05

「先輩、前に俺のこと褒めてくれるって、言ってましたよね」


 乱雑な仕草で隣に座ったノエル様が、意地の悪い笑みを浮かべる。

 読んでいたレシピ本を閉じ、彼へ顔を向けた。


 これまで日向のベンチに座っていたけれど、そろそろ日差しが眩しい。

 日影のベンチはひやりとしていて、視点を変えるだけで、見慣れた空中庭園の景色が様変わりした。


 名前は知らない、紫色の花を縦に並べた植物が、風に揺られてそよそよしている。

 あと、このベンチに日陰作っているの、白い花を咲かせた木だった。

 ……ここ、屋上……。


「何か良いことでもありましたか?」

「良いことなんてありませんけど」


 ぴんと音を立てた白い紙が、眼前に晒される。

 受け取るよう促されたそれを手にし、まじまじと用紙を見下ろした。


 合計点に『20』と赤字で書かれたそれは、答案用紙だった。

 問題数に対して、丸の少ない様子から察するに、これは満点が100点のテストらしい。


 顔を上げてノエル様のお顔を窺う。

 にやにやしているそれは、どうやら僕をからかっているようだ。


 ……いや、テスト落としてまで、身体張ってるね……?


「わざと手を抜かれましたか?」

「いいえ? 俺の全力です」

「……ノエル様は聡明な方なので、意外だと思いました。接した日数は多くはありませんが、それでも洞察力や記憶力に優れた方だとお見受けしています」

「……はー、……先輩って、本当いいこちゃんですよね……」


 一転して不機嫌そうな顔になった彼が、僕の手から答案用紙を引っ手繰る。

 乱雑な仕草で折られた紙は、四隅をぴたりと合わせていた。

 ごそりとズボンのポケットへ仕舞われる。


「もうちょっとしどろもどろになるとか、無理に褒めるとか、そういう醜態晒してくださいよ」

「そうですねー。毎回必ず僕がひとりのときを狙う、周到さと計画性と嗜虐心がなければ、僕もそうしていました」

「ちぇっ」


 不貞腐れた顔で、ノエル様が頭の後ろで手を組む。

 拗ねてしまった姿を苦笑し、再び膝に置いたレシピ本を開いた。


 ……配慮はしているのだけど、坊っちゃん、あんまりおすきなものってないんだよなあ……。

 プチトマトはおすきだけど。


 以前に、いっぱい食べてもらおうと思って、キューティーなお弁当にしたことがある。

 ものすごく怒られたんだよなあ……。

 おにぎりをパンダさんにしただけなのに……。

 ニンジンを星型にくりぬいただけなのに……。


「……先輩、悠長ですよね」

「また唐突に貶されてしまった……。何がです?」

「対立戦ですよ。何で先輩なんかが推薦されてるんです?」


 組んだ脚で頬杖をつくノエル様が、半眼を作る。

 苦笑いを浮かべて、小首を傾げた。


「安息型だからじゃないですか……?」

「先輩弱いのに」

「ノエル様には負けてませんもん!!」

「訓練さぼりまくってる俺に勝てたからって、強いことにはなりませんけど?」

「訓練に出ましょうか、ノエル様」


 しばらく沈黙した彼が、緑の瞳を仄暗くさせる。

 こういうときのノエル様は、大体危険な思考に陥っている。僕は詳しい。

 名前を呼んで、彼の肩を揺すった。


「……わかりました。訓練に出ます」

「そう、ですか」

「それで先輩のこと、半殺しにします」

「何で!?」

「何でって、そうすれば先輩、対立戦に出られなくなるじゃないですか。そんなこともわからないんです?」


 呆れ顔でため息までつかれ、思わず絶句してしまう。


 そんな、手段が強引過ぎない!?

 何でそんなことするの!?

 作戦だってもう発表されてるのに!

 僕が対立戦に出ないメリットって、何だろう!?


「日程が炙り出せれば確実なんですけどね。先輩、何か知りません?」

「知りませんし、例え重傷を負ってでも、僕は対立戦に出ますから」

「駄目ですよ? 何言ってるんですか。先輩は俺の価値観をぐちゃぐちゃにしたんです。だから責任取ってください」


 ずいとこちらへ身を乗り出した彼が、剣呑に緑の目を細める。


「散々土足で踏み荒らしたんです。なに勝手に死のうとしているんですか? 虫がよすぎません?」

「ノエル様にも適応しますね。勝手に殺さないでください!」

「先輩って本当、頭の中お花畑ですよね。ショートケーキでも詰まっているんですか? 先輩には、這いつくばってでも生きてもらいます。無様になってください」

「……ノエル様は、僕に何の恨みがあるんですか?」


 常々疑問に思う。

 何故、ノエル様は僕に対して、こうも攻撃的なのだろう?


