03

「リヒト殿下、一番端っこの部屋から見える花畑について、ご存知ですか?」


 今朝方見つけた不思議を、部屋主に尋ねる。

 朝の紅茶を片手に、書類から顔を上げたリヒト殿下が、不思議そうに瞬いた。


「花……? 一番端っこって、西向きの窓か。空中庭園のこと?」

「空中庭園の花、全部真っ赤になったんですかね……?」

「うん?」


 ますます不思議そうに瞬いたリヒト殿下に、僕自身、不思議のまま首を傾げる。


 ユーリット学園と学生寮は、隣り合わせに建っている。

 ロの字型をしている学生寮から見て、西隣の雑木林の先が、講堂だ。

 9階に位置するこの部屋は、高くから景色を見下ろせる。


 とはいっても窓は小さく、広く見渡せるものでもないけど。


「リズリットの学校案内だと、空中庭園は研究生の資料用だったよね? 入学式以来、ぼくは立ち寄ってないけど、雑多にあった植物が一色になる……なんてあるかな?」

「ですけど、今朝、真っ赤になっていたんです」

「うん?」


 要領を得ない僕の発言に、ますます殿下が困惑した顔をする。

 もっと上手く説明したいのだけど、何と伝えればいいのだろう?

 覚束ない説明のまま、口を開いた。


「昨日まではなかったんですけど、今朝起きて窓を見たら、赤かったんです」

「……ちょっと見てみようか」

「はい」


 混乱したようなお顔で、資料を置いた殿下がソファから立たれる。

 寝泊りに借りている部屋へ案内し、西向きの窓を手で示した。


 ひょこりと窓を覗き込んだ彼が、不思議そうな声を上げる。


「……本当だ。一面赤いね」

「はい」


 幅30センチ、縦60センチほどの大きさの窓が、眼下の景色を、ツタ柄の格子越しに広げる。


 柚葉色の屋根を持つ赤煉瓦群と、雑木林の緑。

 そして今回の疑問の種である、講堂の上にある空中庭園と思わしき一面。

 溢れんばかりに赤いものを載せているそこに、首を傾げた。


 距離と高さのため詳細はわからないけれど、何となく観覧車から「あれなんだろう?」と言っている気分になる。


「……? 空中庭園は、あっちじゃないかな?」

「え?」


 リヒト殿下の言葉に、お隣に失礼して窓を覗き込む。

 白い指先が差す先、ぽつぽつと色彩と緑を載せる建物があった。


 ううん、窓を開けて確認出来ないことがもどかしい……!


「多分赤い方、食堂だと思うよ。ほら。木でちょっと見えにくいけど、近くに白い屋根……東屋があるし」

「あ、本当ですね!」

「食堂の上にも、空中庭園があるのかな?」


 ふふ、と笑ったリヒト殿下がこちらを向く。


 薄暗い部屋の、唯一の光源である窓辺に立つ彼は、持ち前の整った造形と柔らかな微笑とが合わさり、普段全く思わない儚さを演出していた。


 はっ! 今こそあれをやってもらわなければ……!

 僕とみんなの夢を、今ここで!!


「殿下、決め顔で指ぱっちんして、『彼女にタオルと制服を』って言ってください」

「えっ? なんで? なにそれ?」

「その、殿下にやってもらおうと思った……何か以前に見かけたものです」

「ざっくりしてるね!? なんでそれをぼくにやらせようと思ったのかな!?」

「似合いそうだなーと思いまして……」

「ベルはぼくに、どんなイメージを抱いてるの!?」


 消し飛んだ儚さは、儚いだけあって、泡沫のようだった。


 頬を真っ赤にさせた殿下は、「大元になったものを教えて! 自分の目で確かめる!」と言い出したので、誤魔化すのに苦労した。


 だって、来年のリヒト殿下のお姿なんですもん……!

 まだこの世に存在していないんですもん……!


