02

「――と、いうような次第です」


 お嬢さまにリヒト殿下との応酬と、何とか遅刻せずに間に合った経緯を報告し、ぴしりと背筋を伸ばす。


 唖然と僕を見上げる石榴色の目が、緩く瞬かれた。

 白い指先を口許に添えられ、お嬢さまがあらあらとお声を発せられる。


 一緒に聞かれていたクラウス様が、静かに天井を見上げた。


「……殿下、……ついにやったか……」

「……何といいますか、……リヒト様のお身体が心配ですね……」

「お風邪を召されなければ良いのですけど……」

「うん……、そう、だな……うん……」


 クラウス様が片手で目許を覆われ、静かにお顔を背けられる。

 不思議に思ったのは僕だけのようで、お嬢さまは苦笑いを浮かべていらっしゃった。


「現在はご多忙中ですので、少々複雑ですが、大目に見ようと思っています」

「本当、悪いな、ミュゼット嬢」


 おふたりが何のお話をされているのか、いまいちわからない。

 けれど、こちらを見上げたお嬢さまが、「わたくしの分までお手伝いして差し上げて」と仰られたので、僕はものすごく頑張ろうと心に誓った。

 めちゃくちゃ頑張ろうと、お嬢さまに誓った。


「ひとまずは、アーリアさんと合流する時間までに報告書を仕上げて、ヒルトンさん宛に郵送しようと思っています」

「ええ。よろしくね」

「ベルの報告って、何つーか、癖だよな」


 クラウス様の一言に、はたと自分の行動を振り返る。

 ……小さい頃から日報を上げることが習慣だったから、癖……なのかも知れない。


 あとは、自分の気になった点や、気付いた点を見過ごした末に、お嬢さまや坊っちゃんに被害が出ることを恐れているからだろう。

 こくり、頷いた。


「癖ですね」

「わたくしはそれに、とても助けられているわ」

「……ッ!!」


 柔らかな笑顔のお嬢さまのお言葉に、心の中がぱああっと明るくなる。


 クラウス様から、宥められるように頭を撫でられた。

 ぽすぽす弾んだそれに対して、いつもなら不貞腐れる胸中も、今は全く気にならない。

 火照る頬を押さえた。


「おじょうさまに褒めていただけた……!」

「わかったわかった。ほら、席に戻ろうぜ」


 クラウス様に背中を押され、自分の席へ戻る。

 周辺のクラスメイトに冷やかされたが、いつもなら弄ばれるそれも、今は全く気にならない。


 何たって、お嬢さまに激励をいただけた上に、お褒めいただけたんだ!

 お嬢さまの存在が貴いことは太陽が東から昇るくらい当然のことだが、こんなにもお恵みをいただけるなんて、ご奉仕で還元させていただかなければ!


