04

 机に置いた白いウサギのぬいぐるみ。

 今まで何処へ行くにも一緒だったアルキメデスは、今は寮の自室でお留守番してもらっている。


 彼の前に並べた、白いハンカチと、裁縫道具。

 頬杖をついて、アルキメデスの赤い目を見詰めた。


「ねえ、アルキメデス。おまじないって、効くと思う?」


 尋ねた言葉に、笑ってしまう。


 わたくしの一番の相談相手は、アルキメデスだ。

 お誕生日にクラウス様からいただいたその日から、彼には色んな話をしている。


 我ながら、子どもっぽいと思っている。


 けれども、わたくしの大切なアルキメデスは、聞き上手だ。

 彼に相談する、とわたくしの心は軽くなる。

 嬉しいことも、悲しいことも、彼にはたくさん話してきた。


「赤い糸で、相手の名前を刺繍するの。ふふっ、いっそ小指に結んじゃえばいいのに」


 運命の赤い糸だなんて、とってもロマンに溢れているじゃない。

 くすくす、声を立てて笑う。

 白いハンカチを広げて、刺繍枠に挟んだ。



 お姉さまにはあのような返事をしたが、わたくしには叶わぬ恋心がひとつある。


 わたくしは嫁ぐ身だ。

 この思いは成就されない。

 わたくしが嫁いだその日が、失恋のときだ。

 だからこそ、普段から愛だとか恋だとかは、考えないようにしている。


 そうでもしなければ、これまで慈しみ育んできたこの思いが、化け物に転じてしまいそうだからだ。


「おまじないくらい、すきにしてもいいわよね?」


 アルキメデスに問い掛ける。

 彼の赤い目と同じ色の糸を、刺繍針に通した。


 お裁縫は得意だ。

 アルキメデスが怪我したときのために、すぐに治せるようにと練習している。


 刺繍だって得意だ。

 以前ハンカチに施した、ウサギの刺繍をベルに見せたことがある。

 すごい、と褒めてくれた彼の笑顔は、とてもキラキラしていて嬉しかった。


 ぷつり、張った布地に針が刺さる。


「……っ、」


 こんなもので、あの子がわたくしに恋するはずがない。


 あの子がわたくしに向ける感情は、崇拝に類似している。

 崇めるものを愛することはあれど、恋するなんて、出来る?


 空しい思いが加速する。

 だからこそあの子は、わたくしが誰といようと心を乱さない。

 誰の話をしても、優しく微笑んでくれる。


 わたくしはあの子が他の女の子の話をするだけで、あの子の口を塞ぎたくなるというのに、あの子に嫉妬の感情は微塵もない。


 けれども、あの子の一番はわたくしだ。

 あの子は何よりも、わたくしを優先している。

 わたくしが差し出した手を、何の疑いもなく取ってくれる。

 わたくしが微笑めば、あの子は嬉しそうな顔をする。

 あの子の世界は、わたくしを中心に回っている。


 それがどれほど代えがたいことか。


 アルでもなく、リヒト様でもリズリットさんでもなく、あの子の心には、いつもわたくしがいる。

 例えこの先わたくしが嫁いで、あの子と離れ離れになったとしても、あの子はわたくしを忘れない。


 それだけで充分ではないか。

 あの子が色恋に興味を示さないことが、何よりの幸いだ。


「何て不毛なのかしら。笑って頂戴、アルキメデス」


 うっかり滲んでしまった視界を指先で払って、苦く笑む。


 だから考えないようにしていた。

 恋慕なんて叶わない。

 わたくしは、あの子の傍を明け渡さなければならない。


 アルからあの子を引き剥がすことは、得策ではない。

 ミスターもいつまでも健勝ではない。

 執事となるべく修練を積んだあの子は、わたくしの傍ではその技術を生かすことができない。


 ――否定要素ばかり挙げるのは、諦めるための理由付けだ。


 赤い糸を引き抜き、代わりに黒色を通す。

 簡単な図案を描き、無心で何度も布地に針を突き刺した。


 お願いだから、かっこよくならないで。

 いつまでも、いつまでもわたくしの可愛いベルでいて。

 あなたと手を繋ぐとき、わたくしが密かに緊張しているだなんて、あなたは考えたこともないでしょう?