 結局指ぱっちんすら達成出来ずに、僕の登校時間になってしまった。

 この戦いは、今後に持ち越そうと決意した。




 *


 建物の周りを一周し終えて、首を傾げる。

 僕にお付き合いしてくださったお嬢さまも、不思議そうに片手を頬に添えておられた。


 アーリアさんが静かに壁を見上げる。

 校舎の赤煉瓦とは違い、白い壁面には清潔感があった。


「その花畑は、確かに食堂の上にあったの?」

「花畑かどうかはわかりませんが……なにぶん遠目だったので。ですが、食堂の建物だったことは、リヒト殿下と確認しております」

「寝惚けていたのではないですか」

「殿下と揃ってですか? アーリアさん、辛辣すぎません?」


 先輩からの突き刺さる一言に、頬が引きつる。


 再び外壁を見上げるも、講堂と違って、食堂の壁には外階段が設けられていなかった。

 シンプルな白い壁面が、ぐるりと一巡している。



 お嬢さまに、今朝の出来事をお話した。

 一緒に食堂へ来たのだけど、それらしい上り口が見つからない。


 11時から開店する食堂は今は準備中のようで、あたたかな湯気とともに、お腹の空くにおいをさせている。

 時折調理に携わる人や、使用人が往来する以外は、人の姿はない。


「中……かしら?」

「訓練場の先は、行き止まりではありませんでしたっけ?」

「……そうだったわね」


 お嬢さまと一緒に首を捻る。


 天井の高いカフェのような食堂と、暴れ回っても傷ひとつつかない訓練場を有する目の前の建物は、劇場にもなる講堂よりも、背が高い。


 食堂は広く、二階席がある。

 訓練場は更にその上の三階部分に相当する。

 建物の外に露出した階段から行く方法と、建物の中から上る方法がある。


 現在は食堂に立ち入られないため、白い石段に爪先を乗せた。


「ちょっと見てきます」

「わたくしも行くわ。ベルの見た赤い花畑、わたくしも見てみたいもの」


 ふんわりと微笑んだお嬢さまが、僕に手を差し出した。

 笑みを返して、ほっそりとした手を取る。


 一階分の外階段を上ると、建物の中へ入ることが出来る。

 硝子戸を開き、吹き抜けの食堂を一望する。

 頭上でゆっくりと回る天井扇を見上げた。


 現在地は二階席。

 鏡張りの壁を通り過ぎ、訓練場へ続く階段に足をかける。


 貴族が通うからか、この学園には鏡が多い。


 ……別に自己愛や、ナルシストの援助のためとかではない。

 身だしなみに注意が向くように、階段の傍には必ず鏡が設置されている。

 校舎内のものは、凝った縁の姿見だ。

 大きさも、人がふたり並べるほど、ゆとりのあるものだ。


 踊り場を曲がり、手摺りの終着点に辿り着く。

 シンプルな姿見の先には訓練場の扉があり、中から微かに掛け声や、ものの当たる音が聞こえた。


 授業の邪魔は出来ないので、階段から扉までの小さい広間を見回す。


「……何もありませんね」

「そうね……、もっと中、なのかしら……?」

「訓練室に階段ありましたっけ?」

「倉庫はどうかしら?」

「あー……」


 お嬢さまと考え込んでいると、ふとアーリアさんが階段へ視線を向けた。

 つられて見詰めた先で、靴底の擦れる音が聞こえる。


 邪魔にならないよう、階段の傍を離れる。

 上ってきたのは、銀髪の保険医、フィニール先生だった。

 細い眼鏡がこちらを向き、彼の無表情が僅かに動く。


「きみたち、授業は?」

「空き時間です。こんにちは、フィニール先生」

「そうでしたか。失礼しました」


 僅かに頭を下げたフィニール先生が、訓練室の両扉の片方を開け、中へ入っていく。

 ……保険医が出動するなんて、誰か怪我したのかな?

 でも先生手ぶらだったし、……首を突っ込むのはやめておこう。


 ユーリット学園は単位制だ。

 実技訓練がクラス内でも分かれているので、全員が同じ日程を組めないためだ。


 僕はお嬢さまと授業内容を合わせているので、大体いつもご一緒させていただいている。


 ただ、僕には不要なダンスの授業なんかも、お嬢さまには必須科目となっている。

 なので、いつでも一緒というわけではない。


 時々こういった空き時間が生まれるので、暖かい間は空中庭園のお世話になっていた。

 フィニール先生とは度々そこで出会うのだけど、何というか、とても口数の少ない先生だ。


「うーん、……最後に、空中庭園を確認してもいいですか?」

「ええ、行きましょう」


 頷かれたお嬢さまのお手を引き、階下へ降りる。

 もしかしたら空中庭園の見間違いだったのかも知れない。

 段々自信がなくなってきて、落ち込んでしまう。


 ……でも、リヒト殿下もご覧になられたし、何処かにあるはずなんだよなあ……。


 空中庭園へ場所を変え、辺りを見渡す。

 春と夏に咲き誇っていた花たちも、今では秋の植物へと変わっていた。

 可憐な小花や桃色の花など、控え目な色彩の中に、今朝の赤色は見当たらない。


 お嬢さまの御髪が風に吹かれ、鮮やかになびく。


「ここでもないようね」

「やっぱり、食堂なのでしょうか……?」

「でも、階段がなかったわね……」


 片手で髪を押さえられたお嬢さまが、考え込むように食堂の方を向かれる。

 現在地よりも高いそこは、屋上の様子を窺うことが出来なかった。

 うーん、もやもやする……。

 リズリット様に聞いてみようかな?


