G
軽快な足取りで混ぜ返す水蒸気
今、僕の目の前で争いが起こっている。
よくわからないのだけれども、諍いが起こっている。
場所はコード邸の玄関ホール。
突然の騒ぎに、駆けつけたヒルトンさんと奥様までもが唖然とされていた。
「だからベルという使用人を出せと言っているだろう!!」
「わたくしのベルが何をしたのか教えていただかない限り、連れてくることは出来ません!」
お嬢さまが、お客様と喧嘩なさっている……。
どういうことだろう、え、世紀末?
あの温和で少々内気なお嬢さまが、初対面の方と口論なされている?
わ、わたしのために争わないで……?
「あ、あの、おじょ……」
「下がってちょうだい!!」
「ひゃいっ」
対応を変わろうとした僕へ、かつてないほど荒げられたお声で、お嬢さまが指示される。
雨の日の仔犬のように身体が震えた。
一瞬で視界が潤んで、前が見えなくなった。
しゅんと縮こまる僕へ、お隣にいた坊っちゃんが胡乱の目を向けてくる。
いえ、僕にも何が何だかわからないんです……。
首を横に振ると、彼がさくさくと渦中へ向かって歩き出した。
坊っちゃんのその、何事にも臆しない心意気、尊敬します。
慌てて後ろに控えた。
「義姉さん、どうしたんだ」
「アル! この方ったら、ベルのことを侮辱するの!!」
「お、お嬢さま! そのような粗末なことにお心をすり減らさなくとも……!」
「粗末ではないわ! このような無礼な方に、あの子を会わせるわけにはいきません!!」
お、おじょうさまあ!!
涙で溢れそうな嗚咽を、片手で塞ぐことで耐える。
そんな僕など、雑草のように放り捨てて良いものを、そのようにお嬢さま自ら矢面に立たれなくとも……!
これは僕、天罰的なもので明日死ぬのかな?
いや、待って、落ち着こう! どうしようこの状況!?
生涯目にすることはないだろう、お怒りになられているお嬢さまと、疲弊し切ったアーリアさんの姿に、おろおろと手を拱く。
どうしよう、今僕が何を言っても逆効果な気がする……!!
お客様とお嬢さまを交互に見詰めた坊っちゃんが、小さく嘆息された。
「……何にせよ、玄関口で騒ぐのは感心しない」
「っ、だ、だって……」
一瞬で我に返られたお嬢さまが、口許を押さえて俯かれる。
慌ててお背中を支えると、涙を耐えた石榴色の瞳とかち合った。
……これは、争いの発端になったベルくんを抹殺すれば、万事解決じゃないかな?
「おい! 俺はベルという使用人を出せと言っているんだ!!」
「……客人は応接間に通せと躾を受けている。悪いが従ってもらうぞ」
怒鳴るお客様……年頃は僕や坊っちゃんと近そうだ。
仕立ての良いコートを着た少年を冷めた目で一瞥して、坊っちゃんが淡々と言葉を発せられる。
いや躾って。せめて教育って言いましょう?
僕の腕を軽く叩いた坊っちゃんが、先に行く。短く言づけられる。
さくさく応接間へ向かう後姿に、アーリアさんへお嬢さまを託した。
お客様の前で一礼する。
「上着をお預かりいたします」
「あ、ああ……」
坊っちゃんの冷ややかさに圧倒されたらしい、勢いをなくした彼が、大人しく上着を脱いだ。
現れたジャケットの胸ポケットに光るエンブレムに、一瞬心音が飛ぶ。
いやいや、まさかまさか。
何気ない仕草で動揺を押し隠し、コート掛けに明らかに値の張る上着を掛けた。
「ご案内いたします」
星祭りに合わせた王都遠征から、約半年。季節は冬。
ようやく僕は、変声期の呪縛から解放された。
発した音声は、ますますゲーム画面のベルナルドに近付いているのだと実感させられる。
初めて王都で迎える冬の幕開けは賑やかで、どうやって穏便にお客人に帰ってもらうか、頭を悩ませた。
*
応接間に揃った、坊っちゃん、お嬢さま、そしてお客様の紅茶をアーリアさんが淹れる。
その間、呼び出された僕は、ヒルトンさんに耳打ちされていた。
万が一の際は呼ぶようにと指示され、執事が馬の調達に出向く。
こういう有事の際に動くのは、大抵ケイシーさんだ。
扉の横には念のためハイネさんが配置され、警戒の仕方が物々しいと内情が引きつる。
いや、でも、仕方ないのかもしれない。
お客様の胸に光るエンブレムは、ティンダーリア家……宰相閣下のお家のものだ。
護衛のひとりも引き連れていないあのお客人は、ご子息のギルベルト様に他ならない。
何でみんな、お供を連れようとしないの?
