02
お屋敷から戻られた坊っちゃんに、「すまなかった」と謝罪された。
寮自室のいつもの椅子に座り、罰が悪そうなお顔をされている。
それよりも、主人に頭を下げさせてしまったことに、僕は動転していた。
「そ、そんな! 坊っちゃんのせいではありません! 僕が坊っちゃんのお気持ちを考慮せずに、動揺してしまったから……!」
「その件なんだが、聞いてほしっ」
「坊っちゃんとエンドウさんがそのような深い関係になられていることに、全く気づくことができませんでした! このような失態を犯しては、執事になるなど到底ッ、そも従者失格です! 辞職を視野にヒルトンさんへ相談……ッ」
「するな。落ち着け。だから僕が悪かったと言っている」
「坊っちゃんに悪いところなんて、あるわけございません!!」
坊っちゃんのお優しさに甘えてはいけない!
きっちりと自身の不備を告白しなければ……!
額を押さえた坊っちゃんは、静かに首を横に振っていた。
……これはもう、ヒルトンさんに退職願を届けなければ。
坊っちゃんのお役に立てない不良品を処分しなければ……!
「わかった。この件については、お前が落ち着いてから話す。次に報告だ。義姉さんへ、王妃殿下の治癒が依頼された」
「……え」
ため息混じりのお声が、淡々と衝撃の言葉を並べる。
間の抜けた返事をした僕へ、もう一度嘆息された坊っちゃんがこちらを見上げた。
「現在、ヨハンが講師としてついている。期限は二十日間だ」
「それは、何故、お嬢さまが……ッ? 罰則と報酬、それから依頼主について、お教え願えますか!?」
氷が心臓に触れたようだ。
ひやりとした手で鷲掴みされたような息苦しさ。
動悸を訴えるそれは自己主張が激しく、外へ聞こえてしまいそうだ。
国王陛下は、僕を邪魔だと、手許に置くと言っていた。
そしてリヒト殿下を、旦那様を邪魔だと明言している。
あの方は僕へ、コード家……旦那様の解放の条件に、王妃殿下の治癒を望まれた。
そしてリヒト殿下の解放の条件に、ノアさんの引渡しを設定した。
もしもお嬢さまへの依頼主が国王陛下なら、罰則は旦那様の御身となる。
震える僕を見詰めた坊っちゃんが、その黄橙色の目を伏せた。
ぽつり、小さなお声を零される。
「国王陛下からの命だ。報酬はお前の解放。罰則は当主の身だ」
「そんなッ、ご無体な!!」
両手で顔を覆って嘆く。
脳裏が勝手に先日の謁見を思い返し、震えがひどくなった。
陛下は何故、こうも執拗に旦那様を狙われるのだろうか。
これまで国のために貢献してきた旦那様が、一体何をしたというのか!
「坊っちゃん、僕をお捨てください! 使用人ひとりのために、旦那様を差し出すなど間違っています!」
「……ベルナルド」
取り乱す僕の腕が、強い力で引かれた。
はっと顔を上げる。坊っちゃんは真っ直ぐにこちらを見詰めていた。
「僕はお前が大切だ。お前だって気づいているだろう? 僕の限られた世界で、お前が占める容量を」
「だからって、旦那様を犠牲にするわけには……!」
「誰が犠牲にすると言った。徹底的にあがく姿勢だ。当主も、義姉さんも、代理もミスターも、僕だってそうだ!」
椅子から立たれた坊っちゃんが、腕を握る手に圧を加える。
けれども、そんな、失敗のリスクが高過ぎる。
王妃殿下の治癒は、これまで成功に至った例がない。
それをお嬢さまに、たった二十日で癒せだなんて、無茶だ。
「……いやです、そんな。僕のせいで、大切が失われるなんて、耐えられません……ッ」
涙が滲んできた。力なく俯き、首を横に振る。
公爵家当主と、孤児上がりの使用人。
……天秤にかけるまでもない。