 彼が口許を歪ませた。


「先輩が俺の欲しいもの、全部持ってるからです。ずるいですよね。だから俺のところまで引き摺り落としたいんです。早く滑稽に足掻いてください」

「お断りします。そんなに僕と同じ場所に拘るのでしたら、自力で這い上がって来たら如何です? ノエル様、体力も腕力もありますし、ロッククライミングくらい余裕ですよ」

「へえ。いいんですか? 反抗して。ご自身の立場、忘れていません?」


 嘲るように小首を倒され、むっと口を噤む。

 この方の何が面倒って、僕の立場を盾に取るところだよなあ。


 所属先へご迷惑をおかけすることなど出来ないけれど、このままだと本当に半殺しにされかねない……。


 それは困る! 本当に困る!!

 対立戦には必ず参加しないといけないんだ!

 お役目だっていただいたし、何よりお嬢さまと坊っちゃんをお守りするために!!


「重々承知していますよ。僕はコード家の使用人として誇りを持っています。

 僕が恵まれているのは当然です。僕がお仕えする主人は大変素晴らしい方々なんです! お嬢さまと坊っちゃんのお傍にあれて、何を不満に思うのでしょうか!

 確かに坊っちゃんはお世話をさせてくださいませんが、それは自立心の現れなんです。坊っちゃんの克己心は気高く、その凛とされたお姿は僕も見習うべき姿勢です!

 もっと甘えてくだされば良いものをと寂しくも思いますが、ベルナルドは坊っちゃんの成長を喜ばしく思います!! うぅっ、坊っちゃん……ッ」


「待って、先輩こわい。熱量がこわい」


 うっかり涙が滲んでしまった。


 坊っちゃんが、僕のひな鳥のような坊っちゃんが!

 手を焼くことも勿論多かったけれど、あんなにもか弱かった坊っちゃんが、こんなにもご立派になられて……!


 ううっ。ハンカチ持っていてよかったああああっ。


「僕はノエル様に、もっとこわい思いをさせられています! 僕の主人自慢にくらいお付き合いください!!」

「先輩のスイッチって、どこにあるんです? 今度から踏まないように気をつけるんで」

「坊っちゃんが8歳の頃からお傍にいますが、当時から坊っちゃんの食は細くて細くて……!

 こうしてレシピ本を開けど、栄養バランスを考慮しても、坊っちゃんはあまりお食事をされないんです!

 ベルナルドは心配で心配でっ、可能ならばお肉を召し上がっていただきたいのですが、ミートボール2個目からフォークで遊ばれるんです!

 味付けですか? それとも胃の容量のためですか? 改善点を把握したいのに、坊っちゃんからいただくお言葉は任せる一択!

 信頼していただけるのはありがたいのですが、僕は坊っちゃんの好みを把握したいんです!!」

「ああ、うん、コードくん少食ですよね。……ねえ、先輩? 俺、真面目なはなししてました」


 僕も真面目なお話をしています!!


「ウサギさんリンゴで場を和ませても、肝心の主菜をお残しになる! 毎日卵料理というのも芸がない! かといってスープ状のものや流動状のものはお食べにならない。ウインナーとソーセージですら、お嫌そうなお顔をされる!

 坊っちゃんのお好みに合わせると、お弁当箱に野菜と果物しか入りません!!」

「それでコードくん、いつも肉くれるんですね。先輩、不満めちゃくちゃあるじゃないですか。前言撤回してください」


 ノエル様の発言に愕然とした。

 込み上げてくる悲しみを、ハンカチで押さえる。


「わあああん!! 最近お肉がなくなってるから、食べてくれたのかなー? とか淡い希望抱いていたのにー!」

「えっ、……ええと、……先輩、お弁当のはなしはやめましょう。ちょっと落ち着いてください」

「ぐすっ、坊っちゃんがリスさんをお好きなのは存じています! ですがお弁当用のちっさいハンバーグにリスさんを描くのは、画数的に難しくて……! えぐっ、不甲斐ない従者で申し訳ありません、坊っちゃん!!」

「この人こわい」


 完全に引き切ったお顔で、ノエル様が頭を抱えている。


 ううっ、僕にケチャップアートの才があれば……!

 そうすれば坊っちゃんだって、お食べになられたかも知れないのに!

 主人が快適にお過ごしになられるよう整備するのが、僕のお役目なのに……!

 お弁当作りすら満足にこなせないなんて……!!


