シーン:深層
ミュゼットは、白と黒で描かれた細い路地にいた。
形容しがたい異臭と、不気味な壁の汚れ。
圧迫感を与える壁は高く、息苦しさと焦燥感を与えた。
——ここが、ベルの過去の記憶。
苦しさを訴える胸を押さえながら、彼女が左右を見回す。
道の片隅に『なにか』があるのに、赤いマジックで塗り潰したようにそれらが隠されている。
——ベルナルドは、幼少時代の記憶を失っている。
欠落した記憶の補完なのか、真っ赤な塗り潰しは至るところに見られた。
……普段のメルヘン思考のベルナルドからは、想像もできない歪な記憶だった。
こくり、ミュゼットの喉が上下する。
彼女の足が、一歩、汚れた地面へ踏み出された。
「……ベルは、どこかしら……」
ぐねぐねと曲がりくねる路地を進み、ミュゼットは焦燥に駆られた声でつぶやいた。
時間は15分しかない。
早くベルナルドを見つけ出し、彼を正気に戻すことが、彼女の目的である。
不意に通路の先が明るくなった。
閉塞感の終着点を察し、自然とミュゼットの足が速くなる。
路地の切れ目にたどり着いた頃には、彼女はほとんど小走りだった。
途端、ローファーの爪先が、何かを蹴飛ばす。
——ぐにゃり、と弾力のある感触だった。
ハッと視点を落とした彼女は、両手で高い声をふさぎ、目に涙をためた。
——腕が転がっていた。
よく見ればマネキン人形のものだとわかるものの、もがれた断面が赤く滴っている。
ぞっとするそれから数歩遠ざかったミュゼットは顔を上げ、目を疑った。
広間になったそこは、おびただしい量の赤色で塗り潰されていた。
そこら中にバラバラにされたマネキン人形が転がり、サイズ違いの手足を組み換えられて並べられている。
ぴちゃぴちゃと液体の滴る音が生々しく、突き抜ける異臭に、たまらず彼女は逆流する胃液に噎せた。
一際目立つ正面の壁に踊る、赤い『落書き』の文字。
右肩上がりの弾んだそれは、瞬きの度にざわりと蠢き、正気を蝕んだ。
壁際に無造作に落とされた頭は髪が長く、真っ赤に濡れている。
……筆の代わり。
想像できてしまった異常を、袖で口許を拭ったミュゼットは嫌悪した。
「ッ、ベル!!」
何もかもが赤い世界に、ただひとり、黒髪の子どもが取り残されている。
彼は腹部を押さえてうずくまり、そこは鮮やかな赤を噴き出していた。
子どもへ駆け寄ろうとした彼女が、派手に転倒する。
彼女の足元は、真っ赤なマジックで塗り潰されていた。
……こんなもの、悪夢でしかない。
悲鳴を噛み殺した彼女の耳へ届いた、痛みに苦しむ引きつった呼吸。
子どもの前には逆光を背負った青年が立ち塞がり、血の滴るナイフを握っていた。
もがくように地面を蹴って、身をよじった子どもの顔を、ミュゼットはよく知っている。
——青い目と、左の目尻の泣きぼくろ。
今よりも幼く痩せ細った姿は、出会ったばかりのベルナルドそのものだった。
『鬼ごっこをご所望かな? いいよ』
こつりと広がった距離を詰め、青年が微笑む。
屈んだ彼の真っ赤に濡れた手が、逃げようと地面を擦るベルナルドへ向けられた。
「——ッ!! ベルに触らないでちょうだい!!」
——耐えられない!!
叫んだミュゼットが駆け寄り、幼いベルナルドの手を引く。
これは過去の再生であって、彼女が介入したところで過去は変わらない。
それでもミュゼットは、自身の所有物を穢されることを良しとしなかった。
ぽかりと開いた路地へ逃げ込み、重たい右手を引っ張る。
ヒュウヒュウ響く音は苦しそうで、景色はちっとも前へ進まない。
——当然よ。当時のベルはひとりで逃げていて、お腹を裂かれているんだもの。
頼れる人もいなくて、今にも死にそうになりながら、追手から逃げているの。
知らず、ミュゼットの目には涙が浮かんでいた。
介入できない過去で、誰よりも愛しい子がこんなにも苦しんでいる。
……このときわたくしは、何をしていたの?
何が茶会よ。何が陰口よ! いつもいつもわがままばかりで、甘えてばかりだわ!!