この依頼を受けないことが最良の選択だ。
どうかお捨てください……っ、縋るように訴える。
舌打ちした坊っちゃんに、胸倉を掴まれた。
「お前は、義姉さんが信用できないと言うのか!?」
「そうじゃないっ、そうじゃないんです……! 危険を冒したくないんです!」
「僕はお前が大切だと言った! 当主も、リヒトも!! 僕だって失いたくない!!」
あまり大きなお声を出されない坊っちゃんの怒鳴り声は、珍しい。
坊っちゃんは感情的になることも少なく、いつも冷静なお顔をされている。
それが怒りを露に僕の胸倉を揺すっているのだから、とても驚いた。
彼が言葉を繋げる。
「この依頼を受けようが、受けなかろうが、損失は同じだ! リヒトの奪還にはお前が必要で、お前は不在になる! 当主の抹消など、もっと容易だ!!」
坊っちゃんの指摘に、はっとする。
元々不利な要求をされているんだ。
僕たちが生存する道は、この依頼に勝つことしかない。
「だからお前もあがけ! 協力しろ!! 僕の従者なら、僕の希望を叶えることくらい、造作もないだろう!?」
「……ッ、……はいっ」
両手で顔を覆って、ぐすりと返事する。
そのままへたりと床に座り込んだ僕に、大きく息をついた坊っちゃんが椅子に座られる音がした。
ぐすぐす、涙声を押し出す。
「ですが坊っちゃん、これは負け戦です。……僕は、なにをすれば良いのでしょう……?」
「王妃の治癒は、義姉さんとヨハンに任せるしかない。僕たちに治癒術は使えないからな」
今の僕では、お嬢さまをお支えすることもできない。
ふらふら、顔を上げる。
ぽすんと頭に手を置かれた。
……今日の坊っちゃんは、珍しいことばかりされる。
頭に触れられたのは、はじめてだ。
「だから僕たちは、僕たちにできることをする。調べたいことがあるんだ。手伝ってほしい」
「……わかりました」
「……それよりお前、体調、大丈夫か?」
「だ、大丈夫です! 大丈夫です!! お手伝いさせてください!」
慌てた僕に、坊っちゃんが胡乱の顔をする。
即座に額に手のひらが当てられ、「もう寝ろ」と扉を指差されてしまった。……くすん。
翌日、坊っちゃんとともに向かった場所は、学園の図書室だった。
紙をめくる音と、密かな息遣い。靴音と本が重なる音。
時折かわされる小声の談笑が、広いフロアを占めている。
前を歩く坊っちゃんに続きながら、彼の向かう先に首を傾げた。
「坊っちゃん、どちらへ?」
「まず、目的を明確にする。物事は絡まるから複雑に見えるが、事象自体は独立したシンプルなものだ」
ひとつの本棚の前に立った坊っちゃんが、背表紙に視線を滑らせ、一冊の本に指を乗せる。
引き抜かれた表紙には、『ユーリット学園 記念誌』と記されていた。
……この学園の記念誌なんかを手に取って、何をなさるのだろう?
「ひとつめ、王妃の治癒は義姉さんとヨハンに任せる。これにより、リヒト殿下の奪還、ベルナルドと当主の身の安全が確保される」
僕ひとりが抜けたところで、事態は好転しないのだと示され、ぐっと心臓が重たくなった。
お嬢さまの細い両肩に圧し掛かってしまった事実が、ただただつらい。
「ふたつめ、フロラスタ家との衝突。僕たちにできることは、ここだ」
例え陛下からの命を攻略できたとしても、フロラスタ様がお嬢さまにつきまとっていては、これまでの生活には戻れない。
坊っちゃんが記念誌を開き、目次に指を滑らせる。
「二度と喧嘩を売られないよう、力の差を示す。……あとは従者の解放」
「従者? ノアさんたちのことですか?」
「……頼まれたからな」
頼まれた? どなたからだろう?