「幻覚では?」

「アーリアさん、不安になることを言わないでください」


 鋭い言葉のナイフに、僕の心が抉れる。

 微笑まれるお嬢さまが楽しそうだからいいんですけど!


 その後リズリット様にお尋ねしたが、彼も知らないと答えた。

 クラウス様は「まだ更に庭があるのか?」と怪訝そうで、確かに既に四つも庭があるもんなあ、と曖昧に微笑む。


 僕自身は植物に疎いけれど、是非ともお嬢さまにお見せしたかったなあ……。




 *


「不思議な話だね」

「はい。狐につままれた気分です」


 リヒト殿下に紅茶をお出ししながら、今日あった出来事をお話する。


 お嬢さまにお見せしたかったのに、お嬢さまを連れ回すだけ連れ回して、徒労に終わらせてしまった……。


 お嬢さまは「ベルとお散歩が出来て、わたくしとても楽しかったわ」と仰ってくださったので、尊さに涙が溢れそうになった。

 僕もお嬢さまとご一緒出来て、この上なく幸福にございます……!



 けれどもやっぱり不思議だったので、制服を着替えるときに、お部屋から確認してみた。


 ……やっぱり、窓の向こうに赤色がある。

 あれだけたくさん咲いているのだから、誰かが管理しているのだろうけど……。

 どこに入り口があるんだろう? 不思議だ。


 悶々としながらリヒト殿下の指示に従い、書類と資料とファイルを分類する。


 ふと目に留まった文字に、すっと体温が下がる心地がした。

 吹き飛んだ思考をそっちのけに、震えそうな指先で、まじまじと書類を手にする。


「……あれ?」

「どうかした?」


 うっかり漏れ出た声に、きょとんとリヒト殿下が顔を上げられる。

 錆びついたブリキの玩具のような動きで、縋るように彼へその書面を見せた。


「うん? 宰相の書類がどうかしたの?」

「ち、違うと言ってください……! これは宰相閣下の文字ではないと……!」

「……うん?」


 ことり、殿下の首が傾げられる。

 柔らかな髪がさらりと揺れた。


 僕には、手紙のやり取りをしている人が、幾人かいる。


 ひとりはヒルトンさん。

 毎週屋敷に帰還しているにも関わらず、彼とは頻繁に報告書のやり取りをしている。


 次に坊っちゃん。

 坊っちゃんとも、毎週帰還しているにも関わらず、僕から一方的に手紙を送りつけている。

 たまにお返事をいただけるのが、たまらなく嬉しい。


 領地のヨハンさんとも、手紙で近況報告している。

 最近厩舎にアヒルが増えたらしい。

 これで厩舎に住まう生き物は、馬、羊、犬、猫、アヒル……と賑やかだ。

 何でも厩舎に詰め込み過ぎじゃないだろうか……?


 エリーゼ王女殿下と、ギルベルト様とは、お手紙が届いたらお返事するというやり取りを、これまでずっと続けている。


 王女殿下と文通しているだなんて大変恐ろしいことだが、……待って? 王子殿下のお部屋にのほほんと居座ってる現状、あっ、この件には触れないでおこう!


 ハイネさんとは、僕から依頼したときに、報告書がやってくる。

 今は特にお願いしていることはない。


 ――最後にひとつ、いつもお菓子を添えてくれる、謎の手紙がある。


 住所がギルベルト様と同じティンダーリア家なのだけど、何故か名前が毎回無記名なんだ。

 その手紙で見慣れた文字が、全く関係のないこの場から発掘された。

 僕の心が、がたがた震えている。


「……ティンダーリア家から届くのなら、……やっぱり相手は宰相じゃないかな?」

「や、やめてください……! これまで必死に現実から目を背けてきたんですから!」

「……ギルの妹も、まだこんな達筆な字書けないしね」


 リヒト殿下がもたらすプチ情報に、妹さんがいらっしゃったのかあと、僅かにほっこりする。


 ……じゃなくて! 必死に妖精さんだと思い込んでいた文通相手が、こんな形で明るみになってしまうなんて……!


