02
東区『Melissa』は、昼は軽食屋を営み、夜は酒場へと切り替わるタイプのお店だった。
……これは、確実に僕ひとりでは入れないお店だ。
枢機卿は「パパ」と言っていたけど、今最も顔を合わせたくない人物と夜のお出かけなんて、僕の胃が捻じ切れそう。
お店の場所だけ調べ、屋敷へ戻る。
日暮れまでの時間が一日一日速まるこの時期は、時間調整が難しい。
空に赤味が差す頃屋敷へ戻って来られ、安堵の息をついた。
懐中時計も安全圏の時間を指し示し、今日こそは怒られないぞと裏口を開ける。
葉巻くさいジャケットを脱いで右腕にかけたところで、失念していた三角巾の存在を思い出した。
何処やったっけ!? えっと、内ポケット?
脱いじゃった! 取り出しにくい!!
「ベル! お帰りなさ……」
「あっ、お嬢さま! ただいま戻りました!」
わたわた屈んで三角巾を引っ張り出そうとしている僕へ、にこにこと駆け寄って来られたお嬢さまが、不思議そうなお顔で首を傾げられた。
すんすん鼻を鳴らせているご様子に、すっと血の気が引く。
「……? 何だか甘いにおいがするわ」
「と、隣に座っていた方の葉巻のにおいです!」
「ほう」
天使の後ろに立った、にっこり笑顔の魔王の登場に、本日の営業終了の音楽が流れる。
彼に挑むためには、装備を整えなければならないのに。
青褪め震える僕を見下ろし、ヒルトンさんがにこにこ笑う。
きょとんと瞬いたお嬢さまが、僕を見て何かに気づかれた。
「ベルったら、三角巾まだ外しちゃダメでしょう!?」
「も、申し訳ありませんっ、お嬢さま!」
「ベルはいっつも無理ばかりするもの! 覚えてまして? 風邪を引いているのに、外回りの掃除をやりだした冬の日!」
「小さい頃! 小さい頃のお話です!!」
「今でも小さいわ!!」
腰に手を当てたお嬢さまの一喝に、一瞬で涙目の境地まで追い込まれる。
しょぼん、肩を落として俯く僕に合わせて膝をつかれたお嬢さまが、やんわりと僕の頭を撫でてくださった。
「わたくし、これから先も、ずっとベルがいてくれなければ嫌よ」
「お嬢さま……」
「だから、無理は決してしないで」
頬を包まれ、目線を合わせられ、お嬢さまが微笑まれる。
大天使かな? 余りの神々しさに拝んだ。
「畏まりました」
「今度無理したら、一週間女の子の制服でいる刑」
「……はい?」
「いつかリヒト様とクラウス様にもお見せしましょうね」
にこにこ、花咲く笑顔でお嬢さまが僕の手を取り、気遣わしげに立たせてくださる。
落ちたジャケットはヒルトンさんが拾ってくれた。
冗談ですよね? の意味合いを込めてお嬢さまを見詰める。
大天使様は変わらず、素敵な笑顔を振り撒いてくださった。あ、眩しい。
「このくらいしなきゃ、ベル、言うこと聞いてくれないんですもの」
「ベルナルド用のメイド服を準備いたします」
「ありがとう、ミスター!」
目の前の大天使様がお花畑が広げた。
それを寒々しい心地で眺める。
……そっかー、刺客はひとりじゃなかったんだ。……そっかー……。
*
20時。ヒルトンさんに手を引かれながら、東区『Melissa』の扉を開ける。
ざわざわと話し声の聞こえるそこは、酒場や居酒屋というより、バーといった内装をしていた。
暗い照明の中、明るいカフェの雰囲気を払拭した雰囲気で、各テーブルが独立した空気で賑わっている。
ヒルトンさんに案内されるまま、カウンター席の隅っこに腰を下ろした。
「ご注文は」
「ホットミルクとウイスキー」
