如臨深淵1

鬼塚が死んだ――


さすがにニュースで報道までされているんだから、

間違いということはないだろう。


ただ……解せないのは、

誰が鬼塚を殺したのかだ。


鬼塚はABYSS。

並みの人間に殺されるわけがない。


消去法で考えるなら、

下手人は同じABYSSだろう。


ただ、だとすると、

鬼塚の死が表に出て来た理由が分からない。


薬漬けだったろう鬼塚の体を変死体として出して、

ABYSSの秘匿性に問題はないんだろうか。


それとも、僕みたいな人間が他にもいて、

そいつが鬼塚を殺したのか?


鬼塚の死は、片山の儀式の件に――

ひいては僕らに関係があるのか?


「お兄ちゃん、

さっきからずっと怖い顔してる……」


「ああ……ごめん琴子。

ちょっと、考え事してて」


……何にしても、

早く学園に行かないといけないな。


聖先輩に、一体何が起こってるのか

確認しないと。





琴子に断って、

一人で早めの登校――


早く生徒会室へ行かないとと思っていたところで、

校門の前に集まる人だかりに気付いた。


人垣の向こうに見え隠れする警察官と、

カメラ等を抱えた人たち。


ただの野次馬にしては豪華過ぎる機材を見ると、

マスコミ関係の人間なんだろうか?


何にしても、

ここから入るのは無理だな……。





別な出入り口にもマスコミ関係者がいて、

結局、フェンスを乗り越えて構内に入ることになった。


学生からもコメントを取りたいんだろうけれど、

さすがにあんなのに絡まれていられない。





「……いないか」


生徒会室に来てみたものの、

まだ誰も登校してなかった。


ABYSSに何かあったなら、

先輩が早く来てるかもと思ったんだけれど……。


「まさか、三年の教室に行くわけにも

いかないしなぁ」


本当は携帯で連絡を取れるのが一番だけれど、

ABYSSとはもう、一切関わらないことになっている。


証拠が残る/盗聴できる形でのやり取りは、

さすがに怖くてできなかった。


となれば、

生徒会のある放課後まで待つか?


でも、もしも先輩が休みだったとしたら、

今日一日を棒に振ることになる。


かといって、鬼塚と片山が死に、丸沢も転校した今、

他にABYSSについて聞ける人なんて――


「――ああ、いた」


そういえば、あの夜で決着したから、

すっかり忘れてた。


うちの学園にはもう一人、

ABYSSがいたじゃないか。





「……それで、

私のところに来たってわけね」


図書室の魔女こと黒塚さんなら、

きっと鬼塚の事情も知ってるに違いない。


そう思って、

単刀直入に聞いてみたものの――


「まさか、ABYSSじゃないとはね……」


「私をあんなのと間違えるだなんて、

随分失礼してくれるわね」


「でも、黒塚さんも僕を

ABYSSだと思ってたわけだしね」


これでおあいこ……だと思ったんだけれど、

何だか痛いほど睨まれたから言うのはやめておこう。


それより――


「プレイヤー、だっけ。

それなら、鬼塚の件で何か知ってたりしないかな?」


「残念だけど、

別に大した情報はないわよ」


「鬼塚死亡のニュースの裏が取れてることと、

部長の森本聖が行方不明になってるくらいね」


「聖先輩が……?

