02
「……わかりました。こちらでも警戒します」
「ありがとうございます」
クロークルームに続く廊下へアーリアさんを呼び出し、事のあらましを説明する。
眉間に皺を寄せた彼女が頷き、ため息をついた。
「あなたも充分な警戒を。必ず誰かと行動を共にしなさい」
「誘拐の注意を受ける、子どもみたいですね」
「あなたは今でも充分子どもです」
「ひどい……」
確かにアーリアさんより、年下ですけど……!
悲しみに耐える僕を見詰め、彼女が真剣な表情を作った。
「良いですか。使用人がひとり失踪したところで、世間は動きません。例え本人の意思がなかろうと、『新しく雇った』と言われれば、それまでです」
「……はい」
「幸い、あなたは学生としてこの学園に籍を置いています。異常があれば発覚しやすい。……揉み消されなければ」
先輩の言葉に背筋が冷える。
今回の令嬢の家は、恐らく爵位が高い。
高位の存在から圧をかけられれば、周囲は詮索出来なくなる。
万が一僕が連れ去られた場合、顔を覚えているのはリズリット様だけとなり、人物の特定は困難を極めるだろう。
仮に突き止めたとしても、白を切られればそれまでだ。
……ええっ、こわい。誘拐は犯罪だよ!?
「相手はお嬢様に私怨を抱いています。単純にあなたへの好意もあるでしょう。お嬢様へご迷惑をおかけしないためにも、自衛に努めなさい」
「わかりました……」
「寮が離れていること、来年には坊ちゃまがご入学されることが救いでしょう。
お嬢様を含め、コード家の皆様は私たちにお心を砕いてくださる。ご恩に報いるためにも、あなたは自身を大切になさい。良いですね?」
「わかりました。自衛と報告に努め、単独行動を控えます」
「はい。確かに」
しかと頷いたアーリアさんが、踵を返す。
暗に示された『戻る』の仕草に従った。
ざわめきと優雅な演奏が近付き、薄暗い通路から明るいホールへ移る。
皆様方の元へ戻ると、飲みものを手にされていたお嬢さまが、係の人へグラスを手渡した。
心配そうなお顔で、こちらへ駆け寄られる。
「ベル、アーリア、大丈夫?」
「ご心配おかけしました、お嬢さま。不備はございません」
「そう……」
眉尻を下げられたお嬢さまのお顔が切ない。
誰だお嬢さまを憂いさせたやつ!
僕だよ、滝に打たれてくる!!
「ベル、顔色が良くないが、本当に大丈夫か?」
「大丈夫です。さっきアーリアさんと、本当にありそうなこわい話をしてきたばかりなので」
「楽しそうだな……?」
クラウス様のお気遣いに、曖昧に誤魔化した表現で返答する。
苦笑いを浮かべた彼が首を傾げた。
お嬢さまが、僕の手を取られる。
「……少しだけ、わたくしのお散歩に付き合ってもらいたいの」
「畏まりました。では、上着をお持ちします」
「構わないわ。ほんの少しだから」
切実さの感じられるお嬢さまのご要望に頷き返し、ジャケットの袖が捲れないよう、さり気なく整える。
席を外す旨を伝え、お嬢さまに促されるまま、空中庭園へ向かう道順を辿った。
いつから降っていたのか、夜闇に浮かんだ空中庭園は、うっすらと雪を被っていた。
吐息が白く濁る中、率先して外階段を上られたお嬢さまが、ヒールを鳴らす。
豪奢なドレスでは足許も見えにくいだろうに、そんな難点などないかのように、お嬢さまは身軽だった。
「すっかり冬景色ね」
白い呼気を昇らせ、臙脂色の裾を手放したお嬢さまが呟かれる。
自分のジャケットを脱いで、剥き出しになったお嬢さまの肩にお掛けした。
ううっ。寒いけど、お嬢さまを凍えさせるわけにはいかない!
はっとこちらを見上げたお顔が、石榴色の目を大きくさせた。
「……ありがとう、ベル」
「お嬢さま、お寒くはありませんか?」
「ベルこそ、寒いでしょう?」
肩から下がるジャケットを胸の前で合わせ、お嬢さまが俯かれる。
やっぱりお寒いんじゃないだろうか。
お風邪を召されたらどうしよう。やっぱり上着を……。
おろおろと狼狽える僕へ、お顔を上げたお嬢さまが、悪戯っぽい笑みを見せた。
「ねえベル、踊りましょう?」
「えええっ、僕、踊ったことありませんよ!?」
「じゃあ、これが初めてね! 大丈夫よ、こうして腕を回して……」
「ほ、本当にやるんですか!?」
茶目っ気を込めて微笑むお嬢さまが、僕の腕を持ち上げ、型へ導く。
ど、どうしよう! ダンスなんて縁のないものだと切り捨ててきたから、何をどうしたらいいのかすらわからない……!