壁際に座った老紳士が、片目を閉じて僕に目配せする。
僕は知っている。
ヒルトンさんは酒豪だ。
それこそ水のようにアルコールを摂取する。
以前、旦那様との飲み比べで、圧勝したヒルトンさんが、足取り乱すことなく主人をベッドへお運びした姿を忘れない。
本当、何者なんだ、ヒルトンさん……。
「ウイスキー」
隣の席が音を立て、背の高い男性が座ったことに気づいた。
横目でちらりと見上げ、その顔に小さく声を上げる。
見覚えある男性の顔。
確か2年前の星祭りの日の、暗視した中で見た顔だ。
こちらを見下ろした冷めた目に、あの日の護衛のひとりだと確信する。
「……あなたが、ハイネさんですか?」
「…………」
両隣に置かれたウイスキーが軽い音を立てる。
無言でそれを煽る彼に反応はなく、じっと青年を見上げた。
歳は若い。20代そこそこだろうか。
変調した照明のため、色はよくわからないが、赤っぽい髪色なのはわかった。
短めの襟足に、鍛えているのだろう、がっしりとした身体つきをしている。
カウンターの照明に照らされた緑の目が、こちらへ向けられた。
彼が興味をなくしたように嘆息する。
「ガキは大人しく帰って寝な」
「この交渉が終わったら、大人しく帰って寝ます」
僕の前に湯気の立つマグが置かれる。
甘いにおいのするそれを一瞥し、再び隣の青年へ視線を向けた。
頬杖をついた彼は、僕を上から下まで見回しているところで、「公爵家か」ぼそりと呟いた。
「コード邸のオレンジバレーです。本日は折り入ってお願いがあり、枢機卿に無理を通していただきました」
「ガキに用はない」
「ま、待ってください!」
立ち上がった彼が金銭を置いて立ち去ろうとするのを、寸前のところで袖を掴んで引き止める。
射殺さんばかりの視線で振り返られ、心臓が潰れるかと思った。
こわい。このお兄さんこわい。
「ここのウイスキーは美味しいですね。普段ワインばかりですが、やはりたまには良い。あなたもそう思いませんか?」
にこにこ、毒気のない老紳士に話しかけられ、一度上げた腰を青年が下ろす。
ため息をついた男が、ヒルトンさんへ視線を向けた。
「煙くさい」
「おや青い。そこも良さのひとつですよ」
のほほんと微笑んだヒルトンさんが、グラスの淵を親指で撫でる。
先ほど置かれたばかりの琥珀色の液体は、いつの間にか底にうっすら残る程度にまで失われていた。
一気に飲みすぎじゃありませんか? にこにこ笑顔を振り仰いだ。
青年を見据えたまま、うわばみが笑みを深める。
「どうです? 飲み比べしませんか?」
「金はどうする」
「そうですね、こちらで持ちましょう。但し、私が勝てば、あなたには護衛の面接を受けていただきますよ」
「……俺が勝てば、この話はなしだ」
「最後にお名前の確認を」
「ハイネだ」
「承りました」
にっこり、笑んだヒルトンさんがマスターを呼ぶ。
「ウイスキーとブランデー、どちらがお好みですか?」笑顔の問い掛けに、「どちらでも」頬杖をついた青年が返した。
僕の記憶に間違いがなければ、どちらも度数の高いお酒だったように思う。
そんな、わんこそばのような扱いをして良いものだったっけ?
急性アルコール中毒とか大丈夫?
お兄さん、突然死しない?
上機嫌のヒルトンさんが、マスターにウイスキーを注文する。
ホットミルクを挟んで、飲み比べ対決の火蓋が切って落とされた。
そもそも、何で飲み比べなんだ。
グラスを煽るヒルトンさんをねめつけ、ピンと来る。
飲みたかっただけだ、この人!