それ、本当に?」


「ええ。私の情報源が言ってた話だけど、

ほぼ間違いないと思うわ」


あいつ、仕事だけはきっちりしてるから――と、

黒塚さんが鼻を鳴らす。


……聖先輩が行方不明、か。


鬼塚の事件に関わってると見るほうが、

やっぱり間違いないんだろうな。


となると、片山のしでかした

不始末の粛清が頭に浮かぶけれど……。


でもそれだと、やっぱり、

事件として表に出てくるのがおかしいか。


「……そういえば、

どうして黒塚さんは僕に話してくれたの?」


「はぁ? あなたから聞いてきたんでしょ?」


「いや、そうだけれど。

ABYSSの情報を漏らしていいのかなって」


「笹山くんが喋らなきゃ別に問題ないでしょ。

ABYSSの怖さは十分知ってるみたいだし」


「それに、私はもうすぐ

この学園から出て行くし」


「えっ、そうなの?」


「だって、部長の森本聖までいなくなったんだから、

狩る対象がいないじゃない」


……ああ、そっか。

プレイヤーはABYSSを殺すのが目的なんだっけ。


そして、片山と鬼塚が死亡、丸沢は転校して、

聖先輩がいなくなった――と。


あと一人、残っているはずだけれど、

きっとその一人だけじゃ足りないんだろう。


「そういうわけで、

笹山くんに話しても別に私に損はないの」


「というか、せっかく調べたのが無駄になるのも癪だし、

誰かに話しておきたかったってのが正直な気持ちね」


なるほどなぁ。


まあ、黒塚さんには災難だけれど、

僕にとってはありがたい話だ。


「ありがとう。

おかげで、今日は待ちぼうけしないで済んだよ」


「別にいいわよ。

私も次の指示待ちで暇だったから」


ならよかった――と相槌を打ったところで、

携帯が鳴った。


「どうしたの?」


「あー……メールで連絡網が回ってきたんだけど、

ついに休校になったみたい」


まあ、校門であれだけ騒いでるような状態じゃ、

どうせ授業にならないだろうしなぁ。


学園側でマスコミとかの対応もあるだろうし、

休校もやむなしって感じか。


「ふーん……それじゃあ、

今読んでる本が終わったら帰ろうかしら」


「僕もそうしようかな。

これ以上、学園にいてもやることないし」


先輩も行方不明になってるとなると、

鬼塚の件はもう手詰まりだろう。


先輩の無事も気にはなるけれど、

続報が入ってくるまでじっと待つしかない。


「それじゃあね、笹山くん。

もう二度と会うことはないと思うけど」


「黒塚さんも元気でね。

色々教えてくれてありがとう」


それじゃあ――と手を振って、

図書室を後にする。


そうして、昇降口に向かっている間、

ふと、黒塚さんと屋上で戦ったことを思い出した。


あの時は本当に死を覚悟したっていうのに、

まさかここまで気軽に話せる日が来るとは。


そんな黒塚さんとも、もう会えなくなるのだと、

今さらになってようやく実感が湧いてきた。


何だか、ちょっと寂しかった。







「休校かぁ……」


今し方、回ってきたメールを見て、

那美は口元をへの字に曲げた。


休校自体はどちらかと言われれば嬉しいものの、

それならせめて、もっと早く言って欲しい。


もっと前なら長く眠れたし、

今はもう、学園が目と鼻の先ではないか――


そう思い、校門の前へ目を向けたところで、

那美はそこにある人垣に気付いた。


「なに、あれ……?」


彼らは警察官とマスコミだったのだが、

那美はそれと認識できなかった。


理由は簡単。

今朝のニュースを見ていなかったためだ。


ただそれでも、

彼らが学生を待ち構えている空気は察した。


彼らに見つからないように、

そっとその場を離れる/来た道を引き返す。





そうして、もう大丈夫だろうというところで、

改めて休校のメールへと目を落とした。


『今日は休校です。

今後のことはまたメールで連絡します』


恐らく、文面は担任が作ったのだろうが、

休校の理由は書かれていなかった。


何か、あったんだろうか。


他の生徒は知ってるんだろうか。


そんなことを考えていると、

ちょうど、那美の視界に朱雀学園の制服が映った。


希望通りの、他の生徒の姿――


ただし、見間違えがなければ、

それは那美が最も会いたくないクラスメイトだった。


「笹山くん……」


制服を着て歩いているということは、彼もまた、

