記憶に浸してオーブンで焼く
深く吸い込んだ空気を、ゆっくりと吐き出す。
ミュゼットが静々と頭を垂れた先にはこの国の王がおり、無感動な顔で頬杖をついていた。
ミュゼットの後ろで、同じくコード卿が恭しく礼の仕草を取る。
冷淡な目で見詰めた国王が、歪に口角を持ち上げた。
「コードよ、腹は決まったか?」
顔を上げたコード卿が、にこりと笑みを浮かべる。
面白くなさそうに鼻を鳴らした国王が、ミュゼットへ目を向けた。
「コードの娘よ、発言を許す。お前は何をしてくれる?」
「王妃殿下を癒すため、過去の記憶を閲覧させていただきます」
「ほう?」
落ち着き払った少女の声音に、姿勢を起こした国王が柳眉をひそめる。
顔を上げたミュゼットが、柔和な顔で微笑んだ。
堂々とした仕草は、やはりつまらないと、鼻を鳴らされる。
「ご許可を」
「勝手にしろ」
「ありがたき幸せ」
整った仕草が礼をする。
国王が目配せし、係のものがミュゼットを連れて行った。
残されたコード卿へ、立ち上がった国王が冷めた目を向ける。
「お前も同道するか?」
「いいえ。女性の秘密を覗くことは、紳士的ではありませんので」
「食えんな」
通り過ぎた後姿が、扉によって遮られる。
深く息をついたコード卿が立ち上がり、げんなりとした顔で伸びをした。
……陛下の眉間の皺、メモ紙くらいなら挟めるんじゃないかな?
彼が不敬なことを考える。
「いやあ、ははっ。宰相閣下殿のところにでも行こうかな」
その後警備兵と、「今生のお願い! あと十日くらいしか生きられないコードおじさんの、一生のお願い!!」と悶着したコード卿が、エルクロス・ティンダーリア宰相との面会の権利をもぎ取った。
塔の階段をくるくると上り続けたミュゼットとアーリアが、ひとつの小部屋へと案内される。
もののない室内は殺風景で、こじんまりとした面積を広く見せた。
ひとりのメイドが慌てたように頭を下げ、脇に下がる。
部屋の中央には椅子が置かれ、入り口に背を向けるようにひとりの女性が座っていた。
「彼女がソフィアだ」
ミュゼットの背後から、男性の低い声が響く。
国王からの紹介を受け、ミュゼットが女性……王妃ソフィアに注視した。
ほつれた白い髪は長く、櫛すら通していない様子が見て取れる。
そっと部屋へ入り、王妃の前へ回り込む。
彼女が大事そうに、何かを抱えていることがわかった。
……おくるみに包まれた人形だ。
愛しげな様子で、女性が赤子の人形を見下ろしている。
――王妃殿下はお心を壊されている。
ミュゼットが心痛の思いをぐっと耐えた。
顔すら描かれていない人形を大切そうに抱え、王妃は微笑んでいる。
誰の存在にも反応しない。
やつれた彼女の唇は、ひび割れ血が滲んでいた。
そこに肖像画に描かれているような彼女は存在しない。
静かな部屋には音もなく、時間すらも止まっているかのような錯覚を与えた。
「お前に治すことができるか?」
「……最善を」
国王の言葉に、短くミュゼットが返答する。
彼女が王妃の背後へ戻り、静々と頭を垂れた。
「これより、王妃殿下の記憶を閲覧いたします」
国王は無表情だった。
長年に渡って刻まれた眉間の皺と、厳格な口許。
腕を組んだ彼は一言ももらさない。
ミュゼットが膝をつき、王妃の背に触れる。
左手をアーリアへ差し出し、侍女が固く主人の手を握った。
「……王妃様、失礼いたします。あなたの記憶を覗かせていただきます」
全円を描くスカートの更に外周を、薄緑の光が線を描く。
ミュゼットの周りを揺蕩う円陣が、左回りにゆっくりと回った。
彼女が瞼を下ろす。
――お嬢様、はじめて魔術を発動した日のことを、覚えていますか?
ミュゼットの脳裏に、ヨハンの声が再生される。
――ええ、覚えているわ。
わたくしがベルにいじわるして、怪我をさせたの。
用事なんてなんにもなかったのに、背伸びするベルを見たいからといって、高いところを指差したの。『あれを取って』と。
ベルは椅子に登って、うんと背伸びして、わたくしのいじわるに従ったわ。
それで落ちてしまったの。
頭をぶつけて、血がいっぱい出て、わたくし動転してしまって、『元に戻って』と必死にお願いしたわ。
ミュゼットの後悔に、ヨハンが淡く微笑む。
彼女の頭を撫でた彼が、宥めるように口を開いた。
――厳密に言うと、お嬢様は治癒ではなく、復元しているんです。
『過去の在りし日に戻って』と。
これは好機ですよ、お嬢様。
原因は過去にあるとはっきりしているんです。
過去を認め、癒すことで、ようやく前へ進むことができるんですよ。
なので過去に介入できるお嬢様は、好機に恵まれている!