「ヒルトンさん……」
「君にはまだ早いよ、ベルナルド」
茶目っ気を込めて微笑まれ、優雅な手付きで老紳士が透明のロックグラスを鑑賞する。
隣のハイネさんはペースが速い。
時折チェイサーを挟む彼が、嘲るように口角を持ち上げた。
「どうした? タダ酒にしてくれるのか?」
「まさか」
のんびりとグラスを空にしたヒルトンさんが、味わうようにチェイサーを口に含む。
次なるグラスへ手をかけた彼が、吐息だけで笑った。
「私はね、お酒が好きなんだよ」
ぐらぐら揺れる青年の頭が、テーブルに崩れ落ちる。
それでも離さないロックグラス。
彼の前には同じ形のグラスが、山と積まれていた。
対するヒルトンさんは、変わらぬ優雅さでウイスキーを煽っている。
よっぽど上機嫌なのだろう、度々僕の頭を撫でては、にこにこしている。
そんなヒルトンさんの前にも、空のグラスが整列していた。
いつの間にか僕たちの周りには人が集まり、声援と野次が酔っ払いのテンションで飛ばされている。
お兄さんが震える手でグラスを煽った。
力一杯叩きつけられた空のグラス。
現在お兄さんの方が、3杯ほど先行している。
べろんべろんに酔っ払った赤い顔で、テーブルに突っ伏す彼が、ヒルトンさんを挑発した。
「どうした、じーさん。ノロノロしてっと、店が閉まるぜ?」
「ははは、それは困るなあ」
ひたすら同じウイスキーを飲み続けているというのに、美味しそうに、変わらぬペースで、ヒルトンさんはグラスを傾ける。
青年の酔い潰れ具合を、マスターがやんわりと嗜めた。
しかしせがまれる追加に、人知れずマスターが嘆息する。
野次馬は変わらず、外野で好き勝手叫んでいた。
「兄ちゃんだらしねぇぞ! このままじいさんをぶっち切りで抜かしてやれ!」
「坊主は飲まねぇのか? 俺がガキの頃は酒の一杯や二杯……」
「じーさん、そろそろ本気を見せてやれ!」
顔の前に持ってこられるアルコールに、断りを入れる。
それでも絡んでくる酔っ払いから逃げるように、椅子から降りてヒルトンさんの膝にしがみついた。
今日一日で、葉巻にお酒、店内に燻るパイプにとふれあい、何だか不良になった気分だ。
小さく笑ったヒルトンさんが僕を抱き上げ、膝に座らせる。
10歳になって、この体勢は恥ずかしい……。
目だけでグラスを数えていると、隣の青年の手が止まっていることに気づいた。
野次馬が囃し立てるも、彼の据わった目は開けているのもつらそうだ。
「ベルナルド、彼のグラスを数えてあげなさい」
「わかりました」
ヒルトンさんの膝から降ろしてもらい、青年のグラスを数えやすいよう、5つずつ組み合わせて置く。
集計している間彼は苦しそうで、悪酔いしなければ良いけど……、内心合掌した。
「あと2杯でヒルトンさんが上回ります」
「そうか……。いやはや、楽しい時間が過ぎ去るのは、本当に一瞬だね」
「ヒルトンさんのアルコール分解能力、どうなってるんですか?」
名残惜しそうにロックグラスを空けたヒルトンさんが、マスターへ最後の注文をする。
「さて。君、気分どうだね? これを飲んだら帰るよ」
「バケ、モン……、かよッ」
「失礼だね。酒を愛してやまないだけさ」
チェイサーで口を潤わせた酒豪が、最後のウイスキーを目で楽しみ、香りで楽しみ、最後に舌で楽しんだ。
静かに置かれたロックグラス。
途端、周囲が歓声に包まれた。
「実に美味しいお酒でした。ありがとう」
「道中、お気をつけて」
財布を取り出した富豪がマスターへ支払いを済ませ、入店前と何ら変わらない顔で微笑む。
薄手のコートを羽織ったヒルトンさんが、僕の肩にストールをかけた。
外れないよう結ばれたそれが、三角巾を覆い隠す。
最後に寝入ってしまった青年の肩を数度叩き、困ったような笑みをこちらへ向けた。
「仕方ない。明日のこともある。連れて帰るか」
「それって誘拐といいませんか?」
「君は酔い潰れた大の大人を浚いたいかい?」
「いいえ……」
よっこいしょ。青年に肩を回した老紳士が、いとも容易く体格の良い彼を起こす。
じーさんすげーぞ! 野次へ向かって綺麗な会釈まで返した。
そのまま青年の身体を支え、店の外へと出て行く。
カラン、僕が閉じた扉が涼やかな音を立てた。
「……ヒルトンさんって、酔っ払ったことあるんですか?」
「さてね。少なくとも私の記憶にはないよ」
「アンフェアな戦いでしたね……」
ははは、朗らかなヒルトンさんの笑い声が月夜に響く。
静かな街並みは別世界のようで、滅多に出歩かない夜の空気はじわじわと冬へ近付いていた。
置いてきた松葉杖の代わりに、養父のコートを掴む。
躊躇うことなく、アルコールのにおいが僕の頭を緩く撫でた。
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