04

 僕の両手を取ったリヒト殿下が、白の正装のままくるくる回り出す。

 ご機嫌なそれは彼を軸にしているため、足を縺れさせた僕は、あわあわと振り回されていた。


「ベル、終わった! 終わったよー!!」

「お、終わりましたね! あのっ、殿下! 僕踊れません! 踊れません!!」

「大丈夫! 流れに任せて足を動かすだけ!」

「芸術方面、とんとだめなんですからあ!!」


 大人たちが微笑ましそうに見守る中、収穫祭最終日のかがり火を撤収させた僕たちは、王城へと戻ってきていた。


 街の中央広場で煌々と炎を上げていたかがり火を、僕は初めて見た。

 日暮れ以降、お嬢さまを屋外へお連れすることを避けているためだろう。

 燃え上がる赤色は圧巻で、無性に脳裏に焼きついて離れない。


 そんな何処か現実味の足りない情緒を襲った、突然の人力メリーゴーランド。

 リヒト殿下、握力お強いですね……!!


「王子殿下、どうぞ音頭を」

「みんな! 収穫祭お疲れさま!!」


 男性の太い声に促され、満面の笑みのリヒト殿下が、慰労の言葉を発する。

 歓声が上がった。


 今日も食堂に並ぶごはんは、冷めたものだった。

 けれど、みんながお酒を注いでグラスを打ち鳴らし、晴れやかな笑顔で談笑している。

 飛び切りの明るい空気に、あの怒涛の日々が終わったことを実感した。


 四日目から加わったクラウス様が、新実行委員の人たちにもみくちゃにされながら、お食事を取られている。

「肉ください、肉!」成長期が、爽やかな表情で栄養源を欲していた。


 達成感に満ちた笑顔の旦那様が、ボトルを持ってヒルトンさんのグラスに注ごうとする。

 やんわりと苦笑を浮かべた老執事が、グラスの代わりに旦那様の手からボトルを抜き取った。

 洗練された所作で、透明の硝子に赤色を注いでいく。


 ……ヒルトンさんは、浴びるほど飲んでも足りないくらいすきなお酒を、控えているらしい。

 まだ引退出来ないからね、と笑っていた。


「ベル、こっちこっち」


 一気に気の抜けた僕の手を引き、殿下が扉の方へと誘導する。

 彼に従って歩みを進めると、そのまま暗い廊下へと引っ張られた。


 先導するリヒト殿下は目的地があるらしく、歩調は変わらない。

 遠退く賑わいを背に、繋がれた右手に連れられた。


「殿下、どちらへ?」

「ちょっと散歩に付き合って」


 肩越しに振り返った殿下が、いつもの笑顔で僕の手を引く。

 階段を上ったり下りたり、角を曲がったり、迷路のような城内をくるくる歩いた。


 一階の廊下を抜けると、中庭からりいりい虫の声が聞こえる。

 領地ではよく聞いていたそれだけど、王都に来て以来、めっきり耳にしていなかった。


 収穫祭が終わると、季節は一層冬へ近付く。

 肌寒さを増す外気は、音が少なかった。

 久しぶりに聞いた虫の音に、視線を中庭へ向けた。


「なんだかんだ慌しかったけど、終わってみたら呆気なかったね」


 笑み混じりに零された言葉に、顔を正面へ戻した。

 歩みを止めない殿下が、くすくす今期を振り返る。


「ほら、あれ面白かったよね。準備期間中にみんな切羽詰ってさ、突然家族自慢が始まったやつ」

「ありましたね。ロスター卿でしたっけ。いきなり窓を開けて、『愛してる!!』と叫ばれたの」

「そうそう。コード卿が真顔で、『私は今カレンとデートしているんだ。邪魔しないでくれ』って言ったやつ」

「今だから言えますけど、皆さまだいぶん精神をやられてましたよね」

「うん。混沌としてた」


 軽やかな笑い声を立てて、リヒト殿下が繋いだ手を握り直す。

 白手套の外されたそれは、少年期の印象よりも大きく感じた。

 繊細な指は長く、ピアノ奏者のようだ。


 ……殿下が楽器を嗜まれるのかどうかは、知らないけれど。


 準備期間は本当に時間が足らず、徐々にみんなの言動がおかしくなっていった。

 多分、ものすごくアドレナリンが放出されて、無性に高揚していたんだと思う。


 ひとりのおじさんが「ははは、世界が回っているよ」とその場で回転し出し、他のおじさんたちが手を取り合い「君の回転もまだまだだね」と回り出したときは、お医者さんを連れて来なきゃと本気で戦慄した。


 ちなみに旦那様は「これを書いた私を連れて来い!!」と机を叩いて突っ伏し、過去のご自身が書かれた、みみずののたくったような文字を責められることが度々あった。


 ヒルトンさんが眼鏡を片手に、真剣な表情で眼鏡を探していた光景も、貴重だと思う。


 外に行くことの多い僕で、これだけカオスな現場に遭遇している。

 その場にいたリヒト殿下は、どれだけの混沌を目の当たりにしたのだろう?


