03

 過去現在を通して、これまでリズリット様に共感したことはないだろう。

 一週間振りの坊っちゃんのお姿に、感極まった心地で震える。


 はわわと涙を堪える僕を、完全に引き切ったお顔で、坊っちゃんが出迎えてくださった。


「坊っちゃん、お久しゅうございます! 何かお変わりや、ご不便などはございませんでしょうか!?」

「お前が如何に重症なのかがわかった。一週間で大袈裟だろう」

「何を仰いますか! この一週間、坊っちゃんの安否を願うばかりです!」

「僕は死地にいるのか?」


 首を傾げた坊っちゃんが、何処か遠い目をする。

「記憶は美化されると言うが、その通りだな」と呟かれた。


 どういう意味でしょうか、坊っちゃん……!!


「そうでした! 購買でサンドイッチを購入したんです。軽食に如何ですか?」

「……っ、いや」


 授業が終わり、お嬢さまへ挨拶してから、思いつきで学食を購入した。


 少しでも坊っちゃんに学園での食事に慣れてもらいたかったのだけど、目線を逸らせた彼は具合悪そうにしている。

 さり気なく口許へ当てられた手は、吐き気を堪えるようで、まさかと想定に震える。


「……坊っちゃん、お食事は召し上がられていますか?」

「……たまにな」

「正直なお答え、ありがとうございます。お部屋へ向かいましょうか」


 ヒルトンさんへの報告は、纏めて後で済ませよう。

 にっこり、笑顔で促すと、不服そうなお顔で坊っちゃんが僕の腕を叩いた。


 手の甲で小突くそれは、何か言いたいことのあるときに出る、彼の癖のひとつだ。


「先にミスターへ報告を通せ」

「ですがっ、」

「少し休む。さっさと行ってこい」

「……畏まりました」


 もう一度僕の腕を小突かれた坊っちゃんが、足早に自室へ向かわれる。


 しょんぼり、落ち込む心地でヒルトンさんの部屋へ向かった。

 ノックの音に、聞き馴染んだ養父の声が扉越しに聞こえる。


「失礼します。……一週間振りです、ヒルトンさん」

「お帰り、ベルナルド。リズリットは徒歩かね?」

「はい」


 付き纏う宣言をしたリズリット様だったが、僕が単独で馬を使ったため、徒歩で帰還することになった。

 お嬢さまがご一緒でない以上、コード家の馬車は出せない。


 何度もリズリット様に確認を取ったが、それで構わないとのこと。

 頑ななご様子に、心苦しいが実行させてもらった。


「学園はどうかね?」


 眼鏡を外した目許を揉み、ヒルトンさんが柔和な笑みを見せる。

 執務机に座る彼の元まで赴き、はにかんだ心地で、鞄から報告書を引っ張り出した。


「たくさんの人がいることに驚きました。知らないことや技術も教えていただけ、学ぶことが楽しいです」

「そうか」

「ただ、お嬢さまにお仕え出来ないことや、坊っちゃんがいらっしゃらないことが苦痛で堪らなく……ッ。坊っちゃんにお変わりはありませんでしょうか? 先ほどお会いしましたが、お食事をされていらっしゃらないご様子で……。お加減が優れないのでしょうか……?」