休校とは知らずに学園までやってきたのだろうか。


何事か悩んでいる様子で、

公園の中へと入って行く。


――どうしよう。


見ない振りをしたかったが、

彼との今の関係に不満があるのも事実だった。


温子にも突かれた通り、

一年半前の件をハッキリさせたい。


他にも、謝ったり感謝を伝えたりと、

話したいことが沢山ある。


那美が襟元をぎゅっと握り締める。


その手の辺りは、一年半前、

“誰か”にキツく締められた場所だった。


今でも男の前に立っていると、

時々首の辺りが苦しくなってくる。


今でも、怖い。


それでも――


勇気を出して、

那美は公園へと足を進めた。


自身の体を思えば、

どうせ、いつ死んでもおかしくはないのだ。


それに、以前と違って、

今の那美は一人ではなかった。


客観的に見てくれる友人が、

晶はそう危険ではないと判断してくれている。


それを[縁'よすが]にして、

那美が顔を上げて前を見る。


制服の中の携帯がメールの着信を告げたものの、

そちらは聞こえない振りをした。


覚悟が萎えないうちに、

着信音でこちらに気付いた彼の元へと向かった。








――携帯の音に目を向けると、

そこには、どうしてか佐倉さんが立っていた。


しかも、様子を見るに、

ばったり会ったとかじゃない。


明らかに、

僕に会いに来ていた。


「えっと……おはよう」


「……おはよう」


多少の警戒は感じるものの、

挨拶も普通に返ってきた。


っていうか……幻とかじゃないよな?


念のため目を擦っていると、

佐倉さんはゆっくりと深呼吸した。


「あの……笹山くんに

聞きたいことがあるんだけど」


「一週間前のあの日、

本当に笹山くんが助けに来てくれたの?」


「それは……本当だけれど」


「本当に?

何か他の目的があったようなことはないの?」


あーっと……これはあれか。

佐倉さんに中庭で聞いたやつか。


僕が“誰か”と入れ替わってるとしたら、

下心もなしに助けるわけがないと。


「正直に言うとね、

元々は佐倉さんを探してたわけじゃないんだ」


そう。


最初は、爽から温子さんがいなくなったって連絡が来て、

みんなで温子さんを探してたんだ。


その途中で、琴子から、

佐倉さんが帰ってないって連絡が来て――


二人の失踪の関係性を考えつつ、

同時に探してたっていうのが本当のところだった。


でも、結果的には二人とも無事に帰って来られたし、

判断としては間違ってなかったんだろう。


「じゃあ……

本当に、私のことを助けてくれたんだ」


「結果的にっていう形だけれどね」


嘘はつかないほうがいいと判断しての正直な告白は、

佐倉さんにとって納得できるものだったらしい。


「……ありがとう」


少し、何かを考える風に黙った後に、

ほんのり笑顔を見せてくれた。


その素直な感謝の表現に、

何というか、ぐっと来た。


黒塚さんの話を聞いて、

ABYSSの件はもう忘れようと決めた帰り道。


棚上げしてきた佐倉さんとの関係改善に、

本腰を入れなきゃと思っていた矢先のことだった。


どうしようかと悩んでいた真っ最中に、まさか、

佐倉さんのほうから歩み寄ってきてくれるだなんて。


あんまりに都合が良すぎて、

夢か何かじゃないかと疑ってしまう。


こんなにいいことが起きるとか、

僕は明日にでも死ぬんじゃないだろうか――



そんな予感が、

いきなり現実となって殴りつけてきた。


強烈な頭痛と吐き気が押し寄せてくる

/耳から脳髄を引きずり出したい感覚に襲われる。


平衡感覚が消え失せ、

自分が立っているのか座っているのかも分からない。


五感が情報を恐らく拾い上げているだろうに、

それを全く処理できない。


ただ、自分の喉が管みたいになって、

反吐だか呻きだかを出していることだけは分かった。


震える手で握り締めたものが、

公園の土なのだということは分かった。


そうして、とにかく自己を観察していないと、

寄る辺が消えてしまいそうだった。


必死に世界にしがみつきつつ――

前にも似たような感覚があったことを思い出す。


あれは確か、子供の頃に

父さんの“判定”の音を聞いた時だった。


ということは、まさかこれも?


いやでも、僕は“判定”のスイッチなんか

入れた覚えはない。


じゃあ、どうして――?


