02

 過去の記憶とは、曖昧なものだ。

 意識しなければ、僕はこの世界がゲームを機軸にしている世界だということを忘れてしまう。


 それほど僕にとって、毎日は現実で、他者の温度は実物だ。

 周りの意思が、電子で構成されたキャラクターだとは思えない。


 けれども事象は、着々と筋書きを辿っている。

「二日目お疲れさま!!」リヒト殿下の音頭に、食堂に歓声が響き渡った。


 無事、収穫祭の二日目を終えることができた。


 関係者たちで、出来合いの夕食を囲んでいる。

 すっかり温度の失われた食事だけど、疲れ果てた僕たちには、大した問題ではなかった。

 みんな明日に備えて、早目に休まなければならない。


 警備隊は夜間であろうと交代制で巡回しており、先ほど差し入れであたたかいお茶を渡してきた。

 名前も知らない彼等だけど、この期間で友好度がぐっと上がった気がする。


 隣に座ったリヒト殿下が、「これ食べる?」と僕のお皿に、食べものをよそってくれる。

 にこにこ微笑む彼との食事も、はじめは抵抗感でいっぱいだった。

 しかし時間をずらしている余裕もないため、同席させてもらっている。

 明るい笑顔で差し出されたピラフを受け取り、お礼を告げた。


「ベル、眠い?」

「はい。今日も緊張の連続だったので」


 柔らかく笑ったリヒト殿下が、上品な仕草でスプーンを動かす。

 僕は既にうとうとしているので、スプーンをもたもた動かすのがやっとだった。


 忘れてはいけないが、今この食堂で、やいやい賑やかにしているおじさんたち、貴族なんだ。


 中には、僕みたいな使用人も混ざっている。

 けれど、着飾っていない白シャツの彼等の誰が同業なのか、ちょっとわからない。

 みんなお祭りで高揚しているので、余計にわからない。



 薄ぼんやりとした意識で、思考を巡らせる。

 本来の筋書き通りであれば、ベルナルドは養父を手にかけ、閉鎖的な性格になっている。

 コード卿も、主導権を握れるほど機能していないだろう。


 だとするなら、追い詰められたリヒト殿下を、一体誰が助けるのだろう?


 リヒト殿下は、策略の中に身を置いてきた。

 ヒルトンさんいわく、彼は警戒心が強い。

 リヒト殿下が連れるのは、クラウス様と、数人の護衛だけだ。

 侍女や従者のお話も、聞いたことがない。


 クラウス様とリヒト殿下はお誕生日が近く、クラウス様はご自身のお誕生会の準備で忙しくされていた。

 あの性格のため、傍目にはわかりにくいけど……。


 騎士団という、目立つ役職に名を置く家だ。

 一人息子の誕生会は情報開示の場であり、不信を募らせないための機会だ。


 今年は例年よりも早くに殺人事件が起こったため、アリヤ卿は警備で手が離せない。

 クラウス様はご多忙なお父様に代わって、大体のことをこなされる。

 クラウス様が、リヒト殿下に容量を割くことは、難しいだろう。



 仮にベルナルドが介入したとする。

 コード家に属するベルナルドが、報告を上げたか上げていないかで、展開は変わるだろう。


 筋書き通りのお嬢さまであれば、義弟のアルバート坊っちゃんにすら、ベルナルドを近付けていない。

 果たして寮内だけとはいえ、自分の所有物である従者を、外部のリヒト殿下に貸し出すだろうか?


 例えば内密に、ベルナルドが手伝いをしたとする。

 外部への援助は望めないだろう。

 直接ベルナルドを城へ使わせたとしても、話を聞いてもらえるかどうか……。


 更には寮の門限を破れば、寮の管理者からコード家へ連絡が入ってしまう。

 制限時間が厳しい。


 お嬢さまと授業の被っていない、空き時間の間に走るくらいしか、対策法が思いつかない。


「……殿下、」

「うん?」

「……いえ、やっぱり何でもないです」


 隣でにこにこと平和そうにされているリヒト殿下に、言葉を詰まらせる。


 ゲーム中の彼は、儚い印象が強かった。

 元々の殿下の性格が、弾けるいたずらっこなのだとすれば、その気質が微塵も感じられなかったゲーム画面の彼は、どれほどの苦しい思いをしてきたのだろう?


