悪夢の始まり3
突然、名前を呼ばれたことで、
少女は一瞬恐怖を忘れ、不審に眉を寄せた。
明らかな加工音声。
が、引っかかったのはそこではない。
誰のものだか分からない名前を、
さも自分の名前のように呼ばれたからだ。
「私、今回あなたにルールをご説明いたします、
ABYSSの部長と申します」
「これより日の出までの短い時間ではありますが、
どうか最後までお付き合い下さい」
ルール。ABYSSの部長。日の出まで。
どの言葉を取っても、一欠片も覚えがない。
一体、この怪人は――
いや、この状況は何なんだろうか?
「あ、あの……質問、いいですか?」
「はい、何でしょうか?」
すぐさま戻ってきた反応に、
少女は心中でホッと息をついた。
これなら、少なくともある程度は、
双方向的なコミュニケーションに希望が持てそうだ。
「じゃあ……タカツキリョウコって誰ですか?
私、全然違う名前なんですけど……」
それは、少女にとって最も重要な質問だった。
もしこの状況が“タカツキリョウコ”のためにあるなら、
少女は全くの無関係ということになる。
それを理解してもらえれば、
すぐさま家に帰してくれるかもしれない。
「あの、もしかして人違いしてませんか?」
「いいえ、人違いではありません」
少女の期待は、あっさりと否定された。
「あなたがタカツキリョウコさんでないことは、
もちろん私も存じております」
「ですが、あなたはタカツキリョウコさんなのです。
これは変更はできませんので、ご了承下さい」
「いや、ご了承下さいって言われても……
私、タカツキリョウコじゃないですから」
「っていうか、ルール?
何のルールなんですか?」
「これから何をするのか分かりませんけど、
私、家に帰りたいんです。何もやりたくありません」
「大丈夫ですよ。何をするのか分かれば、
絶対にやりたくなりますから」
「……はぁ?」
眉をひそめる少女に、
怪人が鷹揚に頷いてみせる。
「もちろん、私も内容をご理解いただけるまで、
何度でも教えて差し上げるつもりです」
「ですので、この場は
ありのまま受け入れられることをお勧めしますよ」
目の前で優しげに語る仮面――
だが、丁寧な言葉の隙間に、
どこかおぞましさが見え隠れするのは気のせいだろうか。
「では、すぐに帰りたいというお話しでしたし、
早速ルールの説明をいたしましょうか」
「下らない問答をしていると、
どんどん時間は過ぎてしまいますからね」
『下らない』と質問を切り捨てられたことで、
少女が顔をしかめる。
が――
「それでは、あなたが不利になってしまいますからね。
私は一向に構いませんが」
いきなり突き付けられた“不利”というワードを前に、
出掛かった文句は喉元で止まった。
怪人が自己紹介の際に言っていた、
日の出までという言葉を思い出す。
制限時間が日の出までだから、
話を引き延ばすと不利になる、という理屈だろうか。
「……それで、
私を脅かしたつもりですか?」
「はい?」
「ルールだか何だか知りませんが、
私には関係ありません」
「だって私、帰りますから。
帰るなら、ルールも何も関係ないです」
だいたい、相手を何かに誘うなら、
もっと取るべき態度があるだろう――
それを口に出さなかったが、態度には出しながら、
少女が怪人の入ってきた扉へと歩き始める。
その|道中/みちなか》に、
怪人が音もなく割り込んできた。
「通して下さい」
「駄目です」
「じゃあいいです」
先のやり取りで問答は無駄だと悟ったのか、
少女が机の間を通って迂回していく。
が――当然のように、
彼女の進む先を怪人が塞いでみせた。
「ちょっと、邪魔しないで下さい!」
「いえいえ、邪魔をしたいわけじゃありませんよ。
ゲームに参加して欲しいだけです」
「だから、言ってるじゃないですか。
あなたに何を言われようと、私は帰りますって」
「その……ゲーム? が何かは分かりませんけど、
例え一億円もらえるゲームだろうと参加しません」
「今から家でご飯を作らなきゃいけないんですから、
もう構わないで下さいっ」
少女が机を押し退けながら、
行く手を塞ぐ仮面の横をすり抜けにかかる。
直後――
少女が、縦方向に綺麗な一回転をしていた。
床に叩きつけられ、
少女の口から奇声と共に空気が絞り出される。
何が起きたのか、
少女はまるで理解できなかった。
ただ、気付いたら地面の感覚がなくなって、
背中を強く打ち付けられていた。
呼吸困難の苦しみに喘ぎながら、
少女が薄目を開ける。
涙で曇る視界で、喜悦の面を身につけた怪人が、
少女に向かって手を差し出していた。
「お手をどうぞ。
ここ、滑りますから危ないですよ?」
「げほっ……あ、あなたが、
やったんでしょ……!」
何をされたかは分からなくとも、
何かをされたことだけは推測できる。
痛みに体を震わせながら、
少女は頭上の白面を睨み付けた。
その時、黒衣の間から、
女生徒用の制服が覗いているのに気付いた。
投げ飛ばされはしたものの、
相手が男ではないという精神的余裕はやはり大きい。
起き上がって背中をさすりつつ、
素知らぬ顔で手を引っ込める怪人を睨み付ける。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけないでしょ!
いきなり何するわけっ?」
「いえ、私は特に何も。
タカツキリョウコさんが勝手に転んだだけですよ」
「そんなわけないでしょ!