 完成した黒い犬。

 いつも尻尾をぶんぶん振って、落ち込んだらしょんぼり項垂れて、お利口で温和で。

 でも、主人を守るときは勇敢に牙を向く、そんなわたくしの大切な子。


 青い目を描かなかったのは、秘匿にしたいからだ。


 この思いはあの子に届けられない。

 わたくしとあの子は、立場が違い過ぎる。

 わたくしの行く末は決まっている。

 あの子を困らせて、今のあたたかな関係を壊したくない。


 別のハンカチを取り出し、今度は黒い猫を描いていく。


 しなやかで華麗で、音もなくわたくしに寄り添ってくれる、大切なお姉さん。

 わたくしの事情を察していながら、何も言わずに見守ってくれる、聡い彼女。


 きっと彼女は、わたくしの誤魔化しに気付くだろう。

 それでも黙して接してくれる。

 いつも付き合わせて、ごめんなさい。


 完成した二枚のハンカチを撫でた。


「意気地なしのくせに、ずるいわよね、わたくし。それでも、あの子の喜ぶ顔が見たいの」


 きっとあの子は、このハンカチをそれはそれは嬉しそうに受け取るだろう。

 千切れんばかりに振られる、尻尾の幻覚が見られるかも知れない。

 入学してから、あの子とふたりで話す時間は極端に減った。


 きっとあの子は、あんなおまじないのハンカチより、後生大事にこのハンカチを持つだろう。

 それでいい。せめてそれだけでいい。

 あの子も幸せ、わたくしも幸せ。それだけでいい。






「ベルにはこっち。アーリアには猫を渡したの」

「わあああっ!! いただいてよろしいのですか!? ありがとうございますっ、お嬢さま!!」


 翌日、わたくしの目論見通り、ベルは尻尾をぶんぶん振って、ハンカチを受け取ってくれた。


 緩んだ頬は可愛くって、嬉しそうな声は弾んでいて、わたくしの刺繍を褒めてくれる。

 大喜びなベルを宥めたクラウス様が、にっこりと笑みを浮かべた。


「ミュゼット嬢は、刺繍が上手なんだな」

「はい。アルキメデスのために鍛えてますの」

「そっか、ありがとな」


 照れたようにはにかんだクラウス様が、ぽすぽす隣のベルの頭を撫でる。


 恐らくは照れ隠しなのだろう。

 まさか彼も、5歳の頃のプレゼントが、こんなにも長生きするとは思ってもみなかっただろう。


「ちょ、クラウス様! 今、僕の頭を撫でる必要ありましたか!?」

「あったあった。海よりも深い事情単位であった」

「絶対なかった!!」


 クラウス様の手から逃れようと、ベルが数歩下がる。

 ごんっ、彼の身体が背後の机にぶつかった。

 短く痛みを訴えたベルの足許に、白い布がぱさりと落ちる。


 わたくしのハンカチが落ちてしまったのかしら?