内情が情けないくらい泣きそうに追い込まれる。
お嬢さまのおみ足を踏んでしまったら、その瞬間に首刎ねなきゃ!!
「……ベル、足許ばかりではなく、相手の顔を見るのよ」
「ふええっ、お嬢さまのおみ足を踏んでしまいそうで……っ」
「そのときはわたくしも踏み返して、お相子よ。この一回だけでいいの。お願いよ」
「か、畏まりました……」
「ほら、笑顔笑顔!」
お嬢さまに叱責され、震える内情を整える。
いち、に、さん、とカウントを取られるお声に従い、覚束ない足を動かした。
正直に申し上げるなら、ダンスのことを侮っていた。
規定のステップを踏みながら、相手の足を踏まずに姿勢を正して、優美な笑みを浮かべる。
なるほど、全くわからない。
半ばお嬢さまに引き摺られながら、必死に足を動かした。
……これをダンスだと、ワルツだと称してしまえば、ダンス協会の人からお叱りをいただいてしまう。
何ともお粗末な出来に、お嬢さまへ申し訳が立たない。
「……ベル、わたくしを見てちょうだい」
「は、はい」
「覚えていまして? あなたが屋敷に来たばかりの頃。わたくし、あなたをダンスの練習相手にして、あなたのことを転ばせてしまったの」
「そうだったんですか!?」
くすくす、微笑まれるお嬢さまが、思い出を口にされる。
目許を緩められ、懐かしむようなお顔をされた。
「ステップについて来られなくて、自分の足に縺れて転んでしまったの」
「どんくさい……」
「そんなところが堪らなくかわいくて、わたくし、たくさんあなたに無茶をお願いしたわ」
大きな箒を持たせてみたり。
分厚い本を持たせてみたり。
高いところのものを取るよう、お願いしてみたり。
続々と明かされるお嬢さまの小さないたずらに、微笑ましさと気恥ずかしさを抱く。
思えば、幼い頃からお嬢さまは、僕のことを大変気にかけてくださっていた。
「いつもにこにこ笑ってくれて、わたくしの後ろを追いかけて、『おじょうさま』と呼んでくれるの」
「お嬢さまにお仕えすることが、僕の至福ですので」
「ねえベル。いつまでも、いつまでもわたくしのかわいいベルでいて」
吐息に笑みを混じらせ、添えられた手が緩く握られる。
お嬢さま基準の『かわいい』はよくわからないけど、お嬢さまが喜んでくださるのなら、もうそれでいいのかも知れない!
いくつまでかわいいは適応されるのかな?
さすがに三十代になってもかわいいは……あー、でも旦那様は、度々お茶目かわいいおじさんになるなあ。
かわいいって、奥が深いなあー。
「畏まりました。ご期待に沿えるかはわかりませんが、精進したいと思います!」
「ふふっ、よろしくね」
上機嫌に微笑まれたお嬢さまが、鼻歌を歌ってステップを踏まれる。
凍えた身体に、近距離の体温があたたかく感じられた。
お嬢さまの嬉しそうなご様子に、僕の頬も緩む。
天候が崩れてきたらしい。
ふわりと落ちた淡雪が、黒いジャケットに染み込んだ。
――お嬢さま、お寒くはありませんか?
