05

 久しぶりに食べたものの味は、素っ気ないくらい素朴で、熱いくらいの熱を持っていた。


 台所に立つお母さんの目を盗んで、つまみ食いしようとした焼き立てのクッキーが脳裏を過ぎる。

 気がついたら、泣きながら食べていた。


 もっともっとと欲しくなるそれに、改めて「お腹空いていたんだ」と実感する。



 ベルナルドの手首を掴み、食べ差しのミートパイを齧る。

 憮然とした顔で振り返った彼は無抵抗で、空になったフォークを用い、再び皿の上のそれを切り分けている。


 僕の感覚はおかしくなってしまっていて、ベルナルドを介さないと食事が出来なくなっていた。


 治さなければと思うものの、どうしても皿に並べられたそれを、「食べもの」だと認識することが出来ない。

 おいしそうなはずのにおいの中に、記憶にこびりついた洗剤の異臭と嘔吐の悪臭が混ざり、食べる前から吐き気を催してしまう。


 誰かが食べたものなら安心だろうと名案が浮かぶも、周りは大人ばかり。

 子どもである僕とは、致死量も抗体も違う。


 そんな中、年も背丈も同じくらいの少年がいたのだから、好都合だと思った。

 ベルナルドは親切にも毒見をしてくれ、僕の我が儘にも付き合ってくれる。


 便利だと思った。

 彼さえいれば、僕は安心して食事が出来る。


 単純に依存してしまったからだろう。


 それまで皿に乗っていたものは、「食べものの形をしたもの」にしか見えない。

 けれど、ベルナルドが一口食べた瞬間、「食べもの」に見え、お腹が空いて堪らなくなる。


 半ば強引に彼から食べ差しのそれを奪い、再び皿を見るも、それは「食べものの形をしたもの」で、一気に食欲が失せてしまう。

 ベルナルドが運ぶものだけが「食べもの」に見えた。


 わかっている。僕はおかしくなってしまった。




 ベルナルドはこの屋敷の令嬢とお茶することが何よりの楽しみらしい。

 僕には見せない柔らかな笑顔で、令嬢にお茶を注ぎ、にこにこと佇んでいる。


 令嬢は僕も誘うが、顔を出した疑心と敵対心が止まらない。


「あんたも僕を嘲笑うんだろう!」吐き捨てた言葉に、ぬいぐるみを抱えた彼女は驚いたように目を丸くさせた。

 それから、むっ、表情を険しくさせる。


 突然ぬいぐるみを顔面に押し付けられたかと思えば、じたばた綿の手が動かされる。

 呆気に取られる僕に構わず、令嬢は僕からぬいぐるみを退けない。


「……ちょっと、」

「…………」

「ねえ」

「…………」

「ちょっと!」


 顔を背けようとするもついてき、後ろに下がるも距離を詰められる。

 全く変わらない状況に声を荒げる。


 令嬢は、大人しそうな見た目からは想像も出来ない、恨みがましい声を発した。


「どうして姉であるわたくしが、弟のあなたを馬鹿にしないといけないの?」


 底冷えするような声だった。

 ぎくりと背筋が強張り、冷や汗が流れる。


 彷彿させたのは、怒ったときのお母さんが微笑みながら注意を並べる姿だった。

 逆らってはいけないと、反射的に考えてしまう。


「わたくしは、アルバート、ただあなたと姉弟仲良くしたいだけ。わたくしをあなたを苛めた人と一緒にしないで」

「…………」

「お返事」

「はい」


 素直に返事すると、ようやく顔のもこもこが離された。

 引きつった心境で令嬢を見遣ると、彼女は寂しそうにぬいぐるみを抱えている。


 さっきの声は幻聴か?