「ノエル様!! どうすれば坊っちゃんはたんぱく質をとってくださるのでしょう!?」

「油揚げでも口に詰めたらどうですか?」

「大豆製品ですか! 天才ですか、ノエル様!! ちょっと図書室へ行ってきます。失礼します!!」

「待って。先輩待って。存外に周り見ないタイプなんですね? 驚きました」


 天啓を得た心地で立ち上がった僕の腕を掴み、ノエル様が頭痛に耐えるお顔をされている。

 この手を解いてくれないと、僕は図書室へ行くことが出来ない。

 ……いっそノエル様を担いで行こうかな?


「は! もしかして、ノエル様もレシピ本探すの、手伝ってくださるのですか!?」

「曲解が過ぎます」

「違いましたか……? ですけど、僕、ここに戻ってきませんよ? ノエル様、お暇でしょう?」

「腹立つこと言う口はどれですか? 洗濯ばさみで挟んで吊るしますよ?」

「こわい……」


 据わった目で迫られてこわい。

 ノエル様、元がベビーフェイスだから、印象から外れたことされると、こわさが倍増する。こわい。


「……わかりました。見返りをもらえるのなら、お手伝いします」

「見返りですか!? そこはこれまでの僕への心労と、差し引かせてください!」

「大豆製品という名案を与えた、俺への功労です。ご褒美ください」

「待ってくださいね、この辺にお菓子が……」

「え? 先輩の足の骨ですよ? 折ります」

「またそんな物騒なこと言って!! 嫌ですよ!!」

「半殺しより遥かに可愛らしくしました。全治に三ヶ月かかれば、先輩も役立たずです」

「い や で す !!」


 この人、まだそんなこと言っていたのか!

 絶対に嫌だ! 心から嫌だ!!

 三角巾も松葉杖も二度と使わないって、心に誓っているんだ!

 そして対立戦には意地でも出る!!


「いいですか? 僕に怪我させたら、ノエル様に不利なんですよ? 僕の所属は公爵家です。ほら、そんなことより早く図書室行きますよ!」


 本を持ち替え、僕の腕を掴む手首を握る。

 促すように引っ張ったそれが、驚くほどあっさりと解かれた。


 顔を見遣れば、ノエル様は泣きそうで、度々見せる表情に困惑した。

 僕、泣かせてるの!?




 *


 何だか今日は気分が良い。

 先輩のこと、そんなにいじめてないのに、気持ちが軽い。


 勝手に口許が緩むし、何度も図書室でのやり取りを思い出してしまう。

 にやにやする俺を、コードくんが不気味そうな顔で、心持ち離れた位置から見ていた。


 そう、コードくん。

 コードくんのお弁当のために、先輩と図書室へ行った。

 広い部屋には規則的に本棚が並んでいて、あんまり人がいなかった。


 先輩は慣れた仕草で本棚の間を潜って、「この辺です」とひとつの本棚を指差した。

 見れば、服飾家庭科の類だろうか。

 女の子向けな本がいっぱいに詰まっている。

 最初に持っていた本を小脇に挟んで、先輩はレシピ本を引き抜いた。


 正直俺は、料理なんて出来ない。

 レシピ本だって見たことがない。

 先輩が読んでいるのを見て、初めてこの世にそんな本があるのだと知ったくらいだ。


 適当に本を取って、ぱらりと表紙を捲る。


 ……大豆、大豆製品なあ。

 自分で言っていてあれだけど、豆腐と油揚げ以外に、何がある?