「……オレンジバレーのこういうとこ、ちょっと引く」

「ベール、現実に戻ってこーい」


 僕の前に座る同級生が頬を引きつらせていたけれど、浮かれた内情を置いて、ヒルトンさんへ送る報告書を書き上げた。


 多分、過去最速の出来だったと思う。

 計ってないから体感でだけど。


 二人掛けの長机に設けられた座席は、初回に引いたくじ引きの通りランダムだ。

 僕の隣はクラウス様で、現在は苦笑を浮かべて頬杖をついている。


 授業ごとに教室を移動することもあるため、引き出しにものを仕舞う文化は、あまりない。

 報告書を四つ折にしたところで、開いた扉から教師が現れた。






 つつがなく時間は流れて、お昼を知らせる鐘が鳴った。


 合流したアーリアさんへ、簡潔に経緯を伝達する。

 珍しく眉をひそめた彼女に小首を傾げるも、すぐにいつもの涼しい表情へ戻った。


 封をした手紙を片手に、持ち場を離れることを告げる。


 リヒト殿下のお昼ごはんの件もある。

 一番近いポストは、正門を出た通りにある。

 テルプシコラ通りと名のつく縦道は、学門と面しているためか、そこまで人通りは盛んでない。


 筒状の赤色ポストまで近付くと、後ろから蹄と滑車の音を聞いた。

 投函口に差し込んだ僕の手紙が、中で乾いた音を立てる。


 振り返った先に、茶色の馬から下りる郵便屋さんを見付けた。

 きょとん、瞬いた彼が浮かべた笑み。


 ……いつも王都別邸に郵便物を届けてくれる、あの人だ。


「こんにちは。久しぶりだね」

「お久しぶりです」


 人好きの笑みを浮かべる青年へ、軽く会釈する。

 にこにこ、微笑む彼が僕の傍に立った。


 僅かに持ち上げた視線の先、ポストを開けた彼が、腰を屈めて中身の郵便物を取り出す。


 ……すごい、ポストの中って、布袋がついてるんだ。

 人通りが少ないなんていったけど、手紙いっぱい……。


 ……いけない、まじまじと社会科見学しちゃってた。

 お仕事の邪魔してすみません。


「ポストの秘密、見ちゃったね」


 かしゃん、閉じられた扉によって、赤色が元の筒状へと戻る。


 悪戯に目許を緩める郵便屋さんは楽しげで、気まずさから苦笑いを浮かべた。

 馬が引く荷台に回収した袋を乗せた彼が、いつもの慣れた仕草で乗馬する。


「それじゃあ、勉強頑張ってね」

「ありがとうございます」


 軽く手を振った青年へ手を振り返し、蹄と荷台の引き摺られる音を見送る。

 はたと懐中時計を取り出し、経過した時間を確認した。


 い、いけない! リヒト殿下へお昼ごはんと、お嬢さまへお茶!

 街路は走っていいかな? いいよね!


 本気で走った後、お昼を獲得する。

 9階までの段数に、心臓がきゅっとした。






「せめて12時!」

「11時30分。これ以上は譲れません」

「シンデレラだって、12時まで夜遊びしてるのに!」

「あれは特別な一夜です。連日お身体を酷使するおつもりですか」

「72時間働けるから!!」

「この人こわい……」


 執務机で書類をさばくリヒト殿下と、就寝時間について討論する。


 僕自身、お仕事中毒者の自覚はあるが、上には上がいた。

 こんなにデスクワークに縛り付けられるタイプは、僕には無理だ。動き回りたい。


 窓を染める赤い光が日没を知らせる中、薄暗くなった室内を明かりが照らす。


 殿下の視力を落とすわけにはいかない。

 ただでさえ、そこの小窓からの日光しか浴びていないようなお方なんだ。

 健康をお守りしなければ!


