03
さすがは坊っちゃん、先見の明にございます。
これまで僕は、エンドウさんがヒロインしていないとばかり呟いてきた。
けれども、これほどまでにあの方がヒロインしていなくて本当に良かったと、痛感したことはない。
リヒト殿下のお隣を陣取る、フロラスタ公爵家のご令嬢、ローゼリア様。
あろうことかリヒト殿下にぴったりと身を寄せるその姿に、僕はこれまでにないほどの怒りを感じていた。
そちらにいらっしゃるべきは、お嬢さまです!!
「リヒト様。昨日の会議では、父がお世話になりました」
「ああ、うん。こちらこそ」
にこにこと完璧な笑顔を振り撒く殿下が、半歩後ろへお下がりになる。
ずいと詰められる距離。
にっこりと猫撫で声で微笑むフロラスタ様が、上目に殿下を見詰めた。
「わたくし、リヒト殿下を応援しておりますの。必要なものがございましたら、何でもわたくしに仰ってくださいな」
「ありがとう。フロラスタ家にはいつも世話になっているよ」
「ふふっ、当然ですわ。何処かの貧乏貴族とは訳が違いますもの」
にっこりと笑んだ口から飛び出す毒に、お嬢さまのお顔が一瞬無になられる。
しかし即座に表情を保たれるご様子は、狐狸の化かし合いである社交界を行き抜かれる戦士そのものだった。
この場にアーリアさんがいなくて良かったと思う。
いたらきっと血の雨が降っていた。
比喩なく土砂降りだったと思う。
こほん、お嬢さまが小さく咳払いをされた。
「ローゼリア様の仰る淑女とは、殿方の身に無作法に触れることなのでしょうか?」
「あら、おりましたの? 影が薄くて目に入りませんでしたわ」
「はい、残念ながら。ローゼリア様ほどのお方が、下級生のクラスにどのようなご用件でしょうか?」
「あなたには関係ありませんわ。ねぇ、リヒト様?」
二年生クラスに走った緊張感。
クラスメイトが固唾を呑んで、こちらを注視している。
……いい場所なんて何処にもないけれど、殊更場所が悪い。
おっとりと小首を傾げられるお嬢さまから、傲慢なほどふてぶてしくフロラスタ様がリヒト殿下へ顔を向ける。
板挟みにされた殿下が、やんわりと苦笑を浮かべられた。
「ローゼリア。悪いけれど、ぼくは昨日授業に出られていないんだ。準備があるから、席を外してくれないかな?」
「まあっ! それでしたらわたくしがお手伝いいたしますわ!」
「ありがとう。気持ちだけ受け取るよ。時間もないし、……クラウス。行くよ」
「げっ」
穏やかに目許を緩め、リヒト殿下がクラウス様を呼ぶ。
反射的にお嫌そうなお顔をされたクラウス様が、リヒト殿下に連れられ教室を出て行った。
取り残されたフロラスタ様が、憎々しげな顔でお嬢さまを睨む。
「古臭い家が、厚顔だと思いませんこと?」
「新旧が全てではありませんわ」
にこにこと、お嬢さまが笑みを浮かべられる。
ますます嫌悪に顔をしかめたフロラスタ様が、金の巻き毛を右手で払った。
従者を引き連れ、靴音高く一歩踏み出す。
ふと、その目がこちらを向いた。
「あら、ベルナルド! いつまでここにおりますの!? 早くついていらっしゃいなさい!!」
何でその矛先をこっちに向けるの!?
そこまでして僕に何の用があるんだ、このご令嬢!!
つんと澄ました顔を背ける。
そのままお嬢さまへ最上級の微笑みを向け、お席へご案内した。
その腕を強引に掴まれる。
ううっ、舞踏会の悪夢……。
「ベルナルド!!」
「お手付きは厳禁にございます。フロラスタ様」
自分でもびっくりするくらい、冷えた声が出た。
肩越しに一瞥した先がびくりと怯み、手が離れる。
忌々しそうにしかめられた顔が、ふん! 鼻を鳴らして逸らされた。
フロラスタ様が教室を出て行く。
派手に扉が閉められた。
「……オレンジバレー、こえぇ……」
「ベル、わたくしなら大丈夫よ」
「失礼いたしました。……少々気が立っているようです」
クラスメイトが引きつった声を上げている。
心配そうにこちらを窺うお嬢さまへ、ぴしりと姿勢を正して頭を下げた。
今、すっごく鬱憤がたまってる。
どうしよう、壁を殴りたい。
思い切り、感情に任せて壁を殴りたい。
この行き場のない苛立ちを、全て壁にぶつけたい!