「……うん、終わった。終わったんだ」


 小さく呟かれた言葉に、僅かな揺らぎを感じた。


 殿下が僕の手を引き、垣根のある庭へと降り立つ。

 さくりと靴底を鳴らした芝生。

 石造りのベンチへと歩まれていた彼が、不意にこちらを振り返った。


「……あのね、ベル。終わったから言うけど、今回は本当にだめだって思ってたんだ」


 僕の視界は、闇夜に特化している。

 リヒト殿下の碧眼が、潤んでいることに気付いてしまった。


 息を呑んだ僕の腕を強く引き、殿下の腕が背に回る。

 肩口に置かれた頭が、すんっ、涙声を発した。


「本当にありがとう、ベル。ベルがいなかったら、こうはなってなかった。ベルがいてくれたから、ぼくは最後までがんばれた」

「殿下、」

「ぼくといてくれて、ありがとう……っ」


 ぎゅうぎゅう抱き締められ、金糸が頬に触れる。

 持て余していた手で、彼の頭を撫でた。


 背に回した腕に力を込める殿下に、過去のリズリット様やギルベルト様をあやしたことを思い出す。

 宥めるように軽く背を叩き、柔らかな金糸を梳いた。


「僕こそ、殿下のお傍にいながら、ご様子に気付くことが出来ず、申し訳ございませんでした」

「ベルはわるくないっ」

「……お許しをありがとうございます。殿下のお役に立てて、本当に、嬉しく思います」

「……っ、ベルだいすき」


 ぐすぐす、涙声をあやす。

 彼は立場上、弱味を見せられない環境にいる。

 怒るときも笑顔。泣いてる姿も見せない、たしなめるときは苦笑い。

 僕をここまで引っ張ってきたのも、誰にも見られたくなかったからなのだろう。


 寮の最上階で引きこもっていたときから、リヒト殿下はいっぱいいっぱいだった。


 それでも、ご自身の感情も、他者からの謝罪も、罰則と制裁も、全て後回しにして成すべきことをされた。


 ……彼は16歳になったばかりの子どもだというのに、甘えられる環境にいない。

 これまでもずっと、彼は味方の少ない中で生きてきた。

 彼の笑顔は、所謂処世術なのだろう。


 労わりになるかはわからないけれど、出来るだけ優しく手触りの良い髪を梳く。


「ベル、来年もぼくのこと、手伝って」

「来年ですか」

「アルバートに怒られるのはわかってるんだけど、今から予約する」

「坊っちゃんは別にお怒りには、……ッ! 殿下、お下がりください!!」


 咄嗟にリヒト殿下の身体を突き飛ばし、察知した気配の方へ身体を動かす。

 庇うように立った背中に衝撃を受けた。

 喉が短く鳴く。


 じわじわと熱の広がる箇所に手を伸ばし、触れた異物の形を辿った。

 ……長細い。矢、かな?


