08

「きみの部屋、ずっと前から用意していたんだよ。って、手紙にもずっと書いてたから、もう知ってるか」


 がちゃん、鍵が開く。

 軋んだ音が床を擦り、扉の向こう側が冷えた空気を押し出した。


 元々ワインの貯蔵庫だったのだろう、手狭な地下室だった。

 無機質なベッド以外に家具のない、息の詰まりそうな空間。

 その最たる要因は、壁に貼られた写真にあった。

 数えきれないほどの大量の写真が、四面の壁にぺたぺたと無造作に貼られている。

 丁度それはベルナルドが苦なく見ることのできる高さに貼られ、飛び込んできた視覚情報に、少年は咄嗟に自身の口をふさいだ。

 こみ上げてくる胃液が喉奥を焼く。


「きみとやりたいことを指折り数えていると、どうしてもきみが足りないんだ」


 男の足が壁まで向かう。

 虫ピンで留められた写真を引っ張り、無邪気な笑顔でベルナルドの前へ一枚差し出した。


「だからね、失敗しないように、いっぱい練習したんだよ」


 そこに写っていたのは、子どもの遺体だった。

 四肢の損傷は激しく、臓器に至るまでめちゃくちゃにされている。

 しかし見事に顔だけには傷がなく、それがかえって不気味さを煽った。


 吐き気をこらえた弾みに、ベルナルドの目尻に涙がたまる。

 男は嬉々とした様子で、写真を一枚一枚指差した。


「この子はきみと同じ目の色をしていて、この子はおんなじ黒髪なんだよ! この子はきみと背丈が同じだったんだ。ね、かわいいでしょ?」

「なん、で……ッ」

「あ。でもひとりだけ、見かけたときは黒髪だったのに、見つけたときは色の違った子がいたなあ。あれは残念だったなあ」

「なんでッ!!」


 狭い部屋に、滅多にない少年の感情的な声が響く。

 男を睨み上げ、わななく口を懸命に閉じていた。


 彼には、その『色の違う子』が誰なのか、わかってしまった。

 その子が今でも当時の出来事に苦しめられていることを、よく知っていた。

 被害者のリズリットが、事件の原因であるベルナルドを拠りどころにしていることが、少年にはひどく滑稽に思えた。

 恨まれるべきは自分だったと、脳内が責め立てる。


 鈍重な動きで振り返った配達員は、ゆっくりと首を傾げた。

 どうして怒ってるの? その顔は、問題が解けない幼等部の生徒のようだった。


「なんで、こんなことを……ッ」

「……ごめんね。きみがこんなにやきもちを焼くなんて、思わなかったんだ」

「ッ、どうして、僕、なんですか……!?」


 噛み合わない言葉を遮る。

 かたく手のひらに爪を食い込ませ、一番触れたくなかった問題を叫ぶ。

 少年の呼吸は上擦り、肩は勝手に上下していた。

 足元から這い寄る怖気が、彼の歯の根をカタカタ鳴らす。

 内臓に氷水を注がれ、爪の先でぞりぞり撫でられるような、気持ちの悪さ。

 真後ろから首を絞められているかのような息苦しさを、ベルナルドはずっと感じていた。


 少年の問いに対して明確な答えがあるのだろう、にっこり、男が笑う。

 彼は自身の目尻を指先で示した。


「泣きぼくろが、かわいかったから」


 言葉をなくしたベルナルドは、そのまま膝から崩れ落ちた。

 ぺたんと冷たい床に座り込み、失ったものの多さに泣き声を噛み殺す。

 少年がこれまで生き延びてしまったがために、関係のない人々が殺された。

 彼が生きているせいで、リズリットを含めた犠牲者が生まれた。


 ——僕が、いるせいで……?


 ベルナルドがハッとする。

 貴族であるリズリットの家が惨殺されたことで、危機感を持った養父ヒルトンは、ウサギ男になった。

 ヒルトンは早くから手紙の存在を知り、星祭りの日にミュゼットに白い服を着せ、暴漢に狙わせた。

 全ては『護衛をつけたい』との一心から。

 だが本来の筋書きでは、星祭りにコード公爵は愛する妻を亡くし、破滅へ向けて転がり落ちる。


 一人娘ミュゼットは、義弟アルバートを虐げる。

 公爵家が機能しないことでミュゼットの暴走は加速し、最終的に彼女は自身を壊してしまう。

 行き着く先は処刑を主に、ミュゼットは舞台から引き摺り落とされる運命にあった。


 ——僕さえ、いなければ……ッ!


