」ときのはなし。
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