 膝に置いた片手が、痺れて動かない。

 思いっきり突き飛ばしちゃったから、後ろに転んでしまったらしい。

 殿下が呆然としたお顔で、こちらを見上げている。


 か弱い声が、小さく僕の愛称を呼んだ。

 脂汗の滲む顔で微笑み返し、掴んだ凶器を引き抜く。

 荒い呼吸に、噛み殺した悲鳴が混ざってしまった。


 ジャケットを脱いで、殿下の白の正装の肩に掛ける。


「ちょっと、汚れてますが、おつかい、ください。……白、は、目立つ、ので」

「ベル、待って、やだ、寝ちゃだめ、ベル!!」

「おにげ、くださ……」


 あれ? おかしいな。

 まだ一撃しか食らってないのに、頭がくらくらする。

 背中はこんなにも熱いのに、手足はうんと冷えて、ざあざあ音がして、目の前が、くらい。

 殿下が、必死に僕の名前をくりかえして……。

 お守りしなきゃいけないのに、敵だって、まだ、捕捉……。


 暗転した視界がぷつりと意識を飛ばし、弛緩した身体が崩れ落ちた。




 *


「ベル! ベル!!」


 抱き留めた身体へ、リヒトが懸命に呼び掛ける。

 彼が触れた左肩が、ぬるりと滑った。

 鼻につく鉄くささと、右手を濡らした粘度の高い液体。

 視界の不良な闇夜の中でも、わかってしまったそれに彼の表情が強張った。


「殿下!!」

「ミスター……」


 庭園を灯す薄明かりの中、駆け寄る男性の低い声にリヒトが顔を上げる。

 意識のないベルナルドを一瞥したその人は、ベルナルドの養父である老執事だった。


 即座に真っ直ぐリヒトと目を合わせた彼が、落ち着いた声を発する。

 片膝をつくその姿は、年齢を感じさせなかった。


「クラウス様が救援を呼んでおります。どうぞ、中へ」


 リヒトが散々城内を散歩した理由は、この老紳士と幼馴染を撒くためにあった。


 彼は立場上、完全にひとりになることが出来ない。

 必ず誰かの目が何処かにある。

 窮屈なそれも、仕方ないと受け入れていた。


 しかし今回ばかりは勝手が違った。

 自身の弱音を、他の誰にも晒したくない。

 それは年頃の少年の、ほんの少しの強がりだった。


 結果として、僅かな自由時間を得たリヒトは、出来るだけ見つけやすいよう場所を選んだ。

 小さな我がままに付き合わせた代わりに、探す労力を減らそうと気を遣った。


 その心配りが、襲撃の格好の的となった。


 ベルナルドを襲ったものと同じ音が、夜闇を裂く。

 ヒルトンが音もなくナイフを抜き放ち、空を掻いた。

 何かが壊れる音が響く。


「……ミスターオレンジバレー、ベルをお願い」

「ご自重ください、王子殿下!」


 抱えたベルナルドをヒルトンへ預け、ふらりとリヒトが立ち上がる。

 顔色を悪くさせた老執事が呼び掛けるが、少年は聞く耳を持たない。

 静かで抑揚のない声で囁き、ベルナルドのジャケットが落ちないよう、胸の前を掻いた。


「ぼくだとベルを運べないから、あなたが運んで」

「……優先順位を違えないでおくれ。この子も時間がない」

「わかった。すぐに終わらせる」


 外面の顔を剥ぎ取ったヒルトンへ微笑みかけ、リヒトが足許の芝生を鳴らした。


 徐に左手を上げた仕草に合わせ、星明りの中、数多の円陣が浮かび上がる。

 複雑な幾何学模様を描く白光は、緩やかに円転していた。

 大小位置高さ、様々なそれを従えたリヒトが、やんわりと口角を持ち上げる。


「二回も同じ場所から撃つなんて、本当、浅はかだなあ」


 目標地点目掛けて、リヒトの手が軽やかに振り下ろされる。

 指揮者よりも気軽な、淡々とした仕草。


 一層白く光を纏った陣が、それぞれ軌道を揃えて、少年の示した先へと閃光を放った。

 折れ曲がり、湾曲するそれらが次々と地面を抉る。

 被弾の度、破裂した光が砕いた金剛石のように飛び散り、辺りの夜闇を吹き飛ばした。


 破壊音に混ざって引きつった悲鳴を上げた男が、抉れた垣根から転がり出る。

 恰幅の良い身体は必死にクロスボウを抱えており、整えることを忘れた身形はぼろぼろだった。


 昼間の明るさを描く周囲に照らされ、憐れなほどに震える男へ、リヒトが優しげな笑みを浮かべる。

 優雅な足取りで蹲る男へ近付き、彼の頭を勢い良く踵で踏みつけた。


「こんばんは、ミスターサンドリット。ウサギ狩りは順調?」

「あ、ぐ、……王子殿下、お許じを……ッ」

「ふふっ。きみはぼくを怒らせるのが、本当に得意だね」


 誰もが見惚れるような笑みを浮かべ、リヒトが左手に剣を編む。

 光で紡がれた鋭利な切先が、男の眼前に垂らされた。


 ますます引きつった悲鳴を上げた男が、逃げ出そうともがき出す。

 たしなめるように息をついたリヒトが、踏み締める圧を加えた。

 頬が地面を擦る。

 ぐぎ、潰れたような声が、咽び泣く音に混じった。


「手間かけさせないで。あの子がしんだら、ぼくがきみのこと殺すよ」

「ひっ……! お許しを、お許じを……!!」

「折角、爵位の剥奪くらいで許してあげようと思ってたのに」

「ど、どうが、ごの度のご無礼、」

