規約の確認はしっかりと
実際は久しぶりではないのだろうけれど、長らく王都別邸へ帰還していないように感じる。
お嬢さま方をお送りし、職務を全うした。
旦那様に抱き締められた坊っちゃんが、憮然としたお顔ながらも無抵抗だったことが、僕の一番の涙腺ポイントだった。
リズリット様も「カレンさん、カレンさん!」と奥様へ語りかけ、お嬢さまとともに団らんされていらっしゃった。
ヒルトンさんのお部屋へ行き、扉をノックする。
夜中だというのに、養父は執務机についていた。
顔を上げた彼が、僕の入室に口許を綻ばせる。
外された老眼鏡がたたまれた。
「君が無事で何よりだよ。心身に異常はないかね?」
「ほとんど大丈夫です。ただ、とても困っています」
「報告書は読んだよ。全く君は、相変わらずトラブルに巻き込まれやすいようだ」
立ち上がった養父がガラス製のポットを傾ける。茶葉と花びらの舞うアイスティーを注ぎ、ソファを示した。
大人しく座面に腰を落ち着ける。
氷のない水出しのお茶は華やかなにおいがして、気持ちが落ち着く。
一口飲んで、ほっと息をついた。
「さて、何から教えてくれるのかね?」
対面に腰を下ろしたヒルトンさんが、優雅に脚を組む。
両手で持ったグラスへ視線を落とし、バラバラに散らばった言葉を掻き集めた。
「……怪我は、ほとんど治っています。まだ痛いですけど、なんとかなります」
「ほう」
「それより、……ぬいぐるみが、見えるんです。気がついたら、視界の隅とかに、でも」
恐る恐る顔を上げる。……今は見えない。それに安堵する。
養父の顔を見ることができなくて、再び俯いた。
「いつの間にか、なくなってるんです。それに、ぬいぐるみだと思うのに、どんな形だったか、思い出せないんです」
クラリス精神病院で目を覚ましてから、僕はおかしい。
自分の異常を認めたくなくて、違和感を感じてからは意識しないようにしてきた。
けれども、ふとした瞬間、視界の端に居座られると、ぞっとしてしまう。
立ち上がったヒルトンさんが、僕の隣に座る。緩く頭が撫でられた。
「今の君が、休息を欲しているのは、わかるかね?」
「……っ」
小さく頷く。……溺れそうな感覚だ。
対立戦の前後で、……もしかするともっと前から、周囲の環境も人間関係も、大きく変わっていた。
ヒルトンさんが、髪を梳く。
「坊ちゃまもあのご性格だ。君には物足りないことだろう。領地へ戻って、ヨハンの手伝いをする方法もある」
「それはっ、僕が、役立たずだからですか……?」
「誰が君を手放すと言ったかね? 妄想は程々にしておくことだ。際限がないよ」
呆れたようにため息をついた彼が、組んだ膝の上で頬杖をつく。
萎縮する心地で、その仕草を見送った。
「……お嬢さまと坊っちゃんのお傍を離れるなんて、できません」
「……君らしいと、常々思うよ」
嘆息ごと落とされた呟きに、耐え切れないと養父へ向き直る。
報告書に書いたことも、書いていないことも、全部喋った。
お嬢さまとフロラスタ様のこと、リヒト殿下のこと、ノアさんの出生を除く契約のこと、ノエル様のこと、これまで起こったことを全て話した。
対立戦のことも、精神病院でのことも、パレードの紙吹雪も、何もかも。
養父は静かに僕の話を聞き、恐らく支離滅裂でわかりにくいであろうに、耳を傾けてくれた。
どのタイミングで泣き出したのかわからない。
けれども差し出されたハンカチに顔を埋め、ようやく全てを話し終わった。
僕の背中を撫でた養父が、深く息をつく。
「全く、君は。その細い身体の何処に、それだけ溜め込んでいたのだね?」
「体格っ、関係、ないッ」
「私個人の意見を述べるならば、そのような厄介事を全て投げ捨てて、君を領地へ押し込めてしまいたいよ」
やれやれ、ため息をついた彼が、グラスを差し出す。
嗚咽を漏らしながら飲んだお茶は、とても飲みにくかった。
「王子殿下のことについては、こちらからも様子を伺おう。あとはノエルという少年かね? 彼の都合の良い日に、ここへ連れてくるといい」
「いいんですか……?」
「どちらも君の手には負えないよ。彼等が相手取っているのは、組織化した大人たちだ。こういうときには専門家を使いたまえ」