乱雑に手の甲で涙を拭い、肩越しに振り返る。
幼いベルナルドは、青ざめた顔に冷や汗をびっしりと掻いていた。
虚ろな目は虚空をさ迷い、半端に開かれた口は血と涎を垂らしている。
耳につく、浅くて不規則な呼吸。
今にも途切れてしまいそうなそれに、ミュゼットの胸が痛みを訴える。
顔にはところどころ血液を擦ったあとが見られ、小さな手は鮮血の滴る腹部を押さえていた。
汚れた壁にもたれながら、ベルナルドはよろよろと進んでいる。
彼の足元に、点々と落ちる血液。
……きっと彼を襲った殺人犯は、この血痕を嬉々として追ったことだろう。
ぎり、ミュゼットが奥歯を噛み締める。
「……ベル、お願い。もう少しよ、もう少し歩いて……ッ」
届かない過去へ願望を囁いて、彼女の白い手が幼子の顔を撫でる。
全く交差しない視線に、ついに石榴色の瞳が大粒の涙を零した。
「ベル、ベルっ、ごめんなさい、愛してるの! あなたの過去なんて、知りたくなかった! 過去のないあなたを箱庭に閉じ込めて、ずっとあいしていたいの!!」
しゃくり上げるミュゼットの前で、——おなかいたい。うわ言がつぶやかれる。
小さく貧弱な身体が転がり、ごみ溜めに突っ込んだ。
塗り潰される赤色は範囲を広げ、何かが倒れる騒々しい音が狭い路地に反響する。
「ベル!!」
悲鳴とともに屈んだミュゼットが、幼いベルナルドを抱き上げようと腕を伸ばす。
けれども霞のようにすり抜けるそれに、彼女は悲壮に満ちた顔をした。
「……ベル、お願いよ。……わたくしを見てちょうだい……」
虚空を見詰める幼子が、ゆっくりと瞼を閉じる。
その場にへたり込んだミュゼットは両手で顔を覆い、なにひとつ干渉できない現状に泣き崩れた。
「お嬢様!!」
空気を裂いた、聞き馴染んだ——今よりも幼い声に、彼女が顔を上げる。
路地に飛び込んできたのは身形の整った少女で、真っ白なウサギのぬいぐるみを胸に抱いていた。
ミュゼットが呆然とする。
彼女の耳へ微かに届いたのは、収穫祭を祝う街角の音楽と、雑踏のざわめきだった。
若草色の髪をした少女は、好奇心に満ちた目でごみ溜めの中を覗き、「きゃっ!」短く悲鳴を上げた。
——ああ、わたくし。
つながった過去に、ミュゼットは再び両手で顔を覆った。
……通路を一本挟んだ、たったそれだけの違いで、こんな残虐なことが行われていた。
わたくしは今日までそれを知らずに、のうのうと生きてきたの?
「ねえあなた! だいじょうぶ!?」
甲高い声が、ごみ溜めに沈む幼子へ向けられる。
——もしもこれが大丈夫に見えるなら、きっととても視力か、頭が悪いわ!!
ミュゼットの情緒はぐちゃぐちゃだった。
八つ当たり先を過去の自分へ定めるくらいには、感情が乱れ狂っていた。
幼いミュゼットは小さな手で幼子の頬に触れ、覚えたての治癒術を行使した。
駆けつけたアーリアによって騒がしくなる路地に、詰めていた息を吐き出した彼女は目許を拭った。
不意に視線を感じ、何気なく路地の奥へと目を向ける。
途端、その顔を恐怖に引きつらせた。
——物陰から男が見ている。
真っ赤に濡れた手をだらりと下ろして、男がそこに立っている。
そのジャケットが、そのズボンが、そのネクタイが、彼女の通うユーリット学園のものと同じものだと、気づいてしまった。
暗い目で彼女を見詰め、足音もなく闇に消える。
浅くなった呼吸を飲み込み、ミュゼットは震える両手で口許をふさいだ。
見られていた。
ベルを拾ったところを、見られていた。
わたくしの顔も、アーリアの顔も、御者のロレンスさんのことも、全て見られていた。
ベルを殺そうとしていた人に、ベルがどこにいるのかを知られていた。
ともすれば叫び出しそうだった。
何故ベルナルドの養父は、彼に『外へ出るな』と頻りに言い聞かせていたのか。
自衛できるよう教育し、武器を与えたのか。
コード家の制服だと、わかりやすく牽制したのか。
くん、と彼女の手が引かれる。意識の浮上する感覚に、ミュゼットは顔を歪めた。
——きっと今ベルの顔を見たら、泣いてしまうわ。
ぐすりと再び瞼をこすり、彼女は深層から浮上した。
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