ああも露骨にお嬢さまとコード家を侮辱なさるなんて、この衝動をどう処理したらいいんだろう!?
エンドウさんがヒロインしてなくて良かった!
毎回こんなことをされたら、僕の方が平常心を保てない。
お嬢さまを蔑ろにされるなんて耐えられない!
「処したい」
「だめよ、ベル。今は耐えてちょうだい」
「お嬢さまは寛大過ぎます。僕もアーリアさんも、衝動を抑えるのに必死です」
「わたくしのために怒ってくれて、ありがとう。それだけで充分よ」
お嬢さまが僕の手をお取りになり、両手で包まれる。
柔らかく石榴色の瞳が細められた。
このような清らかなお心をお持ちのお嬢さまが、何故ああも不当に冒涜されなければならないのだろう?
闇討ちしなきゃ……暗殺しなきゃ……っ。
「あなたたちが誇れる家であれて、わたくしも誇らしいわ」
「僕の忠誠は、コード家に」
ううっ、お嬢さまにそのように言われてしまえば、耐えるしかないじゃないですかあ……。
しょんぼりと肩を落とす。
いっそ僕に全ての罪を着せて、切り捨ててくれたらいいのに。
きちんと暗殺こなしてくるのに。
……だめだ。お嬢さまの花嫁姿を見るまでは死ねない。
お嬢さまを死亡フラグからお救いするまでは、なんとしても生きなきゃ……!
――そう、耐えるしかない。
一回や二回なら、僕も耐え切れたと思う。
自分の表情筋が死んでいることに気付いた。
あ、今の僕、すっごく本来のベルナルドっぽい!
笑顔を作る心の余裕がない!
「ベルナルド! ベルナルド!!」
手を叩いて僕の名前を呼ばないでくれ!
その名前だって、お嬢さまからいただいた大切なものだ!
込み上げてくる不快感に、しかめそうな顔を、何とか無表情に保つ。
何度も何日も付きまとわれ続けて、いい加減嫌気が差していた。
フロラスタ様は当然とばかりに僕を呼びつけるので、心が荒れ狂う大海のように落ち着かない。
無視を決め込んで、ずんずん廊下を突き進んだ。
早く訓練場に戻らなくては。
周りからの好奇の視線が、またつらい!
「ベルナルド! わたくしが呼んでいるのよ!? 返事なさい!」
「……お言葉ですが、あなたは私の主人ではありません」
「まあっ、まだそんなことを言っていますの!?」
掴まれた腕に、冷えた声音で突き放す。
振り払えないって、本当に厄介だ。
苛立たしげに顔をしかめたフロラスタ様が、僕のネクタイを掴む。
乱暴に引っ張られたそれに、奥歯を噛み締めた。
固く手のひらに爪を立てる。
「よくお聞きなさい。コードにこの先未来はないわ。だから、わたくしがあなたをもらってあげるの」
にこりと唇を歪めたフロラスタ様に、嫌悪感が先に立つ。
それはつまり、対立戦でお嬢さまと坊っちゃんに、ご不幸が訪れることを示唆されていますね?
認識したと同時に、荒立つ心情を押さえ込んだ。
感情の起伏のない、平坦な声を出す。
「以前にも申し上げましたが、お手付きは厳禁にございます。私の所属はコード家です。以後、お間違えございませんように」
「まだそんな強情な口を利きますの?」
「業務に差し支えます。お手をお離しください」
「まあッ」
「ローゼリア様」
気色ばんだフロラスタ様が、平手を打とうと手を上げる。
その手を、後ろに控えていた従者のひとりが掴んだ。
金の髪に、整った顔立ちの青年だった。
無表情の彼までフロラスタ様が振り返り、怒声を張る。
「ノア! 何のつもりですの!?」
「おリボンが曲がっております。どうぞ、こちらに」
静かで抑揚のない声に促され、フロラスタ様が僕から手を離す。
その手が青年の頬を打った。
苛立ち紛れに鼻を鳴らしたフロラスタ様が、靴音高く立ち去る。
「大丈夫、ですか……?」
青年の赤くなった頬に驚き、恐る恐る声をかける。
こちらを一瞥した無感動な瞳が、緩く目礼された。
背筋を正した彼が、他の従者とともにフロラスタ様に続く。
その後姿を見送った。
「……、」
本来あるべくベルナルドは、お嬢さまから手を上げられる。
画面越しに、その光景を『俺』はどう見ていたのだろう?
他人事ではないのだと、何故だか無性に不安を感じた。
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