ヒルトンさんの言葉に、自身の無力さを痛感する。
結局僕は、何の役に立つこともできない。
「いいかね。君ひとりに出来ることには限界がある。彼等が君に求めているのは、安心だよ。昨年の収穫祭と同じだ」
落ち込む僕の頭を撫で、彼が盛大にため息をつく。
やれやれとした表情は、呆れていた。
「例えば君に出来ること、私刑に走ったとしよう。
そうだな。件の少年の家族、王子殿下と相対するもの、フロラスタの令嬢。それらを切り殺したとする。さて、その先は?」
養父の問い掛けに、さっと青褪める。
僕の所属はコード家だ。無茶を働けば、その責任は全てコード家が負うことになる。
だからこそ僕もアーリアさんも、辛酸を舐める思いで暴挙に耐えている。
「君も自覚している通り、君はコード家の所属だ。例え全ての罪を君が背負ったとして、本当に全てが丸く収まると思っているのかね? 物事には、然るべき手順があるのだよ」
この辺りは、坊ちゃまの方が君より詳しいね。養父の指摘に、坊っちゃんが出した指示を思い返した。
彼は外部へ頼るために、クラウス様とリズリット様を騎士団へ向かわせている。
「だが、そうだな。王子殿下のことについては、君がティンダーリア家の妖精へ手紙を出すと、効果的かも知れないな」
「ヒルトンさん!? それっ、そんな!!」
「牽制にはなるだろう。あの方は君を気に入っている。これも君の残した功績だよ」
しれっととんでもない呼称が飛び出したが、ティンダーリア家の妖精さんは、宰相閣下のことだ。
何の因果か、国の中枢と文通しているのだけど、そんな、不敬にならない!? 大丈夫かな!?
「フロラスタ家は、お嬢様と坊ちゃまの問題だよ。君たち侍従に出る幕はない」
「……はい」
「信じて待つことも、従者としての務めだ。君の本来の仕事は、主人を『おかえりなさい』と出迎え、『いってらっしゃい』と見送ることだよ」
暗に出過ぎだと、自重するよう指摘されたことを恥じた。
……過干渉だ。僕の自己満足に、お嬢さま、坊っちゃん、リヒト殿下を使ってはいけない。
でも、……寂しいと思ってしまう。
「君の主人を信じるんだ。手を貸せと指示されたときだけ動く。……なに、坊ちゃまは利口な方だ。お嬢様にもご意思がある。見守りなさい」
「……はい」
もう坊っちゃんが、僕の可愛いひよひよの坊っちゃんではないのだと、言い聞かされている気分だ。
坊っちゃんは何でもご自身でこなされる。
……本当はわかっていた。ただ、実感したくなかっただけだ。
「君が暗い顔をするだけで、周りは余計に調子を崩すようだ。全く、皆君を何だと思っているのか知らないがね。
君は他人の痛みの傍にいる。それは君にとっての負担だ。引き摺り込まれるほど弱っているのなら、休息を提案するよ」
「負担などでは」
「その辛気臭い顔を改めてから、出直すことだね」
徐に伸ばされた腕が、僕の頬を撫でる。
親指の腹で涙のあとを拭った彼が、苦笑を浮かべた。
「君の心が落ち着くまで、私は何度でも君の話を聞こう。少し、整理をつけたまえ」
滑らされた手が、頭へ乗せられた。ゆっくりと撫でられる。
「私は道を違えるほどに、君を大切に思っているのだと、忘れないでおくれ」
「ヒルトンさんも、無茶、しないでください。……お話、聞いてもらえなくなっちゃいます」
「ああ、そうだな」
くつくつ、鳴った喉が楽しげで、彼の瞳は揶揄するようだった。
——養父は手段を選ばない。
もしも僕に何かあれば、彼はこれまでの説教を覆すような行動に出てしまう。
それは僕への抑止力として、絶大な効果を発揮していた。
「……ヒルトンさん。最後にひとつ、いいですか?」
「何かね?」
この言葉を口にするのは、勇気がいる。けれども、今一番必要な言葉だと思う。
「ただいま、……おとうさん」
彼をそう称するのは、やはり照れが勝る。
虚をつかれた顔をした養父が、面映そうに表情を緩めた。
僕の目許を利き手で覆った彼が、「してやられたよ」小さく呟く。
「おかえり、ベルナルド」
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