「誰が喋っていいって、いったの?」


 男の眼球に切先を向け、泣きじゃくる駄々っ子をあやすような口調で、リヒトが話す。

 瞬きも出来ない男は、ひっひっと呼吸を詰まらせ、その顔を泥とあらゆる体液で汚していた。


 蓄えられた脂肪の下、カチカチ震えるクロスボウを見下ろしたリヒトが、冷めた目で剣を薙ぐ。

 目前で残像を描いた白光に、男が情けない悲鳴を上げた。

 クロスボウの半身がごとりと落ちる。


「どうやってここまで入ってきたの? また弁当代使ったの?」

「は、搬入に、乗じで……ッ」

「ふうん」

「荷物に……」

「あっそ。続きは警備兵に話してね」


 リヒトが発した閃光と衝撃音によって、騒がしくなった周囲が兵士を集める。

 少年が足許の人物を解放した。


 嗚咽を滲ませ、額を地面に擦りつけ懇願する男を見ることなく、彼はベルナルドの元へと駆け戻った。

 取り押さえられる騒動にも耳を貸さず、ヒルトンが抱え上げる負傷者を追いかける。


「ベル……っ、ベルは平気……?」

「血抜きはした。あとは専門家の仕事だ」

「……ッ、」

「全く、『最後の最後』とは言ったが、本当に仕様のない子だ」


 呆れた口調で足早に城内へ戻ったヒルトンを、向かいから駆けて来たクラウスが呼び止める。

 汗を掻く彼は数人の大人を引き連れ、白い板状の布を抱えていた。


「ミスター! 担架持ってきました!」

「医者は!?」

「確保してます! 飲んでないっす!!」

「良くやった!」


 就寝準備の整っていた医者が、白衣に袖を通しながら、ベルナルドの容態を確認する。

 運ばれて行く彼へ追い縋れないリヒトが、足を止めた。

 俯く彼の肩をクラウスが叩く。


 静けさを失った暗い廊下は、あちらこちらが騒がしい。

 血液の張り付いた黒いジャケットを握り締め、少年がその手を力なく払った。




 *


 ふらりと目を覚ました。

 見慣れない天井と、窓から差し込む明るい日差し。

 小鳥のさえずりは平和的で、ぼんやりと数度瞬く。


 緩慢な動作で視界を巡らせれば、僕の左手を繋いだまま、リヒト殿下がベッドの脇で眠っていた。

 白いシーツが弾く朝日が、彼の金糸を明るく染める。


「……でんか、また、ベッドでおやすみになられて、いないんですか?」


 掠れた声で呟き、痛みに軋む身体を動かして、右手で彼の頭を撫でる。

 正装から平常時の服装へと着替えてある肩には、柔らかそうなブランケットが掛けられていた。


 彼が漏らした小さな呻き声が、長い睫毛を震わせる。

 はっと飛び起きた殿下が、泣きそうな顔でこちらを覗き込んだ。

 滑り落ちたブランケットが乾いた音を立てる。


「ベル、具合は? 平気? 気持ち悪かったり、痛かったりしない?」


 頭はぼんやりするし、熱っぽいけど、大丈夫だと頷く。

 ますます表情を歪めたリヒト殿下が、僕の頬に左手を添えた。


 ……ひんやりする。

 こんなに冷えられて、お風邪を召されたらどうするんですか。


「熱、出てるね。……昨日のこと、覚えてる?」

「……ある程度は」

「ミスターが応急処置してくれたおかげだって。ぼく、うろたえて、なんにも出来なかった」


 余りにもつらそうなお顔をされるものだから、何か気の利いたことを言いたいのに、咄嗟に言葉が思いつかない。

 鈍く首を横に振ると、リヒト殿下が僅かに目許を緩められた。


「……守ってくれて、ありがとう。でも、ああいうのは、もう嫌だな」

「ヒルトンさんが、近くに、いましたので」

「それは、ベルが怪我していい理由にならないよ」


 ぴしゃりと放たれた低い声に、はたと口を閉じる。


 あの打ち上げのとき、ヒルトンさんはお酒を飲んでいなかった。

 僕が殿下の付き人の任を受けたときも、『必ず近くにいる』と言っていた。

 養父は約束を違えるような人ではないから、きっと助けてくれるだろうと思っていた。


 ……熱と痛みにうなされていた中、ずっと養父の声を聞いていた気がする。

 真相は、わからないけれど。


 おずおずと、殿下の顔を見上げる。

 僕の口から、すみません、朧気な声が漏れた。

 前にも、こんなやり取りをした気がする。


「ほかに、負傷者は?」

「ベルだけだよ」

「……殿下がごぶじで、なによりです」


 涙が零れないことが不思議なほど、悲壮なお顔をされた殿下に困惑してしまう。

 回らない頭で必死にどうしようと考え、頬にある彼の左手に、自分のものを添えた。

 やっぱり冷たく感じてしまうそれに、困ってしまう。


「殿下、収穫祭、おきらいにならないでください。……僕の誕生日でも、あるので」

「……うん、」

「来年の予約も、ヒルトンさんに報告します」

「……、うん」

「16歳、おめでとうございます。リヒト殿下」

「ベルも、16歳おめでとう」


 涙ながらに微笑んだリヒト殿下は、やっぱり綺麗な人なんだなあと、月並みなことを思った。

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