 思わず首を傾げてしまった。


「わたくし、弟が出来ると聞いて、とても不安だったの。苛められたらどうしよう、馬鹿にされたらどうしよう。お父様とお母様、アーリアにベル。屋敷の皆を取られたらどうしようって、とても不安だったわ」


 令嬢の独白に目を見開く。

 ベルナルドはおろおろと令嬢と僕とを見比べていたが、令嬢は構わず続きを話した。


「けれどもあなたの言葉を聞いて、わたくし思ったの。あなたとわたくしは、似たもの同士なんだって。

 あなたに何があったのか、わたくしは知らない。だからこれから先は、姉であるわたくしが、あなたを守ろうと思ったの」

「何それ、迷惑なんだけど」


 僕が「偽善」という言葉を知っていたなら、間違いなく使っていただろう。

 高尚なお嬢さんの言葉に苛立ちを覚える。


 突然現れて家族面されるのなんてご免だ。

 僕の家族は「亡くなったお母さん」ただひとり。

「新しいお母さん」も「父親と名乗る男」もいらない。

 こいつも綺麗ごとを並べて、僕のことを苛めるに違いない。


 けれども動揺している自分がいることも事実で、ここなら苛められないんじゃないか?

 辛い思いをしなくて済むんじゃないか?

 縋りたい気持ちが込み上げてくる。


「アーリア、ベル。わたくし、怖がりを治すわ。お父様に恥じないように、お母様のように凛と振舞えるように」

「お付き合いいたします、お嬢様」

「助力を惜しみません、お嬢さま」


 令嬢の宣誓に、二人の従者が恭しく礼をする。

 置いてけぼりの心地でそれを眺めると、はにかんだ令嬢が真っ直ぐに僕を見詰めた。


「それで、アルに姉さまと頼ってもらえるようになるわ」

「やめてよ。巻き込まないでよ」


 即座に拒否の言葉を吐き出すも、やる気に満ちたお嬢さまには届かない。

 何処かで感じたこの既視感。

 あれだ、ベルナルドが僕に食事させたときだ。


 前例を思い出し、無意識下で答えを弾き出す。

 この言葉に嘘偽りがないのなら、きっと僕は彼女にも依存するんだ。



 有言実行とはこのことだろう。

 それから彼女は毎日僕をお茶に呼び、勉学、散歩にも誘った。

 初日の印象であった、おどおどとした態度は払拭され、おっとりしながらも行動派な印象に塗り替えられた。


 彼女の母親を見れば、なるほど、行きつく先を想定できる。

 彼女は着実に変わっていった。


 僕はどうだろう?

 卑屈に他人を疑い、ベルナルドがいなければひとりで食事も出来ない。


 義姉から誘われなければ行動も起こせず、勉強にだってついていけない。

 ベルナルドやアーリアのように武器の扱いに長けているわけでもない。


 僕に何ができる?


「そうですね。僕がいなくてもお食事ができるよう練習を重ねてみるとか、お嬢さまを散歩にお誘いしてみるとか。自習をしてみるとか、旦那様に鍛錬の許可をいただきに行くとか、色々ございますが」


 ベルナルドが慣れた手付きで紅茶を淹れる。


 僕とひとつしか違わないのに、彼は器用に何でもできる。

 それを指摘すると、彼は照れくさそうに笑った。


「僕だって、始めは何にもできませんでしたよ。言葉遣いは滅茶苦茶、作法なんて全く。元々スラム出身なんで、そんなもんですけど。それでもめいっぱい努力して、沢山練習して、ようやくこれです。僕はまだまだ頑張りますよ」


 それに。ベルナルドがカップをソーサーに載せ、一旦区切る。

 テーブルに置かれたそれを手に取り、温かな紅茶に口をつけながら続きを待った。


「坊っちゃんだって、お変わりになられてます。今ではお茶もおひとりで飲めますし」


 何処か得意気に笑ったベルナルドに、はたと手元のカップを見詰める。

 ……確かにそうだ。そうだった。

 始めはこれすらも、彼に押し付けていた。


 いや、まだ安心して口に出来るのは、ベルナルドの淹れたものだけだ。

 ……それでも、確かに変われた。


 僕の反応に気を良くしたのか、にこにこ笑うベルナルドが指折り僕の変わった点を上げていく。


 まずは令嬢を半ば強制的だったが「義姉さん」と呼ぶようになったこと。

 始めは嫌がっていたお茶も散歩も、今では雑談を挟んでいること。

 全く理解できなかった勉強も、徐々に点数が伸びていること。

 渋っていた街へのお出かけでは、いつの間にか使用人に紛れて荷物を持つようになり、驚いたこと。


 途中で恥ずかしくなり、彼の口を両手で塞いで話を遮った。

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