09
「坊っちゃん!! お願いです来ないでくださいッ!!! 絶対にここへは来ないでください!!!! お願いしますッ!!!」
「ごめんなさい、ベル! アルではないから、そのお願いは聞けないわ!!」
踏みつけた破片をじゃりりと鳴らし、息を切らせたミュゼットが窓枠から飛び込んでくる。
ベルナルドは絶望に染まった顔で振り返った。
階段の先にいる、誰よりも守りたい人。その人がこちらへ駆け下りてくる。
何よりも避けたい事象に、彼はかつてない悲痛な声を上げた。
「おやめください!! お嬢さま!!!!」
「あああああああああッ!!!!! その子に近づくなああああああッ!!!!!」
照射された光が乱反射する。
段差を透過するそれをかい潜り、ミュゼットはベルナルドの身体を強く抱きしめた。
左回りに円転する幾何学模様が壁を作り、光を遮る。
ベルナルドの脚を縫い留めていたそれをも途切れさせ、彼女は配達員の憤怒に染まった顔を真っ直ぐに見据えた。
「鬼ごっこをしましょう。わたくしとこの子は、あなたから逃げる。あなたはわたくしたちを捕まえる。とってもシンプルでしょう?」
「……ろしてやる……お前をころしてやる……お前が! おれから奪ったんだ!!」
「わたくしも、あなたのことが気に食いませんの。おあいこですわね」
立ち上がったミュゼットはベルナルドの手を引き、廊下の奥へと走り去る。
残された男は、脱臼した肩を押さえてよろめき、無作為に展開させた光で周囲を切り裂いた。
かつて、たったひとりの幼子へ向けて行った『鬼ごっこ』よりも凶悪な面持ちで、彼女たちのあとを追う。
ぶつぶつつぶやく独り言は鼻歌には程遠く、怨嗟に満ちていた。
「ふふっ、アルったら加減なしよね! いきなり『一帯の窓ガラスを全て割る』だなんて言い出したときには、卒倒しかけたわ!」
ベルナルドの左手を引き、ミュゼットは軽やかに笑った。
駆けるたびに、床に飛び散る窓ガラスがじゃりじゃり音を立て、彼女たちの存在を際立たせる。
閉鎖された空間が開かれたことで、周囲の怒号が、悲鳴が、遠く聞こえる楽団の音色が、逃げる彼女たちの耳にも届いた。
「お嬢さま! どうか先にお逃げくださいっ、お嬢さまになにかあっては……!!」
「わたくし、絶対にあなたの手を離さないわ! ねえ、駆け落ちみたいでロマンティックでしょう?」
「お嬢さま……ッ!!」
右手で右目を押さえるベルナルドが、悲痛に歪んだ声で叫ぶ。
彼らを追う、じゃりじゃりと響く靴音。
ゆっくりと、しかし着実に追い詰めるそれに、少年は半狂乱へ陥っていた。
「お嬢さま! お離しください!! お願いですッ、僕のせいで、僕がいるせいで……!!」
「アルがね、言っていたの。『一軒一軒ノックしてトランプ遊びをしている暇はない。なら、ジョーカーの方から出向いてもらえばいい』って」
「僕がいるから……!! 僕さえいなければ……ッ」
「それでね、風の魔術で窓ガラスという窓ガラスを、全て割ってしまったの! みんなびっくりしてしまって、今頃通報の嵐よ!」
「僕が……っ、また殺してしまう……ッ」
階段を駆け上る最中、透過した光の魔術が木目を焦がす。
ベルナルドはミュゼットの右手を離そうと、血液でぬるつく手で懸命に絡んだ指を引っ掻いた。
しかし指は解けず、ぐすりと泣きじゃくる。
ミュゼットは垣根をくぐる気安さで階段を上り切り、一直線に廊下を駆けた。
「アルは疲れ切ってしまって、今は休んでいるのだけど、もうじき助けがくるわ! それに、クラウス様も騎士団を連れてやってきてくださるの! ねえ、ベル。このことがわかる?」
ふたつ並んだ扉のうち、片方へ飛び込む。
奇しくも、そこはかつて姉であった少女の部屋で、少年が実姉と離別した場所だった。
当時の少女らしい内装は跡形もなく、もののない殺風景な床が広がっている。
