手紙 四

 ベルナルドは、屋敷に引き取られたその日から、私の指導下にいる。


 初めは酷い有様だった。

 マナーを欠片も知らない彼はスラムの子どもで、家の中と外の違いもわかっていないようだった。


 彼が屋敷にいないと、お嬢様は癇癪を起こして泣き喚く。

 ベルナルドにはきつくきつく、何度も厳重に、『屋敷から出てはいけない』と言い含めた。


 他にもある。

 手掴みでものを食べようとする仕草を、手を叩いて止めさせた。

 ナイフとフォークの使い方以前に、食べものを隠す癖を止めさせた。

 釦もろくに留められない彼に、見繕いの仕方を教えた。

 拙い話し方を改めるため、言葉を徹底的に叩き込んだ。



 彼は環境の変化に、大きなストレスを感じていたのだろう。

 度々壁に向かって、「あかい、あかい」と呟いていた。


 ――いや、違う。

 彼が拾われたその日、スラムで惨殺事件が起きた。


 明確な殺害日時は明かされていないが、遺体は腐敗していない。

 しっとりとした肉片に、殺害時刻がそう遠くない過去であることを知り、厳戒態勢が敷かれたことを覚えている。


 騎士団と関わりの深い旦那様の付き添いで、私も現場に立ち会った。


『あなたに祝福を!』

 壁に書かれた血文字は、髪の長い生首で殴り書きされたらしい。

 右肩上がりの弾んだ文字だった。


 恐らくベルナルドは、この光景を直視している。


 彼の身体に残る、いくつもの切り傷。

 鋭利な刃物で傷付けられたそれは、腹のものが一番深かった。


 彼はこの惨殺された縄張りに属していたのだろう。

 覚束ない記憶も、年の割りに退行している言語も、きっと無意識の自己防衛だ。


 ベルナルドは、識字出来る環境下にいなかった。

 雰囲気だけで読解していたのだろう。

 文字の形だけで、なんとなくそれらしい言葉を述べる。


 例えを挙げるならば、「食堂」を「たべるところ」と読み、「騎士団」を「つかまえる人」「にげなきゃ」と答える。

 ……スリでもしていたのか?


 識字出来ないベルナルドにとって、壁の文字は、『あかい落書き』に見えたのだろう。


 ……彼の精神を思えば、このまま忘れさせた方が良い。

 旦那様もその見解で合意した。

 ベルナルドが壁に向かって文字を辿る度、彼を呼んで意識を逸らさせた。



 元々彼は明るく温厚で、人懐こい性質だ。

 環境に馴染みさえすれば、学ぶことにも熱心だった。


 中でもお嬢様に大変懐き、お嬢様もベルナルドを大層可愛がった。

 おかげで、お嬢様の教育への助力ともなった。


 これは思わぬ副産物だ。

 あの引っ込み思案が激しく、癇癪持ちのお嬢様が、非常に温和になられた。

 正しく快挙だ。


 この頃にはベルナルドも壁から意識が離れ、言葉遣いも落ち着いてきた。

 文字の読み書きは未だ不得意なようで、報告はこれまで通り口頭でさせている。


 今日あったことを話すベルナルドは、にこにこと楽しそうで、あやふやだった頃に混じっていた「枢機卿」や、誰かの名前を呼ぶこともなくなっていた。



 現在のベルナルドを形成する要素に、私の存在は、ひどく大きな割合を占めているのだろう。


 正直に話せば、当初は厄介なものを拾って来たと思っていた。

 犬の世話を丸投げされた、親の気分だ。


 これが本当に下男として機能するのか、疑った回数は両の指では足りない。

 ベルナルドが壁を見詰める度、私は焦燥に駆られた声で呼び戻していただろう。

 厄介を増やすなと。



 養子にしたのは、ほんの軽い気持ちだった。

 ここまで尽力したんだ。親ぐらい名乗っても良いだろう。


 情が湧いていたことも事実だ。

 私と話す始めはいつも緊張している癖、途中からはにかむように微笑んでいる。

 怯えながら懐く姿は、小動物のように見えた。


 私の、何気なく懐中時計を取り出す仕草ですら、彼にとっては憧憬の的らしい。

 よっぽど彼の見る世界は、色鮮やかなのだろう。

 久しく忘れていた新鮮な心地を、拙い言葉は思い出させてくれる。


 冗談や皮肉が言えるようになっても、はにかむ顔は変わらない。

 このまま順調に年を重ねて成長して欲しい。

 そう思うくらいには大切だ。



 だからこそ、わざわざ深層に眠るものを叩き起こすような真似は、やめてもらいたい。

 あの子から送られてきた、思い出話を強請る手紙に、背凭れに深く身を沈める。


 やっと収穫祭の連続殺人から離れたと思ったというのに、今度はこれか。

 遣る瀬ない思いが、ため息と化す。


 坊ちゃまやリズリットの様子を見る限り、心の傷がそう容易に癒えることはない。


 どれだけ記憶に蓋をしていても、あの子にも反動の兆しが見えている。

 坊ちゃまが思うように食事をとれないように。

 リズリットが特定の人物に執着するように。


 同じような教育を施しているアーリアと比べ、ベルナルドは自身を罰する思考に陥ることが多い。

 すぐに自害へ走ろうとする癖が、最たる例だ。


 坊ちゃまやリズリットと違い、本人に特異の意識がない辺り、性質も悪い。


 私は決して自害のために、ナイフの扱い方を教えているわけではない。

 自衛と護衛のためだ。

 なのに何故いつも物騒な方へ走る。

 報告を聞く度、私がどんな気持ちに陥っているのか、わかっているのかあの子は。


 あの子自身、覚束ない記憶に戸惑っているのかも知れない。

 忘れていることを、忘れたままでいられることが、どれだけ幸いであるか。


 親の心子知らずとは、正にこのことだろう。

 ……どうか、思い出さないでくれ。


 白紙の便箋を取り出し、万年筆を乗せる。

 綴った文字は彼の失敗談ばかりで、オムツ替えから始まっていないことを有り難く思うんだな。

 胸中で悪態をつく。


 恐らくこれを読んだ彼は、次回の帰還時に、泣きそうな顔で謝罪巡りをするのだろう。

 いい気味だ。散々私の警告を無視した罰だよ。



 額を押さえ、深く息をつく。


 ……頼むから、大人しくしていてくれ。

 唯でさえ、私の先は短いんだ。

 君の今後を願う私の心臓を、殺さないでおくれ。

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