H

入学準備、滑車は回る

 空を蹴って、高く跳躍する。

 変調させた視界はますます光に弱く、扱いが難しい。

 ともすれば、自発的な目晦ましになってしまう。


 けれどもお嬢さまの魔術の練習相手として、失望させるわけにはいかない。

 歪んだ空気と強調させた影の出現に、自由落下する身体を捻って地面を転がった。


「もう! ベルったら、全く捕まらないわ!」

「お嬢さまがお望みとあらば、すぐにでも捕獲されますが……」

「手加減して欲しいんじゃないの!」


 お嬢さまが新たな壁を練り、こちらを取り囲む。

 透明度の高いそれはほぼ不可視で、先ほど述べた微量の変化を元に、規模を計測する。


 防護壁であるそれが完全に閉じてしまえば、お嬢さまの勝ち。

 制限時間まで逃げ延びれば、僕の勝ち。


 そのような約束事で、訓練にお付き合いしている。



 お嬢さまは治癒術の他に、防護壁を生成される術を身につけられた。

 お嬢さまの意思と展開させた全体数によって、壁の強度が変わる。


 ちなみに現在の最高強度が、武器を持ったハイネさんの攻撃に耐えられるくらいだ。

 僕とアーリアさんの連撃にもお耐えになられる。


 術耐性になると、坊っちゃんの竜巻からクラウス様の氷剣まで。

 リヒト殿下の術は威力がおかしいので、試していない。


 検証中は心臓が止まるかと思う場面が多々あり、生きた心地がしなかった。

 それでもお嬢さまの強いご希望により、このような結果に至った。

 もう二度としたくない。


 さて、そのような結界が閉じてしまえば、開けてもらわない限り、逃げる術はなくなってしまう。

 幸い特性として、防護壁の展開には時間がかかる。


 お嬢さまご自身の周りであれば、即座に生成される。

 動き回る対象を捕らえることに関しては、難易度が跳ね上がるらしい。

「座標が定まらない」とお嬢さまは仰っていたので、飛び出たあからさまに難しい単語に、お嬢さまは偉大だと感嘆した。


 先ほどまでの垂直の壁とは異なり、球を描く壁面は足場には向いていない。

 徐々に天井が覆われていく。

 ……跳躍しても、あの高さは無理だな。


 即座に足許を見回し、小石を見つけた。

 緩く投げて、小石の影の大きさを止める。

 初めて魔術を発現したときと同じように、空中で押し留める。


「っ! もう少しだったのに!」


 跳躍し、小石を足場に、再び跳び上がる。

 揺らぎの向こうへ至ったあと、身体を反転させて着地した。


 ……あれ使うと、すごく疲れる!

 ひたすら飛び跳ねてるのもあるけど!


 お嬢さまも壁の生成を立て続けになされ、お疲れのようだ。

 膝に手をつかれ、苦しそうになされている。

 慌てて駆け寄り、お嬢さまの具合をお伺いした。


「お嬢さま、お加減が……ッ」


 突然掴まれた両手首と、お嬢さまごと僕を覆った防護壁。

 ぴったり閉じたそれに唖然とした。


 ええええっ、お嬢さま、それありですか!?