お供泣いちゃうよ?
旦那様が領地へお戻りになられている現在、コード家別邸の代表は、奥様が務められておられる。
玄関口での騒動を察し、素早くお手紙を認められた。
ケイシーさんは連絡係として、ティンダーリア家まで馬を走らせることになる。
何か見たことある顔してるなって、思ってたけど、やっぱりギルベルト様かー。そっかー……。
ギルベルト・ティンダーリア様は、攻略対象のおひとりだ。
卑屈で皮肉屋という前情報のはずだったのだけど、何をどう間違えたら、殴り込み特攻隊長みたいなことになるのだろう?
原因もよくわからないけど、僕っぽいし……。
何仕出かしたんだろう、僕……。
応接間に戻り、粛々と自己紹介を終えた彼等の様子を見守る。
すっかり消沈されたお嬢さまのご様子に胸の奥が切なくなったが、ギルベルト様を見詰める眼差しがすっかり敵意に溢れていらっしゃるので、第二ラウンド開催の予感に天井を見上げた。
はっとした顔のギルベルト様が、テーブルを拳で叩かれる。
激しい物音に、茶器が震えた。
「さっさとベルという使用人を出せ!」
「……一使用人にそこまで固執される理由を、お聞かせください」
坊っちゃんが丁寧な言葉遣いをされていらっしゃるーーーー!!!!
溢れ出た感動に、思わず涙ぐんでしまう。
すみません、空気を読まなくて。
口許を押さえて戦慄く。
だって、リヒト殿下にすら敬語を使わない坊っちゃんが……!
半ば諦めていた言葉遣いが……!
このベルナルド、坊っちゃんの成長を喜ばしく思います……!
僕が感動に震えている間、ギルベルト様の変わらぬ言動に、お嬢さまから発せられる空気が剣呑へと近付く。
どうしよう。どうせ名乗り上げるのだったら、早目に出て苦情を聞きたいんだけど、周りから『待て』されてるからなあ……。
不遜な態度で腕と足を組まれたギルベルト様が、忌々しいとばかりに舌打ちした。
「何処の阿婆擦れかは知らんが、エリーをそそのかして、妙なことを吹き込んだんだ!」
不機嫌であるとばかりに吐き捨てられた言葉に、堪らず顔を覆う。
この感じ、知ってる。エリーゼ王女殿下のときにも散々揉めた。
まず第一に、よく知らない人が愛称で呼んでくる時点で、きっとこの人『ベル』のことをメイドだと思ってる。女の子だと思ってる……!
ごめんなさい、ご期待に沿えなくて!
この勘違いどうやって正そうか!?
「失礼ですが、どなたのお話をされておられるのでしょうか」
「しらばっくれるな! エリーゼ王女だ!」
「……失礼いたしました」
明確に告げられた第三者の存在に、またしても静かに天井を見上げる。
ですよねー。王女殿下しかいらっしゃらないですよねー。
いやだって、エリーゼ様、いつも「あなた」としか呼ばないんですもん。
すっかり訂正するの忘れてましたし、それで成立してたんですもん。
坊っちゃんから呆れた顔を向けられ、申し訳なさに身を縮める。
ため息をついた主人が、薄く唇を開いた。
「ベルナルド。ティンダーリア様から話があるそうだ」
「ッ、アル!!」
「……は?」
お嬢さまがお声を荒げられ、ギルベルト様が唖然とされる。
坊っちゃんの後ろに控えて頭を下げると、ますます混乱されたのか、震える指先が僕と坊っちゃんとを差していた。
「ベル……は……?」
「王女殿下の元へ訪問するよう託を賜ったのは、彼、ベルナルドです」
「お、お前! 騙したな!?」
「ベルに触らないでください!!」
淡々とした坊っちゃんの説明に、気色ばんだギルベルト様が僕の胸倉を掴み上げる。
がくんと揺れたそれは、即座にお嬢さまによって引き剥がされた。
お、お嬢さまー! ベルナルドは無事ですので、お席にお戻りくださいー!!
