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赤い風船と道化
リヒト様のお誕生会も終わり、収穫祭も盛況のまま幕引きを迎えた。
遠く微かに聞こえていた、賑やかな笑い声が聞こえなくなるのは寂しいもので、わたくしはお祭りの後の空気が、少し苦手だ。
非日常からいつもの日常へ帰ってしまう、そのほんの一瞬の落ち着かない心地。
楽しい時間が永遠ではないのだと、やんわりと知らせるその空気が苦手だった。
冬へ近付く季節にしては、今日は日差しもあたたかい。
久しぶりにお庭で本を読んでいた。
アーリアはお使いへ出ていて、そろそろ戻ってくる頃だろう。
ベルはミスターに呼ばれたので、先ほどこの場を離れた。
アルは用事を済ませたら来ると言っていたから、もうしばらくかかるだろうか?
リズリットさんは、今日もクラウス様のお母様のところで特別訓練に励んでいらっしゃる。
……とてもお厳しい方だとお伺いしているので、内心びくびくしているのは内緒だ。
なので今この場にいるのは、わたくしとアルキメデスだけで、あとは数人のメイドが控えている。
早くみんな来ないかしら。
随分くったりとしてきたアルキメデスの頭を撫でる。
5歳のお誕生日にクラウス様から頂いたこのウサギのぬいぐるみとも、かれこれ5年の付き合いになる。
当初は真白だった毛並みもくすんできたが、それでもわたくしの大切な相棒だ。
お裁縫なら任せて欲しい。
ふわりと風が駆け抜ける。
心持ちひんやりとしたそれはわたくしの髪を掬い、読みかけの頁をパラパラ動かした。
髪を耳にかけ、先へ進んでしまった頁を元に戻す。
挟まった青い紐が、わたくしに読んでいた場所を教えてくれた。
手にした細い栞紐を親指で撫で、にやける頬を片手で押さえる。
我ながら思いつきの行動だったけれど、喜んでくれたみんなの顔に、嬉しい思いが込み上げてくる。
お行儀悪く足をぱたぱた振った。
えへへ、笑みまで零れてしまう。
いけない、はしたない。
わたくしは公爵家のお嬢様。キリッとしなくては!
コード家は冬を迎える前に領地へ戻り、雪深いそこで春を迎える。
雪解けを迎えたら大変だ。
茶園の方が忙しくなる。
すくすく芽吹く茶葉は柔らかく優しい香りで、春に収穫されるものが、わたくしは一等好きだ。
当然わたくしも収穫のお手伝いをする。
あたたかな日差しと爽やかな風の中、一面の緑に囲まれる風景は絶景だ。
例え田舎者と言われようとも、わたくしは領地の景色を愛している。
あの雄大な景色を守るためなら、嫁ぐ身だとしても努力を惜しまない。
またしばらくリヒト様とクラウス様にお会い出来ないのは寂しいけれど、お手紙のやり取りも風情があって楽しい。
リヒト様の文字は滑らかで読みやすく、クラウス様は短文だ。
お二人とのそんな他愛ないやり取りも、わたくしには愛しい。
いただいたお手紙は、大切に宝箱に仕舞ってある。
あの箱もそろそろ蓋が浮いてきたから、新しくしなければ。
だいすきで入れ物が溢れかえるなんて、最高に素晴らしいことじゃないか!
またしても、えへへ、頬が緩む。
パタパタ、足が揺れる。
これからも良い関係であれるように、わたくしも素敵にならなくては。
こんな……ちょっとはしたない真似をしてはいけない。
わたくしも、お母様のようにお淑やかにならなくては。
こほん、咳払いを挟む。
そこで、辺りがやけに静かなことに気づいた。
慌てて背後を振り返る。
いつもなら、数人控えているはずのメイドの姿がひとりも見当たらず、胸騒ぎを覚えた。
椅子に座らせていたアルキメデスを抱き上げ、ガタリと音を鳴らして立ち上がる。
日陰に位置してある場所のせいか、妙に肌寒い。
紅葉し寂しくなる景色のためか、心細さが胸を占めた。
辺りを見回して気づいた、ひとりの人影。
常緑樹の陰に隠れていたその人が、一歩こちらへ踏み出す。
ひっ、喉の奥で掠れた悲鳴が鳴った。
背の高い男の人だと思った。
けれども違った。
黒一色のフロックコートとベストを着たその人は、頭がウサギの形をしていた。
長く伸びた耳と、草食動物特有の、横についた赤い目。
遠目でわかる柔らかな毛並みは、時折見かける野ウサギそのものだ。
人の頭ほどの大きさに拡大したそれは、愛らしさよりも不気味さを伝えた。
冗談のような男の登場に、異常性を訴える脳が逃げろと叫ぶ。
けれどもわたくしの足は震えたまま後退りすら出来ず、自分の歯の根がカタカタ音を鳴らしていることがわかった。
男が長い脚を動かす。
大人の歩幅は大きく、あっという間に間近に迫った黒い影。
恐怖に引きつった身体が、呆然とウサギの顔を見上げる。
こちらを見下ろすそれは無機質で、白手套に包まれた手がわたくしへと差し出された。
悲鳴が喉の奥に消える。
「義姉さん!!!」
突然わたくしの周りを風が舞い、男が僅かな動作で飛び退った。
わたくしを守るように囲む風は魔力を帯び、人為的なそれに弾かれたように声の方へ振り仰ぐ。
お屋敷の二階の窓から身を乗り出しているのはアルで、その隣にいたベルが、窓の桟に足をかけていた。
瞬き一瞬でその身体は宙を舞い、金属音を立てて男へ切りかかる。
ベルの両手のナイフが、日の光を受けて反射した。
「お嬢さま! お逃げください!!」
ベルのこの声を、わたくしは聞いたことがある。
忘れもしない、8歳の星祭りの時だ。
暗闇から飛び出した暴漢に対して、アーリアを呼んだときの声。
切羽詰って、いつもの柔らかさをかなぐり捨てた、必死なそれ。
びくりとわたくしの身体が震え、先程までの金縛りが嘘のように、脇目も振らず屋敷の中へ駆け込む。
涙が溢れた。途中で転んだ。
構わず声を張り上げる。形振り構っていられない。
「誰か助けて!! ベルが殺されちゃうッ!!」
屋敷中が騒がしくなった。
使用人のみんながわたくしの様子に血相を変え、青褪め右往左往する。
アーリアはまだ帰ってきていない。
お父様はお仕事で外出。
お母様もお茶会でご不在。
ミスターは!? 早くベルを助けて!
二階から駆け下りてきたアルが、わたくしの背を撫で荒い息をつく。
初めての魔術の発動は大きく体力を削がれる。
彼は苦しそうにしていた。
わたくしはわたくしで、駄々っ子のように泣き叫び、ベルを助けてと喚く。
あの子が死ぬなんて考えられない。誰か助けて、早く助けて!
ミスターに抱きかかえられたベルは左肩を真っ赤に濡らし、ぐったりと目を閉じていた。
医者の手配をと騒ぐ周りに、目の前が真っ暗になる。
守られるだけのわたくしがいけなかったんだ。
平和に弛んだ心根がいけなかった。
戦う術を持たないのなら、せめて警戒心を持てばよかったんだ。
わたくしのせいで、ベルが怪我をした。
わたくしのベルが怪我をした。
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