 駄目だ、悲しくなってきた。

 今振り返りするんじゃなかった。

 せめて収穫祭が終わってから、考えればよかった。


 ピラフの山を、無意味に崩す。



 不意に、殿下がいる側とは逆隣に人の気配を感じ、もたもたと顔を上げた。


 隣の席を引いたのは、藍色の長い髪を一纏めにした、背の高い男性だった。

 温和に緩められた琥珀色の目と、上品な顔立ち。


 ――ギルベルト様と決闘した日にお会いした、やけに高貴な人だ。


 おっとりと瞬いた彼が、ふわりと笑みを浮かべる。

 長い睫毛と、整った鼻筋。

 簡易的でも、上質な衣服は気品に溢れている。


 この方も収穫祭の関係者なのかなと、首を傾げた。


「久しぶりだね、ベルナルドくん」

「えっと……クロスさん。お久しぶりです」

「あれ? 宰相、この時間に会うなんて珍しいね」

「ひゃぐっ」


 ひょっこり横から顔を覗かせたリヒト殿下の一言に、僕の喉が変な音を鳴らす。


 う、うわっ、感傷も眠気も、何もかもが吹き飛んだ。

 心臓が痛い、心臓が痛い……!


 誰が思うものか。

 ふらっと現れて、頭を撫でていったこの人が、宰相閣下だなんて!

 自分の息子をずたぼろにします宣言を受けて、朗らかに笑う人が、国の重鎮だなんて……!!


「ベル? どうしたの?」

「殿下、折角名前を隠して接してましたのに……」

「……うーん。中々に趣味が悪いね、宰相」


 僕の背を撫でるリヒト殿下が、呆れた顔を宰相閣下へ向ける。

 しょんぼりと肩を落とした国の中枢が、落ち込んだお顔でグラスを手にした。

 慌てて立ち上がり、お茶を汲む。


 ……王子殿下と、宰相閣下の間の席?

 え、戻りたくない。


「ありがとう、ベルナルドくん。気を遣わなくていいんだよ」

「ベル、大丈夫だよ。ティンダーリア家の妖精さん、時々足許がぐにゃってなるくらい運動おんちで、お茶目なおじさんだから」

「おじさんは傷付くな」

「子どもがふたりもいて、なに寝惚けたこといってるの?」

「ははは」


 リヒト殿下の直球をにこやかに受け流し、ティンダーリア家の妖精さんが優雅にお茶を飲む。


 そっか、美しさの集大成といっても過言でないこの妖精さんは、ギルベルト様のお父様なんですね。


 そういえばギルベルト様も、藍色の御髪に、琥珀色の目をされていたなあ。

 なーんだ、こんなにもわかりやすいヒントがあったのに、気付かなかったのは僕だけなんだ。

 うんうん。……顔を覆って震えた。


「もう、宰相! ベルが怖がっちゃったじゃん!」

「だから私も名乗ることを控えていたんですよ」

「だからって、無記名でお菓子あげるなんて、ずるくない!? 住所もギルと同じだし、信用して食べちゃうし、返事出しちゃうじゃん!」

「コード夫人の助言と、コード卿の許可のもと成り立ってますので」

「旦那様ー! どういうことでしょうか、旦那様ー!!」


 もきゅもきゅお食事をとられていた旦那様が、駆け寄った僕と宰相閣下に目を遣り、「やべっ」といったお顔をされる。

 優雅にテーブルナプキンで口許を拭われたコード家当主が、きりりと畏まったお顔でこちらを見上げた。


「ベルナルド。大人には事情があってな」

「ご存知でしたら、何故初めてお菓子が届いたときに、あんなにも楽しそうなお顔で『きっと妖精さんからのプレゼントだよ』などと仰ったのですかー!」

「ちょっとした出来心でね……」

「妖精さんが……ふぐっ、妖精さん……えぐっ」

「泣かないでおくれ。まさか君がそこまで妖精さんを信じるだなんて、思ってもみなかったんだ……」


 旦那様に抱き留められ、よしよし頭を撫でられる。


 ……いえ、その、誤解です。

 宰相閣下という正答に辿り着きたくないために、必死に目を逸らして『妖精さん』と呼んでいただけです。

 僕、そこまでピュアではありません。


 そっと肩に手が添えられ、徐に顔を上げる。

 そこにいたのは宰相閣下で、寂しげなお顔で眉尻を下げていらっしゃった。


 美しいお顔で、儚い表情はやめてください!