首を傾げる僕を置いて、坊っちゃんは記念誌の文字列を目で追っている。
横髪が表情を遮り、覗いた口許が小さく動かされた。
「対立戦でもそうだったが、フロラスタ家はこの学園に多額の資金を援助している。強大なスポンサーだ」
「……はい」
そうだ。そのせいでフロラスタ様は訓練中であろうと顔を出し、僕のお嬢さまタイムを邪魔してくれたんだ。
「協賛者は大抵記録される。この学園は国立だ。魔術師を養成するために、必ず通わなければならない施設とされている。つまりあの家は、国に多額の寄付をしているんだ。わかりやすいだろう?」
フロラスタ家が、何故ああも資金援助を惜しまなかったのか。
なるほど。確かにこの学園には、王子王女両殿下も通われている。
フロラスタ家は資金を援助することで、最もわかりやすく、無碍にできない存在として地位を確立することができる。
坊っちゃんが顔を上げた。
顔にかかる横髪を、彼が指先で払う。
「この学園を見ていて、気づいたことがある。建物自体は古いが、改修工事が行われていること。そして講堂と学生寮の談話室には、特殊な技術が用いられていること」
「えっ。坊っちゃん、談話室に入られたことがあるんですか!?」
「僕だって、散歩くらいはする」
むっと眉間に皺を寄せた坊っちゃんが、ぷいと記念誌へ顔を戻した。
ええっ、だって談話室って、非社交的な坊っちゃんから一番遠い場所だと思っていたんだもん……!
入られたことがあるんですね! 快挙です!!
ちなみに学生寮の談話室は、なんとなく東洋的な香りを感じる。
ダンタリオン様のいらっしゃる隣国、フォルラスカが大体そんな雰囲気らしい。
はんなりと微笑まれたダンタリオン様が、
厳密には談話室の内装は、シノワズリと称さる美術様式らしい。
チャイナドレスの模様と、ロココ調を混ぜ合わせたような、独特な様式といえばいいのか。
透かし建具や茶器なども、西洋風というよりはオリエントな雰囲気だ。
大正時代の袴ブーツのような、アンバランスな魅力なのかな。
講堂はもちろん、神話を描いた天井画のことだろう。
……日本画には見えないから、フレスコ画なのかな……?
フレスコ画は、天井画や壁画に用いられる技法のひとつだ。
生渇きの漆喰に色をつけていくのだが、漆喰が乾燥すると硬化するため、やり直しや描き足しができない。
高い技術力を要するが、保存性に優れている利点がある。
水に濡れても平気だし。
このふたつは、確かに専門の職人でなければ、手掛けることはできないだろう。
「……ですが、それがどう関係するのでしょうか?」
疑問を口にし、首を傾げる。
坊っちゃんの仰る意図が、さっぱりわからない。
「改修工事には金がかかる。フロラスタ家が王家に媚を売り続けているのなら、協賛として名前が記録されているはずだ」
「なるほど……」
坊っちゃんが記念誌に指を置く。
記載されたフロラスタ家の名前に、ふむふむ頷いた。
「9年前……ですかね? 『学生寮の窓枠に鉄柵の設置』……この頃から、あの開かないタイプの窓になったんですかね?」
「だろうな」
学生寮の窓は、10センチ程度しか開かない。
レールで制限され、すぐ外を鉄柵で覆われているためだ。
思案するように、坊っちゃんが顎に手を当てている。
紙面がぱらぱらとめくられた。
「談話室の家具だが、どの階層も一部を除き、あまり古いものは置いていないように見えた。定期的に交換がされているようだが……家具の購入記録までは、さすがに載せていないな」
「坊っちゃん、談話室を制覇されていたんですか!?」
「踏むぞ」
「もう踏んでます……」
僕の足の上に乗せられた左足に、めそめそと両手で顔を覆う。
記念誌を閉じた坊っちゃんが、それを僕へ押しつけた。
「貸し出し手続きをしてくれ。それからクラウス、リズリット、エンドウに、過去の検問所の記録について調べるよう伝えてほしい」
「わかりました」
「念のため、お前はフロラスタ家の従者を通じて、家具や茶器などの購入記録を調べてくれ。特殊な献上品は喜ばれるが、仕入れは輸入にしろ制作にしろ、大掛かりになるはずだ」
「はい!」
なるほど、クラウス様たちに騎士団の保管する記録を調べてもらうのか!
ノアさんにもお願いしてこよう!
こくりと頷き、坊っちゃんの指示に速やかに従った。
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