 思ったそれを彼が拾い上げ、二枚の白いハンカチを携える。


 きょとん、わたくしと同じように、ベルもクラウス様も不思議そうに瞬いた。


「誰かの忘れものですかね?」


 落しもののハンカチを一度机に置き、ベルが丁重にわたくしのハンカチを制服の内ポケットへ仕舞う。

 両手の空いた彼が机のハンカチを手にし、丁寧な仕草で開いた。


 縁に細いレースのあしらわれた、真白なハンカチ。

 その隅の方に、赤い文字が並んでいた。


「ベルのハンカチか?」

「いえ、そんなはずは……」


 不思議そうに瞬いたクラウス様へ、困惑したようにベルが首を横に振る。

 白いハンカチには、『ベルナルド・オレンジバレー』と赤い糸で刺繍されていた。


 ざわりと心臓が騒ぐ。

 胸に当てた手に圧を加え、可能な限りいつも通りに振舞えるよう、深く息をついた。


「僕、こういった紛失しやすいものには、名前を書かないんです。……足がつきやすいので」

「物騒な理由だな……」

「ヒルトンさんもアーリアさんも、そんな感じなんですもん……」


 屋敷の護衛班の名前を並べ、ベルが小さくむくれる。

 思い当たった光景は、ベルやアーリアから借りるハンカチが、いつだって完全な無地であることだった。


 コード公爵家の関係者である彼等は、その屋敷の娘であるわたくし以上に、警戒心が強い。

 他者の関与を阻むためなのだろう。

 名前がわからなければ、持ち主を調べることも出来ない。


「毎回三人で、ハンカチカルタしていたので」

「楽しそうだな」

「結構白熱してました。香水のにおいで判別したり」

「今度、わたくしも混ぜてもらおうかしら」

「そ、それはちょっと……!」


 焦ったようにベルが声を上げる。

 彼の語る情景が、ほのぼのと想像出来て微笑ましい。


 しかし体験者の様子から見るに、現実はもっと俊敏なのだろう。


 彼等は、特にミスターは、いつも時間に追われている。

 アーリアも、女性としての嗜みなどの意識は低いので、とても適当に選別していそうだ。


「なので、ここまで堂々とハンカチに名前を記すなんて、ないんです」


 困り顔でベルが断言する。

 彼がそう言うのなら、それは事実なのだろう。


 ……わたくしとしては、考えたくない線が残ってしまった。

 ぎゅっと固く手を握る。


「あれじゃねえか? ほら、前におねえさまが言ってたおまじない」

「あれって、肌身離さず持つタイプのおまじないじゃありませんでしたっけ?」

「ついでに言うと、誰にも見つかっちゃいけないタイプのおまじないだったよな?」


 彼等が確認を求めるように、こちらへ顔を向ける。


 ……女の子だからって、みんながみんなおまじない好きだなんて、思ってもらっては困る。

 ……確かにちょっと手を染めようとはしたけど。


「わたくしも、そのように記憶しています」

「じゃあ何だ? これ、失敗ってことなのか?」

「……あっ」


 不思議そうに瞬いたクラウス様が、視線をベルの持つハンカチへ落とす。

 彼の言葉に小さく声を上げたベルが、気まずそうに顔を背けた。


「……その、非常に言いにくいことなのですが、これまで何度か交際の申し込みを受けていまして、……その、全てお断りしているんです」

「……は? いや、……はー、そうなのか?」

「はい……」


 落ち込んだ表情で俯くベルに、わかってはいたけれど、しっかりと心構えと心積もりと想定を立てて身構えていたけれど、それでもわたくしの地雷を鮮やかに踏み抜かれてしまい、口許が引きつる。


 鈍器で殴られたようにも、心臓をナイフでぐちゃぐちゃに掻き混ぜられるようにも感じる痛みに、うっかり逃げ出してしまいそうになる。


 ……大丈夫、ベルは全て断っている。

 だから大丈夫だ。呼吸を落ち着ける。


 クラウス様も、衝撃を受けたようなお顔をされていた。

 彼にとっては、可愛い弟のようなベルだ。

 その子が誘惑されていた事実も、ばっさり振っている事実も、彼にとっては驚愕だったのだろう。


 米神を押さえたクラウス様が、緩く頭を振られる。


「なんつーか、意外だな。ベルって、好意にはすんなり応えそうだと思ってた」

「気に入っていただけることは、素直に嬉しく思います」


 どうしてここにアーリアがいないのだろう?


 せめてリヒト様がいてくれれば。

 彼は乙女心とか、感情の機微に聡い。

 このふたりのように、ちょっと繊細さに欠ける言動なんてしないのに……!

 ふたりはもっと、リヒト様の紳士らしさを見習って!