ま、トラウマの治療は、だいぶん苦痛をともなうものですけどね。
軽やかに惨いことを告げたヨハンの顔が、ミュゼットの意識にとけた。
*
水に潜るときのような、とぷりとした感覚がわたくしの身体を包む。
恐る恐る目を開け、周囲を見回した。
ゆっくりと降下していく視界が、たくさんの扉を映す。
壁一面に、大小様々、でたらめに扉が張りついていた。
わたくしが記憶を閲覧できる時間は、10分が上限。
他者の深層に関与するため、あまり長時間潜っては、わたくし自身の自我に影響してしまうためだ。
突貫工事で仕上げたこの術は、まだ粗さが目立つ。
自力で帰ることは困難で、時間になったら誰かに手を引いてもらわなければならない。
今回はその役を、アーリアにお願いしている。
わたくしの爪先が、下層に触れる。
こつり、着地した瞬間に景色が変わった。
ぶわりと感じた風に目を細め、顔の前に手をかざす。
『お前も同じように死ねッ!!』
耳をつんざいたのは、金切り声だった。
思わず、びくりと身体が跳ねる。
目を開けると、そこは静止画の世界だった。
四角い部屋にはものがなく、けれども壁には影が伸びている。
……わたくしの影ではない。わたくしの影は映っていない。
じっと壁を見詰めた。
……影だけで判断するなら、この部屋はきっとめちゃくちゃな有様なのだろう。
子どもだろうか? 大きな怪物染みた影を前に、へたり込んだ小さな影がある。
テーブルクロスを滑り落とした大机は、傾いている最中だった。
宙を舞うティーカップと思わしき影の他に、歪な影がいくつも描かれている。
そして何より、この影を見ていると、胸の中がたまらなく気持ち悪くなる。
咄嗟に顔を背けた。
……動悸がする。数度咳き込んだ。
これは何を意味しているのだろう?
影だけでは、これ以上読み取ることができない。
きょろきょろ周囲を見回すと、ひとつの扉を見つけた。
ドアノブを回してみる。がちゃがちゃ、音を立てるだけで開かない。
……困ったわ。他に何かないかしら?
殺風景な景色を見回す。
ふと、傾いている額縁を見つけた。
……こんなもの、さっきまであったかしら?
しげしげと見詰める。
額縁の中身は、夜を煮詰めたような真っ黒な色をしていた。
「……? きゃ!?」
不意に暗闇が動き、中から爪の割れた手が這い出てきた。
思わず飛び退く。
わたくしの中で、過去最高の反射神経を発揮した瞬間だった。
——びっくりした。泣きそうになった!
どうやらゆらゆら揺れている手は、何かをつまんでいるらしい。
恐る恐る近づき、何を持っているのか窺ってみる。
にゅっとこちらへ突き出された手に、涙目になったわたくしは悪くないと思うの。
差し出した手のひらに、ぽとりと何かが落とされる。
……銀色の華奢な輪。指輪がそこにあった。
「え?」
よく見れば、額縁の手は左手だ。
……もしかして、婚約指輪か結婚指輪かしら?
恐々と指輪をつまみ、そぉーっと薬指にはめてみる。
やせ細った指に指輪はあまったけれど、これによって額縁の手はするすると奥へ消えていった。
かたんっ。
「ひゃ!?」
突然響いた硬質な音に、わたくしの心臓が飛び上がる。
慌てて振り返ると、さっきまで閉じられていた扉が薄く開いていた。
……こわいと思ったわたくしは、悪くないと思うの。
そっと扉へ近寄り、音を殺して中を覗き込む。
カラカラ、何かが回る音がする。
――今、何分経ったのかしら?
迷っている暇はないわ。行かなければ……!
中は先ほどまでの殺風景な景色とは異なり、あたたかな光にあふれていた。
そっと部屋に爪先を入れる。
唐突に視界が変わった。
……誰かの視点だ。ベビーベッドを覗き込んでいる。
中には、眠たげな目で瞬きする乳幼児がいた。
カラカラ、渇いた音にオルゴールの音が被さる。
……そうか、これはベッドメリーの音だわ。
「ねえ見て。セディが目を覚ましたわ」
嬉しそうな女性の声がする。
隣にいる男性が、何かを話した。
……声は聞こえない。言葉をかわした気配がした。
赤ちゃんに、女性の手が伸ばされる。
柔らかな頬に指先が触れた。
「おはよう、私のかわいいセディ」
優しい声だった。知らず、涙が溢れ出す。
途端、強い力で左手が引かれた。
はっと意識が覚醒し、何度も瞬きを繰り返す。
……殺風景な部屋。王妃様のお部屋。
左手のぬくもりが、わたくしに現実を知らせる。
不意に横からハンカチが差し出された。
そちらを向くと、心配そうな顔のアーリアがいる。
わたくしの頬は濡れており、瞬きの度に涙を落としていた。
「お嬢様、お加減は……?」
「平気よ、アーリア。ありがとう」
ハンカチを受け取り、涙を拭う。
王妃様は、赤子の人形を抱えたまま眠っていた。
安らかな寝顔に、国王陛下が恐る恐る触れる。
……うつむく彼の表情は、わたくしの位置からは見えなかった。
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