 殺人犯に目をつけられたベルナルドさえいなければ、リズリットの家族が惨殺されることはなかった。

 彼は今でも快活で、『学園一の問題児』などと揶揄されることもなかっただろう。


 ベルナルドさえいなければ、ミュゼットは処刑までの道のりをたどる心配などなかった。

 彼がこれまで必死に抗ってきた事象の全ては、ベルナルドの出生に起因していた。


 ぐわんと頭が痛み、彼の視界は一段と暗くなった。

 脳髄に心臓があるかのように、脈動ごとに頭が締めつけられるように軋む。

 知らず耳を塞いでいた手を、男に掴まれた。


「ほら、見て! きみのアルバムだよ!」


 無理やり腕を引かれ、力の入らない足でよたりと壁まで進む。

 そこに貼られていたのはどれもベルナルドを映したもので、ベルナルド以外の存在は、赤いペンでぐしゃぐしゃに塗り潰されていた。

 執拗なまでに何度も往復する赤い線は、時には写真を破るほどの筆圧で描かれている。


「はじめはこんなにも小さかったのに、もうこんなに大きくなったんだね」


 男の言葉通り、ベルナルドを映した写真は、幼少期の頃から順に始まっていた。

 少し大きめの制服、腕をつる三角巾、竹ぼうきを持つ姿、給仕に微笑む顔。

 恐らく最近のものだろう、学園の制服を着て、ポストへ向かう姿まで貼られている。


 堪らずへたり込んだベルナルドの腰を、男が支える。

 ひどく穏やかな笑顔で少年の顔を覗き込み、指の背がやさしく前髪をはらった。


「ずっとこの日を待ってたんだ。きみの皮膚の下を暴いて、筋繊維のひとつひとつを丁寧に剥がして、きみの全てにふれたかったんだ。ねえ、きみの心臓はどんな色? 赤と紫がマーブルになっていて、きっとシフォンケーキみたいにやわらかいんだろうね」


 陽だまりのような柔らかな声だった。

 にっこりとやさしい笑顔で狂気を語られ、ベルナルドの正気が削がれる。


「きみの血管を全部束ねたら、きっと花束みたいに鮮やかだろうね。ねえ、どれからやろう? きみのこと誰よりも大切にしたいから、ひとつひとつ丁寧にやりたいんだ。ほら、きみの目を見せて。あはっ、うるうるしてて、星みたいだ。窓辺に飾りたいくらいきれいだよ! ねえ、きれいだよ!」


 最悪な称賛をおくられ、ベルナルドは涙の溜まった瞼を閉じた。

 再び開いたそれの奥に、不自然に光が舞い散る。

 途端、ピタリ、男の笑顔が中途半端に止まった。


 ——ベルナルドには、ひと時のみ相手の意識を奪う術があった。

 一瞬の白昼夢。瞬時のうたた寝。

 早々にクラウスとエンドウに攻略法を見出されたそれを、展開させる。


「ッ、うああああああああああッ!!!!」


 強張った喉を無理やりこじ開け、絶叫に等しい声を張り上げる。

 固まった男へ手をのばし、腕を掴んで、背負い投げよろしく床へ叩きつけた。

 掴んだままの腕が、ばきん、関節の外れる音を立てる。

 静止していた男は絶叫を上げて蠢き、だらりと垂れた右肩を押さえた。


「ぐッ、待て……!!」


 不用意に開かれたままの地下室から飛び出し、ベルナルドは階段を駆ける。

 逃げ出そうとした彼を捕らえようと、幾筋もの光が暗い段差を横断し、少年の脚を縫い留めた。

 前のめりに転倒したベルナルドが、袖からナイフを引き抜く。

 意思を持って、その切っ先が赤色を飛ばした。

 男ののばした手の先で、派手な音を立てて窓ガラスが一斉に砕け散る。


「ッ!! く、ぅ……ッ、次、あなたお気に入りの左目いきます!!!」

「ああああッあああああああ!!!!!!」


 ためらいなく自身の右目を引き裂いた少年は、次いで宣告通りナイフを左目へ向ける。

 半狂乱になった男は階段を這い上がろうとするも、鋭利な切っ先は一層眼球へ近づけられた。


「なんてことを……!! きみは自分が何を仕出かしたか、わかっているのか!?!?」

「重々承知してます! 立派な人質ですね!! 初めて僕の自傷行為とニーズが合いましたねうれしいですッ!!!」

「やめろぉおお!! まだおれも触れてないのにぃいッ!!! それ以上傷つけるなあああああ!!!!」


 取り乱した男は叫び、縦横無尽に走る光の魔術を展開させた。

 しかし、ばら撒かれたガラスの破片に照射された光は反射し、予想し得ない彼方へ光をのばす。

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