 罪悪感に苛まれるから!


「君の夢を壊して悪かった。どうしても君と話がしたかったんだ。コード卿を責めないであげておくれ」


 誤解が拡大してるううううううう。

 待って、そんな哀愁漂うお顔で信じないで!?

 誰かこの勘違いを止めて!!


「少年、そのお方は妖精さんだ。ほら、年齢と無縁な顔をしているだろう?」

「そうだ。さいしょ……んんっ、妖精閣下はお菓子を献上すると、お喜びになられるんだぞ」

「妖精閣下はお茶目なお方でな。仕事が立て込むと、ストレスの反動でかスキップをされるんだ。……まあ、独特なステップなんだが」

「柱にもぶつかられるぞ。前方不注意だ。それでも書類を離さないんだが、そういうところも妖精さんらしいだろう?」

「ははは。君たちの名前は、よく覚えておこう」


 どうしようもないくらい誤解が広まってしまった上、ご多忙な宰相閣下が、とんでもなく宰相閣下なのだと露呈した瞬間じゃないか。


 加勢したおじさんたちが咳払いをし、何食わぬ顔で食事を再開させる。


 僕の肩に乗る繊細な指先が、ぽん、と肩を叩いた。

 美しいお顔が、悲しげな笑みを浮かべる。


「これからも、私のことを『妖精さん』だと思ってくれて構わない」

「宰相閣下は宰相閣下なので、宰相閣下とお呼びいたします!」

「クロスさんでもいいよ?」

「ではどちらかで! あのっ、この度は本当に、ありがとうございました!!」


 最敬礼で頭を下げる。

 エルクロス・ティンダーリア宰相閣下。

 あー、クロスさん。あー。


 そっと頭を撫でられ、おずおず顔を上げる。

 にこにこと微笑む美しいお顔が、嬉しそうに口を開いた。


「うちの子も、王子殿下も王女殿下も反抗期なのか、ちっとも構ってくれなくてね。やっと名前を書いて手紙を出せることを、嬉しく思うよ」

「エリーが反抗期なのは認めるけど、誰が反抗期だ妖精閣下」

「そういうところがですよ」


 リヒト殿下の茶々をため息で一蹴し、宰相閣下がにこにことこちらを見下ろす。

 涙声で「ひゃい」と返事をし、眠たいことを理由に食堂から逃げ出した。


 連日の高位の方との接触に、心臓が潰れそう……。


 今、たまらなくお嬢さまと坊っちゃんにお会いしたいです。

 お茶をお淹れしたい、ご奉仕したい……!

 お屋敷に帰りたいよー!!