「君に変わりがないことに安心したよ」


 ははは。愉快そうに笑ったヒルトンさんが、手にした報告書へ視線を落とす。

 白青色の光彩が左右に動き、用紙を捲りながら彼が口を開いた。


「君が王子殿下と契約した知らせは受けているよ。彼も考えたものだ」

「うっ。ヒルトンさん……、僕は坊っちゃんの話を……」

「その話を耳に入れられてからだろうか。坊ちゃまの食は急激に細くなられた」

「え……?」


 ヒルトンさんの言葉に硬直する。

 体温の下がる感覚と、主張の激しい心音が耳について離れない。

 老執事は変わらず書類を読み進め、変わらぬ調子で言葉を続けた。


「断っておくが、決して君を責めている訳ではない。……見通しが甘かった」


 こちらを向いたヒルトンさんが、困ったような笑みを見せる。

 書類を置いた彼が、組んだ手で頬杖をついた。


「一見改善されているように見えていたが、坊ちゃまは君に強く依存している」

「…………」

「一度傷付いた精神は、そう易々と癒えはしないよ。坊ちゃま然り、リズリット然り、君もそうだ」

「僕も、ですか?」


 並べられた名前に、思わず口を突く。

 くしゃりと苦笑いを浮かべた老紳士が、やんわりとした微笑みとともに、眉を下げた。


「何もかもが覚束ない君に、使用人としての在り方を叩き込んだのは、私だ」

「そんなっ、多幸に思いこそすれ、不満に思ったことなどありません!」

「君の毎週末の帰還が有り難いよ。君がいつも通り接すれば、きっと坊ちゃまも調子を取り戻すだろう」


 話は以上だよ。言葉を締め括ったヒルトンさんが、眼鏡をかけて再び書類に目を通し始める。

 取り付く島のない様子に、退室の礼をして部屋を出た。


 頭を振って、坊っちゃんのお部屋を目指す。


 ……リヒト殿下のお世話に、何故坊っちゃんが過剰に反応されたのだろう……? 

 背信行為と思われたのだろうか?


 だ、だとしたら、すぐに誤解を解かなければ!

 僕の忠義は、お嬢さまと坊っちゃんから揺るぎないのに!!




 *


 自室のベッドに倒れ込み、ごろりと仰向けに返る。

 眩しい視界を手の甲で遮り、胸に溜まった靄を、重たく吐き出した。


 僕は閉鎖的な人間だ。自分で自覚している。

 元々そこまで社交的な方ではない。

 ひとりで遊ぶ方が、落ち着く気質だった。


 だから別段、単独でいようと、余り苦痛ではない。

 ひとりで本を読む時間や、図鑑の植物を真似て描き写す趣味を、心地好く思っている。


 けれどもそれは、僕の情緒が安定しているときに限った話だった。


 原因はわかっている。

 自分でも驚くほど明快だ。

 いっそわかりやす過ぎて、自身に呆れてしまう。


 扉を叩く音がした。

 ――彼は僕の寝起きが悪いと思い込んでいるが、その実、本当はそうではない。


 確かにすっきり起きられる方かと問われれば、違うと答える。

 けれども彼が部屋に入った段階で、僕の意識は覚醒している。

 他人の気配に聡くなったのは、あの家に引き取られてからだ。


 ならば何故すぐに起きないのかと問われれば、……単純な甘えだ。


 朝くらいしか、彼を独占することが出来ない。

 僕の従者は、色んな仕事を請け負っている。

 いつも慌しそうにしている。

 日中であれば、僕と義姉は合わせて世話をされる。

 いつも他人の目がある。

 自分の性格が足を引っ張り、いつも僕は自分の首を絞めている。


 カーテンを開ける仕草が、僕を起こそうとする声が、僕の寝癖に触れる指先が、このときばかりは、僕だけのものだと思い込めるからだ。


 もう一度鳴った扉を叩く音が、開く音を加える。

 微かな入室を知らせる声が、中途半端に途切れた。

 坊っちゃん? 穏やかな声音が柔らかく尋ねる。


 いい加減『坊っちゃん』はやめてもらいたいが、ならば今度は様付けになるのだろうか?