 結構真剣に探した。

 コードくんのためではなく、先に見つけて先輩に自慢してやりたかった。


 先輩を悔しがらせたいのか、「すごいね」と言ってもらいたいのか、自分でもわからない。

 時間が経った今でも、あのときの俺が何を考えていたのか、わからなかった。



 不意に顔を上げ、先輩が開いている本を覗いてみた。

 真剣な顔でまじまじと読み込んでいるから、先を越されたのだと思った。


 ふと俺に気付いた先輩が、ぱっと表情を笑ませる。

 見せられたレシピ本の、メニュー名を目で辿った。


『レモンドリズルケーキ』


 おい。


「ノエル様、レモンです。レモンいっぱい使うみたいです」

「……先輩、レモン好きなんですか? あと脱線凄まじいですよ。ケーキでたんぱく質を補うのは、冒涜的だと思います」

「うっ、そっちもちゃんと探します。坊っちゃんは生クリームのないケーキがお好きで、さっぱり系だとクラウス様もお食べになるんです」

「へえ?」

「混ぜて焼いて串刺しにして、レモンかけたらいいみたいです。簡単そう!」


 にこにこと、先輩が小声を弾ませる。


 何となくむかついたから、その手から本を毟り取って、本棚の空いている箇所へ無造作に押し込んだ。

 先輩が驚いたような顔をする。


「先輩? 俺にだけ探させて、良いご身分ですね?」

「か、借りて読みます……! ちゃんと探します……!」


 肩を震わせた先輩が、いそいそと先ほどの本を隔離する。

 違うレシピ本を開き、首が傾げられた。

 ようやくまともになった彼にため息をつき、調べ終わった本を元へ戻す。


 次の本を手に取ったところで、先輩に邪魔された。


「ノエル様! ギザギザって、どうすればいいんでしょう……!?」

「……先輩、調べる気、あります?」


 青色の瞳を輝かせ、先輩がファンシーな飾り切りのされているゆで卵を指差す。


 ……この人つくづくメルヘン思考だと思っていたけど、これはコードくんも怒るな。

 自分の弁当が意気揚々とメルヘン仕様にされるんだ。

 コードくんの年齢を考えてあげて。

 俺なら、即座に戦争を始めるから。


「せーんぱい?」

「うっ、壁ドンの悪夢……」

「あんまりふざけてると、俺、帰りますよ?」

「お暇なノエル様が……?」

「おをつけたら何でも丁寧になるなんて、思わないでくださいね?」

「ひゃい……」


 愛想を良くした声音から、脅迫用の低音まで音域を落とす。

 顔色を悪くさせた先輩が、震えながらレシピ本を捲った。


 ……この人、多分調べもの下手なんだろうな。

 好奇心が暴走してる。


 呆れながら本を捲る。

 先輩のように心弾めるものなんて、特にない。


 淡々と頁を捲って、おやと瞬く。

 材料を確認してから、先輩の肩を叩いた。

 開いた頁を差し出す。


「へえ! 油揚げって、お米やお餅以外も入れていいんですね~。発想の勝利ですね!」


 真ん丸に瞬いた青色の目が、やわりと緩む。

 満面の笑みと表現するのが適切だろう。

 声音も、いつもより弾んでいる。小声なのに。


 彼が俺の手から、本を受け取った。


「ありがとうございます、ノエル様。これ、借りますね!」


 ずっとこの言葉を、頭の中で繰り返している。



 今日はとっても気分が良い。

 雨も最近降ってないし、気持ちが軽い。

 あれから運試しはやってないけど、あの女の子のときみたいに、胸の中がむずむずする。


 それに、何だかあたたかい。

 今日は空中庭園の日陰にいたのに、不思議だ。

 今までずっと寒くてたまらなかったのに、ほんのりしている。


 試しに胸を押さえてみた。

 ……自分の脈動の音しか感じられない。

 触ってみても、別にあったかくなんてない。

 なのにあたたかい。

 ……変なの。勝手に口許が綻んだ。


「おかえり、ワトソンくん。手紙が届いているよ」

「手紙、ですか?」


 寮の管理者に呼び止められ、思わず怪訝な声が漏れてしまう。

 気の良さそうなおじさんから差し出された一通のそれに、先ほどまであった気持ちの軽さが霧散していることに気付いた。


 受け取る手が震える。

 手紙なんて、心当たりがない。


 宛名の筆跡に見覚えがあり、表情を取り繕うことを忘れた。

 ぎこちなく笑みを浮かべて、おじさんにお礼を述べる。


 急ぎ足で自室へ向かい、扉を閉める。

 同室者はまだ帰ってきていないらしい。それに安堵した。


 荒れた呼吸のまま、知らず皺を寄せていた手中の手紙を見下ろす。

 恐る恐る文字を辿ると、父親からだった。


 酸欠なのか、過呼吸なのか、わからないほど呼吸が苦しい。

 頭ががんがんして、耳鳴りがする。

 震える手でペーパーナイフを取り、慎重に封を開ける。


 ……中に入っていたのは、一枚の質素な手紙と、何処かの住所を記したメモ紙だった。


 学園はどうだ。お前の生活態度は教員から聞いている。母さんも悲しんでいるぞ。真面目に取り組みなさい。

 お前は昔から愛想の良い子だった。

 コード公爵家の御子息と仲が良いそうだな。よくやった。

 この調子で公爵家と親交を深めなさい。荷物持ちでも何でもするんだ。決して御子息の御機嫌を損ねるのではないぞ。

 お前は自慢の息子だ。

 うちのような茅屋ではなく、お前に広い家を用意した。荷物ももう送ってある。

 遠縁の屋敷だ。長閑な環境は、今のお前に丁度良いだろう。

 住所を同封しておく。帰省する際は、くれぐれも粗相のないように。

 』

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