「リヒト殿下、5時に起きられると仰りましたよね」

「言った」

「ちゃんと見てください、睡眠時間! 19時間机に向かわれるおつもりですか!? 殿下はまだ15歳の、寝る子は育つ子です!!」

「成長期の話はデリケートな問題だから、今は置いておこう……?」


 ブーメラン効果で、僕にも突き刺さる問題を叫ぶ。

 リヒト殿下は心なしか切なげな表情で、脇に立つ僕を縋るように見上げた。


 けれども、僕だって引けない。

 手にした手帳を、きゅっと握り締める。


「殿下をベッドまでお届けして、おやすみになられたのを確認してから、部屋に戻らせていただきます。なので、僕の睡眠時間を考慮してください……!」

「え? そ、そこまでするの? いや、部屋の前まででいいよ?」

「殿下が枕周りに要塞を築かない方でしたら、僕もそうしていました」

「あ、ばれてる」


 殿下の顔色が、サッと悪くなった。


「恐らく、持ち込んだ書類や何やらとにらめっこして、気付けば2時3時4時と夜更かしされる方なのだと、推察しています」

「わ、わー! ばれてる!!」

「僕自身、過干渉に大変恐縮しておりますが、『管理』をご希望された以上、徹底して『おはようからおやすみまで』を管理しようと思い立った所存です」

「今、身から出た錆って言葉を痛感してる!」


 気まずそうに、左端に寄せた茶器を手にした殿下が、あたたかな紅茶を啜る。

 伏せられた長い睫毛が室内灯に照らされ、時折不規則に光に透けた。


 ぱっと開かれたそれがこちらを向き、彼がカップをソーサーに戻す。

 明るく弾んだかわいらしい表情に、これはおねだりの顔だと瞬時に悟った。


「わかった! ベルは12時には寝たいんだよね? じゃあさ、ぼくと一緒に寝よう? ベッドもやたらと広いし、さすがにぼくも隣で人が寝てるのに、書類さばいたりしないから!」

「どこの世界に、使用人と寝たがる雇用主がいるんですかー!!」

「ここに!!」


 今度は僕が青褪める。

 何て無茶振りしてくれるんですかー!!


「絶対にダメです! ベッドの広さは、連日パジャマパーティーを開催していい理由にはなりません! 僕は部屋に帰らせてもらいます!!」

「えーっ、でも非効率的でしょ? ベルはぼくが寝付くのに30分を見込んでるみたいだけど、それこそ不眠拗らせて、2時とか3時になるかも知れないでしょ?」

「何でそう悪知恵を働かせるんですかー! 子守唄歌ってあげるんで、さっさと寝てください!」

「毎晩歌うことになるから、ベルの声枯れちゃうね」

「何時間歌わせるおつもりですか!?」


 にこにこと清らかな笑顔で微笑むリヒト殿下に、反論が間に合わない。


 こうなった彼は、「冗談だよ」というまで、僕のことをからかい続ける。

 普段理知的で洞察力が鋭い分、言いくるめなければならないときが大変だ。


 自信満々な表情で、殿下がにっこり口角を持ち上げる。

 世間が騒ぐ王子様の微笑を独占している現状だけど、悲しいかな、実情は夢物語ほど甘くはない。


 感嘆符の連続に、僕の呼吸がぜいぜいしている。

 恨みがましく、眼下のにんまり笑顔を見下ろした。


「……殿下、冗談もほどほどに、」

「え? 本気だよ」

「冗談ですよね!?」

「本気本気」


 あっけらかんと投げられた言葉に、泣きたい心地に陥る。

 どうしたら、この王子様の価値観を説得出来るのだろう?


 おろおろと狼狽える内情を抱えていると、顔を俯けて背けたリヒト殿下が、静かに肩を震わせていた。

 すっと剣呑な心地になる。


「……殿下?」

「ご、ごめんね……! ふふっ、ベルっては、本当真面目だなあ……!」

「……お夕食に、沸騰しているボルシチと、ジャークチキンと相当えぐくしたグリーンカレーをお持ちしますね」

「待って待って、ごめんってば! それ絶対食べるのつらいやつだから!」


 つんと顔を背ける。

 ついでにデザートに、黒胡麻じゃなくて、黒胡椒を使ったプリンを出してやる。

 そこの台所で作ってやる。


 殿下ほど修練を積んだ人なら、どんなえぐい料理でも笑顔で食べてくれるはずだ。


 僕の本気度を察したらしい、必死にリヒト殿下が謝り倒している。


「ごめんってば、ベル! ね?」

「……11時30分就寝でよろしいですね?」

「よろしいです……!」


 目尻に涙を浮かべた殿下から確約を取り、手帳にぎゅっと決定事項を記入する。


 その晩、就寝準備を整えたリヒト殿下に、ベッドの隣をぽんぽん叩かれ、第二回『僕は自分の部屋に帰らせてもらう!』大会が開催された。


 深夜1時にまで及んだその戦いの結果、翌朝の僕は、卵液を掻き混ぜることから始めた。

 胡椒の蓋を全剥がししたところで、殿下に止められた。

 羽交い絞めだった。


 殿下の必死の説得により、卵液はおいしい卵焼きとなった。

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