「騙まし討ちでしか勝てないなんて、歯痒いわ……」

「おじょ、おじょうさま……っ、お加減は……?」

「このくらい平気よ。ありがとう、ベル」


 にっこり、お嬢さまが微笑まれる。

 高い位置で結んだひとつ括りが、ゆらゆら揺れた。


 同時にアーリアさんが制限時間の終了を告げ、僕の敗北が決する。

 内心肩を落としながら、笑みを浮かべた。


「参りました、お嬢さま」

「ベルの優しさにつけ込んだだけよ。また、一緒に練習しましょう?」

「僕でよろしければ!」


 お嬢さまのお役に立てるのであれば、どんなことでも頑張りたい。

 自然と頬が緩んだ。

 ますますお美しくご成長なされたお嬢さまが、微笑み返す。


 解かれた壁に、視界を元へ戻した。

 ぐらり、一瞬の目眩に頭を振る。

 差し込む日差しが眩しくて、うっかり顔をしかめた。


「……ベルこそ、無理はしていない?」

「平気です。少しすれば、戻りますので」

「それなら、良いのだけれど……」


 気遣わしげに眉を下げられたお嬢さまに、笑顔で答える。


 坊っちゃんとリヒト殿下の声変わりも、無事終えられた。

 リズリット様もユーリット学園へ入学され、あと数ヶ月で、僕たちも門を潜る。


 鏡に映る自分の姿は、ゲーム画面で見た『ベルナルド』ととてもよく似ていて、改めて時期が迫っているのだと実感した。


 ゲームの舞台は、僕たちが2年生……お嬢さまが16歳になられたとき。

 編入生が紹介されるところから始まる。


 アーリアさんを交え、微笑まれるお嬢さまを眺めた。

 柔らかなお顔には憂いが見当たらず、こちらまで安堵の心地を得る。

 お嬢さまが息災であられるためならば、我が身だって惜しくはない。

 この身に変えても必ずお守りいたします、お嬢さま。


 澄んだお声で名前を呼ばれ、お嬢さまの後ろへ控える。

 今、こうしてご奉仕出来る幸せを噛み締めた。




 *


 ヒルトンさんからの呼び出しに、部屋へ赴く。

 数度叩いた扉の向こうで、書類に目を通していた養父が、穏やかな顔で僕を招き入れた。


「ユーリット学園からだ」

「ありがとうございます」


 差し出された封筒を、ヒルトンさんのペーパーナイフを用いて開封する。

 引っ張り出した中身は、入学に必要な書類と、学生証だった。


 手にしたカード型のそれをしげしげ見詰め、思わず感嘆の息をつく。


「どうかしたのかね?」


 書類から目を上げたヒルトンさんが、緩やかな声音で尋ねた。

 はたと自分の口許を押さえ、滲み出る表情を押し隠す。


「いえ、その、……オレンジバレーなんだな、って」

「おや、不満かね?」


 学生証に記された、『ベルナルド・オレンジバレー』の文字。


 初めてこの羅列を見たときは、『クマとオレンジの谷』だなんて揶揄されて、恥ずかしがったっけ。

 あの頃の養父は、もっと腹黒い笑みを浮かべていた気がする。


 眼下にいるヒルトンさんは、読みかけの書類を手元に、優雅に頬杖をついていた。

 堪らず、表情が弛緩する。


「いいえ。嬉しくって」


 軽く目を瞠ったヒルトンさんが、面映そうに口角を上げた。


 14歳の今年、僕は猟奇殺人事件を調べなかった。

 ヒルトンさんは勿論、ハイネさんもそれに安堵し、彼等は余計な情報を僕に与えなかった。


 僕は養父の思惑の中にいる。

 ウサギ男の得の中に、ヒルトンさん自身の得は見当たらなかった。

 最悪僕に殺されるか、首が飛ぶかの危険な賭けをしてまで、護衛をつけたかった理由。

 それが何かはわからないけれど、彼はあの件から僕を引き離そうと必死だった。


 藪は突くべきではない。

 学園へ入学してしまえば、強固な壁が同年代を守るだろう。


 養父にこれ以上の無茶をさせないためにも、僕はこの件から手を引いた。


「……そうだ」


 徐に立ち上がったヒルトンさんが、戸棚の引き出しを漁る。

 細長い箱を取り出した彼が、僕へそれを手渡した。


「少し早いが、入学祝いだ。君は手紙を書くのが好きだろう?」

「!」


 開けたまえ。目許を緩めたヒルトンさんの促しに従い、斜めにかけられたリボンを解く。


 黒い箱の中には、柔らかな布に包まれた万年筆が収められていた。

 黒色のシンプルなそれを、目を見開いて受け止める。


 込み上げてくるあたたかな気持ちに、表情が崩れた。


「ありがとうございます、……おとうさん」


 虚を突かれた顔をした養父が、照れたように僕の頭を撫でる。

 珍しい表情は、即座に目許を塞がれてしまったため、余り見ることは出来なかった。

 さてはヒルトンさん、照れ屋だな。


「……柄にもないことをしてしまったよ」

「そうでしょうか? 僕は嬉しかったです」

「君の純粋さは時に凶器だ。全く、私の引退もまだまだ先のようだね」

「ヒルトンさんでも引退とか考えるんですか!? えっ、嫌です!!」

「……精々長生きに努めるよ」


 解放された視界に映ったヒルトンさんは、いつものやれやれとした呆れた笑みに戻っていた。

 あの照れ笑いは、幻級の微笑みだったのだと実感する。


 すごく緊張するけど、またおとうさんって呼んでみよう。

 大切に蓋をした万年筆と、書類を持って、頭を下げた。

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