再度お加減をお伺いすると、残念そうな笑みを返された。
ゆっくりと腕が解かれる。
「戻りましょう。ベルは、シャツとベストだけだものね」
こちらへ背を向けたお嬢さまの、夜に沈んだ臙脂色に、記憶が閃く。
ゲームの予定では、星祭りの頃に『対立』の話が上がり、収穫祭の頃にお嬢さまは凶行へと走られる。
転がり落ちるように断罪される結末は、そのほとんどが死亡だ。
……いないんだ。
収穫祭の先にある冬の景色に、お嬢さまはいらっしゃらない。
来年のこの時期に、再びお嬢さまと言葉を交わすことが出来ないのかも知れない。
実感した重苦しさに、呼吸が狭まる。
逸る心音が外へ聞こえないよう、「お嬢さま!」いつもより大きな声でお呼びした。
振り返った主人が、不思議そうなお顔をされる。
「っ、お手を。前を歩きます」
「ありがとう、ベル」
柔らかく微笑むお嬢さまに、お守りしなければ、思いを新たにする。
華奢な指先を取り、階段へご案内する。
お嬢さまの手が、僕の髪を撫でた。
「雪が」小さな呟きに、胸が苦しくなる。
必ずお守りしなければ。
外面を整え、お礼を告げた。
*
「疲れてるのに、呼び出してごめんね」
舞踏会が終わった後、リヒト殿下のお部屋に呼び出された。
……呼び出されたといっても、今年一年は殿下のお世話係を引き受けている。
寝支度のために、お伺いするつもりだった。
無人だったお部屋をあたためながら、飲みものを用意する。
ミルクティを作る僕をソファから眺め、リヒト殿下が微笑んだ。
「ありがとう。ベルのお陰で、最近寝起きが楽だよ」
「殿下って、血圧低い方ですか?」
「どうだろ? 単に熟睡してないからかな」
「また枕元に要塞を作られてるんですか?」
「今は作ってないよ」
吐息を弾ませたリヒト殿下の元に、出来上がったミルクティをお運びする。
お礼を告げた彼の服装は、簡易的なものだ。
ある意味見慣れた殿下のお姿に、特別な一夜が終わったことを実感した。
「ねえ、ベル。ここに座って」
ソーサーを鳴らした殿下がこちらを手招き、ソファの隣をぽんぽん叩く。
えええっ、抵抗感がすごいんですけど……。
殿下はご自身がこの国の王子殿下だというご自覚を、もっとお持ちになった方が良いと思います。
「……どうしてもですか?」
「うん、どうしても」
にっこり、綺麗な笑みを見せられ、諦めてお隣に腰を下ろす。
こういうのは、渋って自分からハードルを上げるより、手早く要望を叶えて終わらせるに限る。
浅く腰掛ける僕を小さく笑い、リヒト殿下が僕の腕を取った。
あっと思った頃には袖を捲られ、赤黒く沈着した皮膚が晒される。
慌てて腕を引くと、容易く殿下の指が離れた。
「殿下!」
「誰につけられたの?」
問い掛けながら立ち上がった彼が、淡々とした仕草でタオルを濡らす。
絞ったそれを手に、元の席へ戻った彼が、爪痕にそれを押し付けた。
ひやりと冷たい刺激と、物が触れる痛みに、小さく呻く。
「……お名前は存じ上げません」
「ふうん?」
「記憶にない方でした。恐らくアーリアさんの方で、調査が行われると思います」
リヒト殿下の言い知れぬ威圧感に、素直に白状する。
僕の腕を見下ろす彼に表情はなく、それがかえって恐怖心を煽った。
……何だろう、いつぞやの壁ドンを思い出すのだけど……。
「えと、……何で、わかっちゃったんでしょうか……?」
「袖を気にしてたから」
「……はあ」
「ベルはいつでも制服を正しく身につけている。シャツにだって、皺ひとつない。それが呼び出しの後、やたらと袖を気にして引っ張ってた。それも左ばかり」
「……そう、ですか」
「今更ベルが制服を気にするなんて、違和感あるよね」
思わず遠くを見詰めてしまう。
そんな、たったそれだけの行動で見抜かれてしまうだなんて。
どうやったら殿下のスナイプを塞ぐことが出来るのだろう? 名探偵かな?
「左手、爪痕の向きから見て、隣に並んだ女性、エスコートの最中に揉めたんだろうね」
「あっ、もういいです! 分析もうお腹いっぱいです!」
「ぼくね、自分で思ってた以上に、ベルに怪我されるの嫌みたい」
ここで見せられる、綺麗な笑みから導き出される答えを求めなさい。
アンサー、絶対服従。
青褪めながら、こくこく何度も頷く。
リヒト殿下の迫力ある微笑みが恐ろしいです。
「ベル、怪我しちゃだめだよ?」
「ひゃい……っ」
「あはは、どうしてそんなに怯えてるの? 不思議だね」
上品に微笑まれる仕草がこわいだなんて、この瞬間まで思いもしなかった!
何で僕、こんなにも重圧かけられてるんだろう、おかしいな!?
小刻みに震える僕を置いて、ソファから立ち上がったリヒト殿下が救急箱を持ってくる。
「上着脱いで、袖捲くって」端的な指示に、黙して従う。
消毒液をかける彼の顔に、表情はなかった。
恐る恐る声を掛ける。
「……あ、あの、殿下、……消毒液、かけ過ぎじゃないでしょうか……?」
「え? ああ、……うん。……ごめんね、痛かった?」
確実にしみているけれど、迂闊なことなんて言えない。
首を横に振ると、やっぱり無表情で包帯が巻かれていく。
出血もしてないのに、大袈裟な……。思ったそれを指先でなぞり、殿下が長い睫毛を伏せた。
「これが消えるまで、ぼくに経過を診せて」
「放っておけば、このくらい消えますよ!?」
「これの上から爪を立てられたくなかったら、ぼくに経過を診せて」
「はい、勿論です!!」
びっくりな脅し文句に、涙目で快い返事をする。
リヒト殿下、どうしちゃったんですか!?
対立戦まだなのに、心がナーバスになっちゃったんですか!?
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