疑問のうちに、ようやく吐き気と頭痛に慣れて来る

/肉体が情報を処理し始める。


最初に感じたのは、佐倉さんの切羽詰まった声と、

背中をさすってくれる手。


そして――その次に『御堂晶だな』と、

昔の名前が頭の上から降ってきた。


顔を上げなくても、

一瞬で全てが分かった。


影を見ているだけで、

この生物と自分の違いを認識した。


「那美ちゃん!」


困惑と叫ぶ傍らの幼馴染みの体を抱えて、

全力でその場から跳躍する。


脱兎の如く、後先とかは全く考えずに、

ただひたすら公園の出口を目指して走る。


が――


五歩も走らないうちに飛んできた衝撃に、

思い切り吹っ飛ばされた。


「下らんことをするな」


地面を転がった先の生け垣の中で、

再び聞こえて来る声。


その暗澹とした響きと、今の一瞬の攻撃で、

もうこいつからは逃げられないことを悟った。


いや……

たった一つだけ、方法があった。


那美ちゃんを囮にさえすれば、

僕だけなら逃げられる可能性はあるかもしれない。


ABYSSに初めて遭った、

あの夜と同じように。


「早く立て」


男の声が降ってくる。


混乱しているのか、腕の中の那美ちゃんが、

不安げな瞳で僕の胸元を掴んでくる。


僕の中の何かが、頭の片隅で、

『その手を払って早く逃げろ』と囁いてくる。


戦えば死ぬ。


一人はどうやっても助からないと、

僕の暗殺者の部分が断じている。


だから、僕は――


制服のシャツを掴む小さな手を、

そっと握った。


「晶ちゃん……?」


「那美ちゃん、逃げて」


「えっ?」


「お願い」


真っ直ぐに那美ちゃんを見つめる。


この人を見捨てて逃げることなんて

僕には絶対にできない。


例え、今の関係が昔のように良いものじゃなくても、

那美ちゃんは僕にとっての大切な人だ。


死んでも守る。


「この公園を出たら、真っ直ぐ家に戻って。

落ち着いたら、黒塚さんに相談して」


「でも、晶ちゃんは……?」


「僕は一人なら自力で逃げられるから」


そう、にっこりと笑ってみせて――

立ち上がった。


それから、那美ちゃんに背を向けて、

鉱物めいた男と真正面から向かい合う。


喉が鳴る。


けれど、

震えそうになる体は懸命に堪えた。


この人は、自分がどうなろうと、

僕が危ないと思えば戻ってきてしまう。


少なくとも、那美ちゃんが公園を出るまでは、

僕は強い笹山晶でなきゃいけない。


「晶ちゃん……」


背中から聞こえてきた声に、

手を上げて返す。


それを信じてくれたのか、

那美ちゃんが駆けていく足音が聞こえた。


……これで、

とりあえず最低限のことはできた。


後は、この男を

いかにしてこの場に引き留めるか――


「もう一度聞く。御堂晶だな?」


「……そうだ。

お前は、ABYSSか?」


「黙って聞かれたことにだけ答えろ」


怒りを秘めた眼光と圧迫感に、

空気が軋みを上げるような錯覚を覚える。


……いずれ逃げなきゃいけないにしろ、

今は余計なことはできない。


こいつの機嫌を損ねたら……殺される。


「お前に聞きたいことは一つ。

御堂の襲撃の件だ」


御堂の襲撃……?


「襲撃した暗殺チームを

皆殺しにした人間が誰か知っているか?」


「……知らない」


何故そんなものに興味があるのかは分からないけれど、

ひとまず正直に答える。


と――男はしばらく無言で人の顔を眺めてきた後、

小さく舌打ちをした。


「では、分からない理由を答えろ」


「……僕が気を失っていたからだ。

気付いたらベッドの上だった」


「暗殺チームを皆殺しにできる

可能性があった人間に心当たりは?」


「それは……

御堂刀と、御堂数多、だと思う」


「だが、その二人は御堂の屋敷にはいなかった。

暗殺チームを迎撃できるはずがない」


……は?


何でこいつがそれを知ってるんだ?