 *


「アルくん、アルくん」


 ノックもなく、ひょこりと顔を覗かせたリズリットに、アルバートが顔を上げる。

 手許に置かれた紙面には小難しい文字が並び、彼の利き手には万年筆が握られていた。


 アルバートの自室は本が多く、雑多な書籍が種類ごとに並べられている。

 カレンダーが示した今日は祝日で、整頓された室内は一望するに容易かった。


 再び手許の書類へ視線を落とした少年が、淡々とした声を零す。


「何だ? リズリット。お前に割り振ってある時間は、まだ先だぞ」

「待てしてる犬の気分……じゃなくて、お客さんだよ。知らないおじさん」

「代理はどうした」

「カレンさん、今手が離せないんだって。アルくんに任せるって」

「……そうか」


 書類と万年筆を手放したアルバートが、席を立つ。

 背の高いリズリットが彼の隣を追いかけ、埃ひとつない階段を下りた。


「応接間に案内してる」

「ハイネは?」

「扉の前」

「わかった」


 短い応酬を経て、辿り着いた応接間の前には、目付きの悪い男がいた。

 赤茶色の髪の青年が、目線で扉を示す。

 頷いたアルバートが、木製のそれを軽く打ち鳴らした。


 応接間のソファには、恰幅の良い男性が座り、従者が二人後ろに控えていた。


 アルバートが向かいのソファへ歩みを進める。

 客人の男が、困惑した様子で立ち上がった。


「当主が留守にしているため、代理でお話を伺いに参りました」

「いやあ、そうでしたか。まだ子どもなのに、偉いですなあ」

「ご用件をどうぞ」


 軽く促す仕草をし、少年がソファに腰を落とす。

 合わせて軽薄な笑みを浮かべた男が席についた。


 静かに紅茶を注いだアーリアが、黙したままテーブルに茶器を置く。

 一礼した彼女が音もなく下がった。


「私はムロス・サンドリットと申しましてな。君のお父上の友人でして」


 整えた口髭の向こうで、にやにやと男が猫撫で声を発する。

 表情ひとつ変えない少年は、背筋を正したまま膝の上に手を置いていた。


「今日はおいしいお菓子をお持ちしましてな。是非にと思ってお持ちしたのです」


 男が手でしゃくる仕草をし、控えていた従者が旅行鞄を持ち上げる。

 長方形をした革張りのそれをテーブルの上に載せ、男が無害そうな顔で微笑んだ。


 太い指が鞄の留め金を外し、ゆっくりと上蓋が開かれる。

 彼のもったいぶるような仕草をアルバートは一瞥したのみで、興味なさそうに黄橙色の目を男へ向けた。


「おっと失礼。お菓子を持ってきたつもりが、別のものを持ってきてしまったようですな。ははは」


 ずいと差し出された旅行鞄の中には、隅々まで敷き詰めるように、紙幣が詰まれていた。

 にやにや笑う男が、鞄が倒れないよう上蓋を支える。


 口角をにっこりと持ち上げた少年が、繊細な見た目に似合った表情を作った。


「お話は以上でしょうか」


 淡々とした声に温度はなかった。


 唖然と口を開いた男が、慌てたように鞄の中身を掴み取る。

 乱雑に握られた紙幣が潰れる音。

 はち切れんばかりに張り詰めたジャケットから覗いた腕が、アルバートへ向けて突き出された。


「そうだな、少しわかりにくかったな! ほら、君にもあげよう。好きなだけ持っていくと良い!」

「生憎と、知らない人から物を貰うなと躾けられているので」

「私は君の父親の友人だ!」


 唾棄の勢いで叫んだ男に、少年が綺麗な笑みを見せる。

 繊細な面持ちも、正された背筋も動じない。

 ただにっこりと口角だけを持ち上げ、瞳の温度を零下へ向けて下げていた。


「失礼ですが、私に父親はおりません」

「は……? な、なら、今すぐこの場で一番偉い人を連れて来るんだ!!」

「はい、私です」

「ふ、ふざけているのか!?」


 男が青筋を浮かべてテーブルを叩く。

 激しい物音が、茶器を揺らした。

 波打つ水面へ一瞥を向けたアルバートが、再び変わらぬ笑みを浮かべる。


 脂汗を掻く男は、焦っていた。

 彼こそが、今年の収穫祭実行委員会の会長である。

 少しでも科せられた罰則を軽くしようと、コード邸まで押しかけた。


 本来彼は公爵家であるコード卿を毛嫌いしていたが、背に腹は変えられない。

 これまでと同様に金を握らせれば、この生意気な子どもも自分に従う。


 そうだ、直接握らせてしまおう。

 そうすればこの生意気さも、少しは素直になるだろう。

 そう考えた男は腰を浮かし、華奢な少年へ向けて手を伸ばした。


 ぱんっ、乾いた音を立て、弾かれた紙幣が床に散らばる。

 少年が立ち上がった。


「そういえば、会計処理が合わない、と小耳に挟みました」

「な!? 何をするんだ! やめなさい!!」


 取り出したハンカチで手を拭きながら、アルバートが無機質な顔で、床に寝そべる紙幣に爪先を載せる。

 良く磨かれた革靴の底が、踏み躙る動作を繰り返し、叫んだ男が慌てて床に這いつくばった。