 わたくしの心情は届かず、ベルがハンカチを見下ろす。

 弱り切ったように眉尻を下げる彼が、口を開いた。


「ですが、……僕が僕である以上、誰かひとりを優先させることは出来ません。それは相手方に失礼なので、お断りしています。お嬢さまと坊っちゃんにお仕えしたい、僕の我がままなんです」

「つくづくベルだなって、思ったわ」


 クラウス様がベルの頭をわしわし撫でる。

 拒否の声を上げるベルは逃げようと必死で、けれども諦めたようにされるがままになっていた。


 ……都合のいい手のひら返しだ。

 彼の信条は、わたくしにとっての救いだ。


 例え縛り付けることになっていても、彼がわたくしを選んで、わたくしの元へ帰ってきてくれる。

 ただそれだけで満ち足りた気持ちになれる。

 胸の中がいっぱいで、うっかりすると溺れそうだ。


「でも何でまた、ベルの席にハンカチ置いてったんだろーな?」

「希望が通らなかったから、お返しされたとかですかね?」


 うーん、ふたりが悩んでいる。


 わたくしとしては、そのハンカチの主が、わざわざベルの席に座っていたことに嫌悪しまう。

 振られてなお、付き纏っているように見えて、気味が悪い。


 自分の想像に、ぞっとした。


「あれだな。赤色の刺繍ってところが、『お前を呪ってやる!』感満載で、おどろおどろしいよな!」

「こわいこと言うのやめてください。えっ、こわい……」


 わたくしたちは、各自教室を移動する。

 不在時に誰が机を使っているのかわからない。


 例えばハンカチの主が、意図的にベルに存在を気付かせるために、件のハンカチを残したのだとすれば?


 どうしてこの子はこうも、執念深い人ばかりに好かれるのかしら?


「お嬢さま……! クラウス様がいじめてきます!!」

「あーっ、ミュゼット嬢に頼るのずりー!」

「大丈夫よ、ベル。クラウス様はお優しい方ですもの」

「似非爽やかさに騙されてはいけません、お嬢さま!!」

「ひでえ」


 けらけら、笑うクラウス様がベルを小突く。

 ふざける彼等は楽しげで、わたくしの心配事との温度差が凄まじい。


 クラウス様が、彼の手からハンカチを取り上げた。

 手早く畳まれたそれが、何事もなかったかのように引き出しへ戻される。


「こういうのは、見なかったことにすんのが一番だぜ」

「そうですわね。もしかすると持ち主の方も、置き忘れて困っていらっしゃるかも知れませんし」

「そ、そうですね! 僕は何も見ていません!」


 片目を閉じたクラウス様に倣い、やんわりとベルを危険物から遠ざける。

 はたと背筋を伸ばしたベルは慌てた様子で、何度も繰り返し頷いていた。


 ……純粋に、素直に、そうだといい。

 ベルに思いを告げられず、胸の内に秘めている子が、うっかりハンカチを置き忘れてしまった。

 これが理想だ。


 ベルが席を外している間に、クラウス様にわたくしの所感を話した。

 普段砕けた笑顔が印象的な彼は、神妙な表情でわたくしの話を聞いてくれた。


 唐突に頭をぽすぽす撫でられる。

 いつも彼がベルにやるような、そんな仕草。

 見上げた顔は、安堵させるような明るい笑みだった。


「ミュゼット嬢が他の授業にいる間、出来るだけベルについとくぜ」

「ありがとうございます、クラウス様」

「席も隣だしな。気にかけとく」


 屈託のない彼の笑顔は、心から安心出来る。

 彼はいつもわたくしを助けてくれる。

 憧憬と、尊敬と、恋心を、混合させたこともある。


 頼りになる彼は同い年だけれども、わたくしの素敵なお兄さんだ。

 ベルがいなかったら、わたくしは彼に恋していただろう。


 かくして、本人の知らぬ間に防衛線の敷かれたベルは、意図に気がつくことなく、平常通りに過ごしていた。


 件のハンカチは、いつの間にかなくなっていたらしい。

「持ち主の元へ返れて、何よりです」と微笑むベルは、あのおまじないを正しく理解しているのだろうか?

 こういう繊細さの足りないところが、減点ポイントなのよ……。

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