痛ったぁ……」
「おやおや、どこか怪我でもされましたか?」
酔った同僚の背中に手を回すように、
怪人の手が少女の二の腕を掴む。
「ちょっ……触らないでよ」
「いえいえ、怪我をされていたら困りますから。
痛みますか?」
誰かさんのせいで打ちつけたのは背中なのに、
腕が痛むわけがないでしょう――
そう声を上げて腕を振り払おうと、
少女が仮面を
「
その時、まるで染み出してきたかのように、
いきなり左腕に痛みが走った。
何事かと見れば、少女の細腕が、
仮面にじわじわと締め上げられていた。
「ちょっと、何してるのっ? 離して!」
「痛みますか?」
「痛いに決まってるでしょ!
このっ……!」
じわじわ食い込んでいく指を引き剥がそうと、
少女が仮面の指へと手をかける。
だが、動かない。
平然と掴んでいるようにしか見えないのに、
少女の右手では指一本すら剥がせない。
その間にも、万力のような力強さで、
徐々に徐々に少女の腕が圧迫されていく。
苦悶の鼻先へ、笑顔の仮面が迫る。
「痛みますか?」
「い、痛いってば……やめてよ……」
少女の要求――しかし仮面は動かない。
「やめてってば!」
少女の悲鳴――しかし仮面は動かない。
「ちょっ……!?」
際限なく締め付けを増していく白手袋に、
少女が困惑の声を上げる。
既に女としてはあり得ない程の――
男だとしても尋常でない力が込められている。
だが、この得体の知れない仮面の限界はどこにあるのか。
一体どこまで締めるつもりなのか。
「ね、ねぇ……私、痛いって言ったでしょ?」
少女の哀願――しかし仮面は動かない。
「痛いって言ったんだから離してよ!
もういいでしょ、分かったってば!」
余裕のない声を上げながら、少女が苦痛に呻く。
一向に反応を寄越さない怪人へ、
苛立ちを込めた視線を向ける。
「――うっ」
その時、ふっと目が合った。
ほんの一瞬だったが、気付いてしまった。
白い仮面の中程に二つ、
弓状に空いた、暗い穴の向こうから――
「……フフッ」
愉悦に満ちた
少女を覗き込んでいたことに。
「ヒッ!?」
その悪意ある視線から逃れるように、
少女が大きく仰け反った。
しかし、そこまで。
細腕を繋ぎ止める怪人の右腕は、
少女に逃走すら許さない。
『さあ早く解かないと腕が潰れますよ』とばかりに、
じわじわと柔肌を押し潰していく。
「っ……やめて! お願い!」
「もういいから! 痛いの! 痛いから!
もう分かった私が悪かったから!」
髪を振り乱しながら、
少女が半狂乱の悲鳴を上げる。
その源にあるのは痛みではなく、
人生で初めて受ける拷問への恐怖だった。
「――おっと、忘れていました」
少女の腕が解放されたのは、
怪人がその一言を口にした後――
実際には三十秒にも満たない時間だったのだが、
少女にとっては気の遠くなるような長い時間だった。
尻餅をつき、恐怖に染まった
這いつくばって黒衣の怪人から距離を取る。
「あらあら、随分といい顔になりましたね。
ゲームをやりたそうな顔です」
「だっ……だから、何度も言いましたけど、
私はゲームなんかやってる暇はないんですっ」
「……やれやれですね。
まだ素直になっていただけないようで」
「いつもなら痛い目を見せた後は、
大人しくしてもらえるのですが」
「いつもなら……?」
「まあ仕方ありません。懇切丁寧に何度でも、
嫌と言うほど教えてあげましょう」
「ひっ……!」
怪人が右手を持ち上げ指を鳴らすと、
少女の口から情けない声が漏れた。
ずっと強気を前面に出してはいたが、
所詮は張りぼてでしかなかったのだろう。
先ほど掴まれ締め上げられた腕を庇いながら、
逃げ場を求めて窓辺へと駆け出す。
「無駄ですよ。
どこも開かないように細工してありますから」
それは、少女とて
言われずとも分かっていた。
だが、彼女は別に、
出入り口からお行儀よく出ようと思ったわけではない。
悠長に語りかけてくるだけの怪人から十分に距離を取り、
手近な椅子の背を掴んで、頭の上まで持ち上げる。
「あ、それ死にますよ」
その椅子を持ち上げた手が、
ぴたりと空中で止まった。
その姿勢のまま、ブリキ人形のようなぎこちない動作で、
ゆっくりと怪人へ振り返る。
「死ぬって……どういう意味ですか?」
「そのままですよ。
後から説明する予定だったのですがね」
「まあいいでしょう。
首元に手を当てて下さい」
指示を訝しげに思いながらも、
少女が椅子を下ろして首に手をやる。
指先に触れてきたのは、
いつ付けられたかも分からない首輪だった。
「ちょっと……何なのこれ!
何でこんなの付けてるの!?」
「だって、放し飼いにしておいたら、
逃げてしまうかもしれないでしょう?」
“放し飼い”という言葉を生まれて初めて向けられて、
少女は思わず声を呑んだ。
お前をペットや家畜と同じ扱いをしているぞ――
そう言われたも同然なはずなのに、
出てくるのは怒りよりも怖気だった。
目の前にある、笑顔という無表情の仮面の下では、
一体今、どんな表情が潜んでいるのだろうか?
「その首輪には発信器と毒針が仕込んであります。
もちろん、確実に死ねるものです」
淡々と、怪人は説明を続けていく。
「あなたが学外に連絡を取ろうとしたり、
首輪を無理に外そうとすることで作動します」
「ほら……今なんかも、
危ないかもしれませんよ? フフフッ」
「ひっ!?」
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