「だ、大丈夫です、お嬢さま! 荒事にはなりませんので!」
「わたくし、ベルにひとつでも怪我を負わされたら、本気で怒るわ」
「お嬢さま!? 僕護衛なので、怪我のひとつやふたつ許してください!」
「女ならまだしも……男……ッ」
剣呑なお嬢さまのご様子に、情けなくもひえ、と喉が鳴る。
今日のお嬢さまは殺意が高めですね!?
怒りを含んだ震えるギルベルト様の声に、慌ててお嬢さまを背に押さえた。
「その、申し訳ございませんが、お話をお聞かせ願ってもよろしいでしょうか?」
「貴様がエリーに髪を括るよう言いつけたのか!?」
貴様呼びになっちゃった!?
どんどん事態が悪化してるね!?
「御髪のお話でしたか……? 王女殿下より、御髪をお結いするよう指示がありましたので、そのようにいたしましたが……」
「そんなわけあるか!! エリーが他人に髪を触らせるなど……!!」
「はい?」
ギルベルト様は大変お怒りになられているけれど、そんな、エリーゼ様一言も……。
あ、いや。自分の髪が嫌いだと言っていたな。そういえば。
けれども御髪を整えているのは事実だし、この頃はみつあみの練習もされていらっしゃる。
エリーゼ様はランダムにリボンが出る髪形をお気に召されたようで、みつあみをよくご所望されている。
ん? もしかして、そのこと?
「……みつあみの練習のこと、でしょうか……?」
「やっぱりお前がそそのかしたのか!!」
「…………えー……」
再び胸倉を掴まれ揺さぶられ、思わず呆気に取られた声を上げてしまう。
この人、何で怒ってるの? そそのかしたって、なに?
みつあみは重罪だった?
「最近会いに行っても、髪を弄ってばかりだ!」
「……はあ」
「俺の話にも生返事だし、口を開いてもお前の話ばかりだ!!」
「僕、そんなに話題提供しましたっけ……?」
専ら、壁の染みごっこしかしてない。
いや、王女殿下の目論見を聞いてからは、少しはお話するようになったけど。
それでも、そもそも王女殿下はお静かな方だ。
ギルベルト様に、またしてもがくんと揺さぶられる。
「惚けるな!! タンポポがライオンだとか、可愛いリボンコレクションとか吹き込んで! お前はメルヘン谷の住人か!? エリーがちょっと可愛くなっただろう!!」
「待ってください!? 前半と後半で、怒鳴られてる内容が違う!?」
「欠伸を噛み殺す仕草に可愛さがあったから、真似してみたけど自分には可愛過ぎたとか、泣き黒子見ると思い出すとか、エリーに何を教えているんだ!? これか泣き黒子! 消してやる!!」
「どうやって!?」
目許へ伸ばされた手を反射的に避けて、苦情として訴えられた内容に震える。
そんな、欠伸とか滅多にしないのに……!
エリーゼ様、よくご覧になられていますね……!?
アーリアさんによって退避させられていたお嬢さまが、唖然としたお顔をされている。
あれほど殺伐とした空気を放っていらっしゃったのに、すっかりいつものお嬢さまに戻っておられた。よかった!
「……結局こいつは何を言いに来たんだ?」
「……王女様かわいい、かしら……?」
呆れ顔の坊っちゃんのお隣に座られたお嬢さまが、困惑したご様子で頬に手を当てられる。
嘆息した坊っちゃんは、喧しさに顔をしかめながらお茶を飲んでいた。
いいな、僕もそちら側へ行きたい!
ギルベルト様の手から逃れて、ぶつからないよう逃げ回る。
突然立ち止まったギルベルト様が、ふるふる肩を震わせ俯かれた。
「俺をおちょくるのも、大概にしろ!!」
「この方の着火点が多すぎて、何を怒られてるのかまるでわからない!!」
「不敬な奴だな!?」
またしても怒鳴られてしまい、遣る瀬なさから胸中を吐露してしまう。
だってこの人、僕にどうすることも出来ない内容でお怒りなんですもん!
まず何から謝罪したらいいんですか!?
僕の失言に頬を引きつらせたギルベルト様が、怒りに身体を震わせる。
びしりとこちらへ指を突きつけ、彼が今日一番の怒声を発した。
「もういい! 貴様に決闘を申し込む!!」
「何でそんな展開になるんですかあ~!」
「貴様のようなエリーをたらしこむ害悪! 俺が叩き切ってくれる!!」
「……嫉妬に狂うとは、恐ろしいことなんだな」
この混沌とした中で、しみじみとした坊っちゃんのお言葉が、いやにしみた。
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