息を弾ませたミュゼットは、ベルナルドへ向き直り、その痛々しい傷跡へ指先を添えた。
「みんな、ベルのことが大好きなの! もちろんわたくしも! あなたのことをいじめる人は、例えあなたであっても許さない。わたくしの大好きなベルを、どうか嫌ってあげないで!」
やわらかな光が出血を弱める。
ぼろぼろと涙をこぼすベルナルドは、怯えた様子で首を横に振り、指先から逃れるように後ずさった。
「ですがっ、僕が、僕がいるせいで、お嬢さまが、不幸に……!」
「……確かに、わたくしのことをこんなにも夢中にさせておいて、あなたってば、ちっともわたくしを見てくれないものね。勝手に新興宗教にしちゃって、そこは罪深いわ」
逃すものかと右手を引き、ミュゼットはベルナルドの顔を覗き込んだ。
真っ直ぐな石榴色の瞳は一点の曇りもなく、涙に溶けそうな目を見つめる。
「聞いてちょうだい、ベル。わたくし、あなたのことが大好きよ。誰よりも大好きだわ。あなたを取り戻すために、こんなにもいっぱいお転婆なことをしているの。なのに、わたくしから離れるだなんて許さない」
これまで避けてきた言葉を音に変え、少女は呼吸を整えた。
繋いだ指先を交差させ、長年胸にため込んだ慈しみを吐息にのせて、ささやく。
「だから一緒に帰りましょう? ね、ベル」
微かに唇をわななかせ、少年がうつむく。
しかしハッと残った左目を見開き、瞬発的にミュゼットを突き飛ばした。
短い悲鳴を上げて転んだ彼女の頭上を、光の線が過ぎ去る。
同じく体勢を低くしたベルナルドはナイフを構え、ガラガラと切り裂かれた扉目掛けて走り出した。
「お嬢さま、お逃げください!! ここで死なせない! 死なせるものか!!」
「ベル!!」
男の懐へ飛び込むも、横へ払った腕が少年の身体を吹き飛ばし、光が喉を貫き廊下へ縫い留める。
かひゅっ、もがくベルナルドが喉元を引っ掻く。
少女の前に立つ男は、ゾッとするほど無表情だった。
「……してやる……お前が、……の子を連れてったんだ……ろしてやる……」
「……不思議ね。わたくし、あなたに負ける気なんてしないの」
獣のように叫んだ男が、縦に横に光の柱を作り上げる。
ミュゼットはその場を動かず、防護術を展開させた。
一撃食らうごとに、びしりと亀裂の走る防護壁を練り直し、ひたすらに男の攻撃を受け続ける。
「死ね!! しねしねしね! しねぇえッ!!!」
「っ、ぅッ!」
防護壁に走る亀裂は徐々に広がり、ついには砕け始めた。
ミュゼットの額には玉のような汗が浮かび、壊される度に防護術を展開する。
負担の大きなそれは次第に肩で息をし、術の精度を落とした。
ついには透過した光が、少女の頬に、腕に、ぶつりと切り込みを入れる。
痛みに呻く声に過敏に反応したベルナルドは、もがきながら床を蹴った。
しかし喉を刺す光は動じず、負荷が増すばかり。
ぁあははははは!! 男は狂喜的に笑った。
——やっとこの女を殺せる。それは彼の抱える、もうひとつの願望だった。
あの日、突然現れて自分の前からあの子を連れ去った、公爵家の忌々しい娘。
何食わぬ顔であの子の隣を陣取ったあいつを、ようやくこの手で殺せる。
はらりと落ちた若草色の髪は、少女の整った髪型を不揃いにさせた。
——たあんッ!!
馴染みない破裂音が響き渡ったのはそのときで、脇腹を押さえた男はよろめいた。
こぷりと込み上げる熱が喉からあふれ、口から吐き出された血液が床を汚した。
何が起きたのかわからないといった顔で、真っ赤に濡れた左手を見下ろし、見開いた目が瞬きする。
衝撃で術は解かれ、立ち上がったベルナルドは渾身の回し蹴りで、男の側頭部を蹴り付けた。
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