 俊敏な動作で紙幣を掻き集める男を無感動な目で見下ろし、少年が踵を退ける。

 ひしゃげて捩れた紙幣を、男が瞬時に回収した。


「交通費、食費、施設維持費、雑費……どれも前年比を大きく上回っていたそうです。面白いですね」

「何を……私は、何も知らない!!」

「ああ、あと弁当代。何処も注文を受けていないそうですが、誰へ対する弁当だったのでしょうね?」

「知らないと言っているだろう!! 大人を揶揄うのも大概にしろ!!」

「からかうなど。……先に仕掛けたのは、あなたたちだ」


 傾げた小首に合わせて、薄茶色の横髪が揺れる。

 ひどく優雅な笑みはしかし、目が全く笑っていない。

 アルバートが冷めた色で、床に蹲る男を見下ろした。


 男が戦慄く唇を動かす。

 交渉材料である紙幣が嬲られ、たかが少年如きの懐柔にすら至れていない。


 彼は焦っていた。

 収穫祭最終日までに篭絡しなければ、自身の権威が揺るがせられる。

 最悪極刑だ。


「そうだ、好きなものを買ってあげよう。何が欲しい? 何でも叶えてやろう!」

「では、それを持って早急にお引取りください」

「待て! 何が欲しい? 馬か? 馬車か剣か? 家だろうと何でも買ってやる!」

「……僕の一番欲しいものが、お前如きに扱えるものか」


 舌打ちを漏らしたアルバートがテーブルへ近付き、乱雑に旅行鞄を閉める。

 はみ出た紙幣に構うことなく、彼が金具を締めた。

 視線で男の従者を促し、革張りのそれを押し付ける。


 男は慌てた。ここで引き下がっては、明日の我が身はないも同然。

 回収した紙幣をポケットへ捻じ込み、彼は少年に縋り付いた。

 伸ばされた腕に、少年の顔が嫌悪に歪む。


「お戯れも程々に」


 メイド服が動作の反動で揺れ、男の眼前に銀色のお盆が広がる。

 少年へ伸ばしたはずの両手はアーリアによって阻まれ届かず、男が鳴らした喉が、呻き声から叫び声へ変質した。


「おい! その買えないものを教えろ! 私が買ってやる!! だから私を助けろ! いいな!? 早く教えろ!!」

「アーリア、玄関まで送ってやれ」

「畏まりました」

「待てッ、私が悪かった! 教えてください、お願いします! 何でも言うことを聞きます!!」

「子どもの私が横領について知っているのです。大人が知らないとでも?」

「あああああッ!!! ガキが舐め腐りやがってえええええ!!!!」

「あなたの家名が後世に伝わることを、お祈りしています」


 床を転がり、この家の子どもへ腕を伸ばすも、服の裾にすら届かない。

 不恰好な体躯が脂肪で弾み、ジャケットの釦が弾ける光景を、アーリアが煩わしそうな顔で見送った。


 旅行鞄を持った従者等が困惑した様子で顔を見合わせる中、扉を開けたハイネが男の襟首を掴む。

 無意味な音を漏らしていた彼は苦しげな声を上げ、整えたはずの髪が乱れることも構わず暴れ始めた。


「おい、貴様! 何をする!? 私の名を知っているのか!?」

「忘れ物です。お持ち帰りください」

「お前等、私を助けろ!! この不届き者をどうにか、ぐえっ」


 転がった釦を拾い上げ、従者へ手渡したアーリアが、彼等を部屋から追い出す。

 静かに閉じられる扉が、かちゃりと金属の触れ合う音を立てた。


 アルバートのみが取り残されたそこは、引き摺る音も暴れる声も遠ざけ、ようやく少年が詰めた息を吐き出す。

 束の間、ノックもなく開かれた応接間の扉から、ひょこりとリズリットが顔を覗かせた。


「アルくん、終わった?」

「ああ。手を洗いたい」

「潔癖症、加速してない? ねえ、カレンさん」

「アルくん、お疲れさま」


 リズリットの下から顔を出した義母の姿に、面食らった顔をしたアルバートが、反射的に肩を跳ねさせる。

 うふふと微笑むカレンが、応接間へ脚を踏み入れた。


「気持ちは落ち着いたかしら?」

「ああ。……わがままを言って済まなかったな」

「今度は、もっと可愛らしいわがままを期待しているわ」


 困ったように眉尻を下げたカレンが、口許に手を添えて微笑む。

 決まり悪そうに顔を背けたアルバートへ向けて、彼女が目許を緩めた。


「じゃあ、残りの人たちは、カレンおばさんに任せて頂戴」

「カレンさん、そのおばさんって凄く言いにくいよ?」

「あらあら」


 リズリットの不満へ茶目っ気を込めて微笑み返し、カレンが胸に手を当てる。

 自信溢れるその仕草は、アルバートの義姉よりも活動的に見せた。


「さ、戻りましょう。カレンさんたちだって凄いのよって、あの人をびっくりさせなきゃ!」

「……僕より、あなたの方が落ち着きがないな」

「だって、前々から計画していたあの人とのデート、全部キャンセルになってしまったんですもの」


 女の恨みはこわいのよ。

 笑う母親が、簡素なドレスの裾を翻した。

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