「もう一度よく思い出せ。

暗殺チームを誰が皆殺しにしたのか」


「御堂でなくてもいい。考えろ。

最低でもオシラを殺せるような腕だ」


鉱物めいた男が、

暗い瞳で見据えてくる。


その目の奥には、

感情も、思考も、何も見えない。


虫の目を見ても何も分からないように、

こいつの目からも何も読み取れない。


ただ……この男が、

御堂の襲撃に関係していることだけは分かった。


つまり、この男こそが、

御堂にとっての仇なんだ――と。


……けれど、復讐をしようなんてことは、

まるで思わなかった。


僕の家族を消し去ったこの男に、

憎い気持ちがないわけじゃない。


それでも、この“判定”を聞いてしまったら、

復讐なんて夢物語としか思えない。


父さん以外では初めて見た、

二人目の“殺せない”相手。


こいつに対して今の僕ができることは、

せめて何事もないように祈ることだけだ。


そして、その祈りを成就させるためには、

質問に対して偽りない回答をしなきゃいけない。


「同じ答えになるけれど……

僕は何も知らない。嘘じゃない」


頼むから信じてくれ――と、

視線に込めて男を見つめる。


それが通じたのか、男は眉間に深々と皺を刻み、

つまらなそうに目を細めた。


「ラピスのやつ……

やはり報告書の内容は嘘だったか」


「“逃れ得ぬ運命”の情報に期待して来てみれば、

とんだ無駄足だったな」


「逃れ得ぬ運命って……」


反射的に口にして――


それがまずいことをすぐに思い出して、

慌てて口を噤んだ。


けれど、男は僕の発言を咎めることもなく、

『そうだ』と重々しく首肯した。


それから、信じられないことに、

薄く笑みを浮かべた。


「暗殺チームを退けたのが、

その“逃れ得ぬ運命”だという話だった」


「もしも御堂の生き残りというのがそれであるなら、

何を置いても先に殺すつもりだったんだがな」


わざわざ殺すために、

あの伝説の暗殺者を探してたっていうのか?


いやでも、この男なら、

きっとそれもできるのかもしれない。


それくらい、こいつは格が違う。

裏の人間としてじゃなくて、生物としての格が。


こいつは一体、

何者なんだ?


そんな思考の最中――


ぞわりという怖気に慌てて男の顔を見ると、

そこにはじっと僕を観察してくる無機質な瞳があった。


そして、その下にある唇の端が、

じわりと持ち上がる。


瞬間――もう無理だと悟った。


機嫌を損ねるとか動けば死ぬとか

そういうのは一切放り出して、とにかく跳んだ。


一瞬遅れて、僕の立っていた場所を

男の怪腕が薙ぎ払う。


が、もちろん、

この男がそれだけで終わるはずがない。


次なる攻撃を予測して――というより、

少しでも狙いを散らすために動き回る。


本当は一直線に

公園の出口を目指したい。


ただ、そんなバレバレの動きを取れば、

すぐさま捕まる。


許されるのであれば

叫んで助けを呼びたい。


けれど、もしもこいつがABYSSなら、

その秘匿性を脅かす行動は周りにも不幸を撒き散らす。


とにかく、どんなに確率が低かろうと、

何でもいいから自力で逃げ出すしかない。


木霊する“判定”。


鉱石のような膨れ上がった肉体が、

砂塵を巻き上げて始動する。


そうして、瞬く間に

胃を掴まれているような威圧感が迫り――射程内に。


常軌を逸した男の疾走に、

逃走は絶望的だと思い知らされる。


それでも、

奇跡的に攻撃の起こりは感知できた。


襲い来る危機感に合わせて、

防御の姿勢を取る。


吹っ飛ばされることを前提に、

敢えて足下を遊ばせて狙われた箇所の守りを固める。


これで、何とか――


そう思っていたのに、気が付いたら、

息も吸えないような状態になっていた。


ガードなんて、

まるで役に立たなかった。


衝撃をだいぶ逃がしたはずなのに、

それでも受け身が取れないほどに吹っ飛ばされた。


「……少し試してみたらこの程度か。

もしかしたらと期待した俺が馬鹿だったな」


眩む視界の向こうから、

呆れた風な嘆息が聞こえて来る。


続いて、誰かの足音。



「外れだ。

予想はしていたがな」


「予定通り、そいつは

次のゲームの生け贄として確保しておけ」


……こいつらは、

やっぱりABYSSだったのか。


でも、次のゲームっていうのは一体……?


「相当弱ってるようですが、

治療しておきますか?」


「必要ない。聞いた通りの出来損ないだ。

どうせ何をしても生き残れはしまい」


分かりました――という声の後に、

威圧感が遠ざかっていく。


と同時に、押さえつけられていたものが緩んだのか、

急に体から力が抜けた。


やばい。


今がチャンスだっていうのに、

ここで寝てどうする。


早く立ち上がって……

逃げ出さないと。


逃げ出さないと、

いけないのに――

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