 それもそれで、嫌だ。


 ベルナルドは職務柄、足音をあまり立てない。気配も薄い。

 僕の傍に立った彼が、衣擦れの音を立てた。

 ふわりと身体にかかった布地に、日没後の薄ら寒さを実感させた。


「……お疲れですか?」


 静かな声は、耳に心地好い。

 彼がその場に屈む音がする。


「学園には坊っちゃんがいらっしゃらないので、寂しく思います。ご存知ですか? 僕、入寮の日に厩舎から出られなくなったんです」


 微かな苦笑いを混ぜて、ベルナルドが独り言を連ねる。

 僕が起きていることなど、知られているのだろう。彼が息継ぐ。


「主人にお仕え出来ないことが、余りにつらくて、あんまりで。情けないことに、クラウス様に引き摺っていただかなければ、部屋にも到達しませんでした」

「それでリヒト殿下か」

「忠義を曲げた訳ではありません。僕の主人は、お嬢さまと坊っちゃんです。リヒト殿下は、情緒不安定な僕を助けてくださったんです。殿下に非はありません」


 必死さのこもる弁明に、僕はいつも二番目なのだと勝手に落胆する。

 彼は僕の従者なのに、彼の一番は、僕ではない。


 わかっていた。初めからそうだった。

 頭ではわかっている。


 けれど、だったら、誰が僕を一番に思ってくれるのだろう?


「その、……入学したばかりですが、早く一年が経って欲しいです。

 朝は、おひとりでお目覚めですか? ……僕がいなくても、坊っちゃんは自立したお方なので、平気かも知れませんが、……それでも、坊っちゃんにお仕えしたいと思っています」

「…………」

「そのっ、あの……。僕の方が、坊っちゃん離れしないといけないのですが、その、……僕は、不要でしょうか……?」


 不安定に揺れる声を不審に思い、目許の腕を退ける。

 ぼやけた視界に膝を抱えた彼の背中が入り、身を起こして震える声を見下ろした。


「ど、どうしよう……っ。やっぱり背信行為なのかな……? 主人に不信に思われたら生きていけない……ッ。忠信に反した罰として苦しんで死ななきゃ、どうやったら自害で長く苦しめるだろう……? 水死? 失血死……? 汚さないように死ななきゃ……やっぱり水死……」


 僕が感傷に浸っている間に、何故こいつはクライマックスを迎えているんだ?


 ぶつぶつと自決方法を呟く頭をべしりと叩いて、物騒な口を止めさせる。

 驚いたようにこちらを見上げる青の目には、涙の膜が張られていた。


「自害するな。お前が反旗したとは思っていない」

「ですが……!」

「僕がそう言っているんだ。僕の言うことが聞けないのか?」

「うぐっ」


 物言いたげに口を噤んだベルナルドが、やはり不満そうな顔をする。

 ……お前はそうまでして、自害したいのか?


「いいか? お前が死んだら、僕の食事はどうするんだ。僕は今、自力でものを食べれんのだぞ」

「!!」


 こんなこと、偉そうに言える内容ではない。

 けれどもこれが、彼を釣る一番の餌だろう。


 自害一直線だったベルナルドの顔が、いつものものに戻った。

 瞬時に立ち上がった彼が、おろおろと辺りへ視線を配る。


「し、失礼しました! 坊っちゃん、お加減は如何ですか?」

「……何か、軽いものを持ってきてくれ」

「畏まりました! あっ、サンドイッチ……何かご希望はございますか!?」

「何でもいい」

「では、すぐにお茶の準備をいたします!」


 慌しく礼をしたベルナルドが、心持ち急ぎ足で廊下へ出る。

 閉じられた扉に、今度は背中からベッドに転がった。


 小さくついた呼吸が、微かに揺れる。


「……ははっ」


 このとき僕の胸に湧いた感情に、名前をつけるとしたら、何が適切だったのだろう?


 あたたかなものも、柔らかなものも、どろどろしたものも、胸を締めるような心地も、全てない交ぜになって、分別出来ない。

 けれども、決して綺麗なものではないと、それだけはわかった。


 かわいそうにと、心底思う。かわいそうに。


 お前は僕の言葉ひとつで、天から地から、情緒を揺す振られるんだ。

 こんな厄介者に執着されて、かわいそうに。


 僕は義姉のように優しくなど出来ない。

 お前には沢山の荷物があるというのに、僕はその全てを振り落としたいと思っているんだ。


 口許に浮かんだ笑みが歪なことを、自覚した。

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