「ええっと……、妖精さんとは、どんなやり取りしてるの?」

「『このお菓子おいしかったよ』とか、『お店に行ってみたんだ』とか、『周りにお菓子食べてくれる人がいなくて寂しい』とかですかね……」

「宰相って、お菓子好きだったんだ……」

「妖精さんです!!」


 僕の必死の訂正に、苦笑いを浮かべた殿下が「ごめんごめん」と謝る。

 宰相閣下の書類を見詰めた彼が、綺麗な笑みを形作った。


「今度宰相に会ったら、聞いとくね」

「や、やめてください……! 僕はティンダーリア家の妖精さんと文通しているんです……!」

「はいはい、妖精さん。ベルって、よく切手買ってるなあーって思ってたけど、すごく筆まめだね」

「お礼のお返事をしていたら、いつの間にかこうなっていました」

「ぼくともする? 文通」

「それ、最早交換日記ではありませんか?」

「あはは、そうだね」


 柔らかく微笑んだリヒト殿下が、こちらへ書類を差し出す。

 見覚えある文字を見ないように受け取り、静々元の場所へ戻しに行った。



 リヒト殿下とクラウス様とは、領地にいる間、手紙のやり取りを続けていた。

 思えば殿下の字は、小さな頃から読みやすくて綺麗な文字だった。

 書面に載る、彼のサインを見下ろす。


 周りは、彼を天才だと誉めそやしている。

 彼自身も、いつも飄々としている。

 けれど、その実このように苦労を重ねている。


 まさかご本人の口から『人としての最低ラインを捨てる』なんて言葉が出るなんて、思いもしないだろう。


 それだけ色々強いられているのに、これまでお手伝いしてきて、殿下の口から不満の一言も聞いたことがない。


「殿下って、実はかっこいいですよね」

「実は!? え、いや、確かに最近寝癖もほったらかしだけど、……思い直さないとかっこよくないのかな……?」

「見た目は完璧に王子様ですよ。殿下って、髪、柔らかいですね」

「あ、うん。……ありがとう?」


 赤くなってふるふる震えるリヒト殿下が、書類越しに不本意そうな声を出す。


 褒めたつもりなんだけどなあ。

 あんまり見ない取り乱した姿を笑っていると、広間の方から呼び鈴の音が聞こえた。

 このお部屋で聞く、初めての音に瞬く。

 不思議そうに顔を上げた殿下へ向き直り、頭を下げた。


「見てきます」

「うん、ありがとう」


 解錠した二重扉の向こうにいたのは、お城からの使いの人だった。

 以前会ったことがある。

 リヒト殿下の護衛のひとり、ヒューイさんだ。


 息を切らせた彼は深刻そうな顔をしていて、良くない知らせを察した。

 彼は僕の出現に驚いたような顔をしていたけれど、よっぽど急いでいるらしい。

 執務室へご案内する。


 ヒューイさんの登場に、椅子から立ち上がった殿下が表情を強張らせた。


「……ベル、お茶をお願いしてもいい?」

「畏まりました」


 綺麗な笑顔だった。

 話を聞かれたくないのだろう。

 いつもの礼をし、速やかに退室する。


 いつもより丁寧にお茶を準備し、扉を数度叩いた。

 中から聞こえたリヒト殿下の声はいつも通りで、静かに扉を開ける。


 ヒューイさんはもう帰るらしく、短い謝礼の言葉を受けた。

 テーブルに茶器を置き、彼の見送りに立つ。


 リヒト殿下はいつも通りだった。

 柔らかで穏やかな微笑みと、品のある所作。

 落ち着いた声音は、いつも優しい。


 踏み込んではいけない。

 関わってはいけない。

 僕は、養父の思惑の中にいる。


 ――毎年収穫祭の期間中、必ず惨殺事件が起きる。


 けれど、今はまだ祭りは始まっていない。準備段階だ。

 今年はいつもより早い。違う件かも知れない。わからない。

 ……違っていればいい。


 リヒト殿下は何も触れない。

 いつも通り、穏やかな声で他愛ない話を時折交える。



 大体一週間くらい経った頃だろうか、窓の向こうにあった赤色が、忽然と姿を消した。

 不思議だった。リヒト殿下を呼んで、一緒に首を傾げた。

 あの赤色は、なんだったんだろう?


 学園で、生徒がひとり、事故死した知らせが出された。


 収穫祭は人通りも盛んになり、揉め事や事故、事件が起きやすい。

 単独行動は控え、必ず二人以上で行動するように。

 路地には入らないように、遅くまで出歩かないように。

 そんな注意が成された。


 子どもじゃないのにと笑うクラスメイトを横目に、裏側に隠された事情を察してしまい、俯いた。

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