後日譚 -prologue-2






その日の夜は、無欠の月が爛々とした瞳で、

地表を見下ろしていた。


その中空の巨人をぼんやりと眺めながら、

鬼塚が歩を進める。


夜は好きだった。


人がおらず、静かであり、

周りに気兼ねなく歩くことができる。


何より夜は、

鬼塚が確実に自分に戻れる時間だった。


理由は分からない。


単に刺激が少ないからかもしれないし、

“フォール”の仕様かもしれない。


あるいは、友達との思い出の大半が、

夜に作ったものだったからかもしれない。


「あいつら、

今は何やってんのかなぁ……」


ケンカ別れしてから、約二年。


連絡もすっかり途絶えてしまったため、

その動向も鬼塚は全く知らなかった。


恐らく、

今後も知ることはないだろう。


それでいいと思った。


自分という人間からからどんどんと、

色んなものが零れていく中――


かつての友人たちの顔を、

今でもハッキリと思い出せるだけで十分だった。


「よォ――遅かったじゃんか」


そんな友人たちの顔を、

嫌と言うほど聞いてきた女の声が塗り潰した。


鬼塚が音源へと――

校門の前へと目を向ける。


そこに、月明かりに浮かされるようにして、

高槻良子が立っていた。


人の心に土足で踏み入るような気安さをもって、

挨拶がてら、片手を持ち上げる。


薄ら笑いを浮かべ、

悠々と鬼塚の前へ歩み寄る。


「……珍しいスね。

先に来てるだなんて」


「アタシだってたまには時間くらい守るんだよ。

っつーか、聖はまだ来てねーの?」


キョロキョロと周囲を見回しながら、

遅れるとは何事だと鼻息を噴き出す女。


その様子に、

鬼塚は違和感を覚えた。


高槻良子がABYSSとして行動する際は、

通常、必ず敬語を使っていたはずだ。


それを鬼塚は、会社員がオンとオフを

使い分けるようなものだと解釈していたのだが――


何故、今日に限っては、

こうも砕けた口調なのか。


今回の招集は、

ABYSSに関わることではないのだろうか。


しかし、それ以外の理由で呼ばれる理由など、

鬼塚には皆目検討が付かない。


プライベートでこの化け物に関わるなど、

想像もできないとすら言っていい。


ならば、何故――


「お待たせしたようですね」


そう思っていたところで、

この場に集う予定だったもう一人――森本聖が現れた。


「おいおい、何だこのヤロー重役出勤か?

随分といいご身分だな」


「……時間前に来てる以上、

そう怒られる理由はないはずですが」


そう答えつつ、聖もまた、

早々に高槻良子の口調に気付いた。


そして、その真意を測るべく、

高槻良子の笑顔を眇める。


「それで、用件は何でしょうか?」


「ああ、別に大したことじゃねーんだけどさ。

この間の件で、ちょーっとね」


この間の件――

片山が個人的に開いた儀式の件に違いなかった。


となれば、話の内容は予想通り、

処罰あるいは欠員補充についての相談だろう。


何が出てきても不思議じゃないと思っていただけに、

常識的な高槻の言動は鬼塚をホッとさせた。


「――つーわけで聖、お前死刑な」


そこに、最も予想外で衝撃的な一言が、

耳朶へと滑り込んできた。


「……よく聞こえなかったんで、

もう一度言ってもらえますか?」


驚きに目を見開く鬼塚の隣で、

聖が高槻を睨み付ける。


「しょーがねーなー、ちゃんと聞いとけよ。

お前、死刑!」


今度はご丁寧に聖を指差して、

明るくはきはきと死刑宣告をする高槻。


聞き間違いではなかった。


それだけに、

信じられなかった。


少なくとも、この間の件に関して、

死ぬほどの責任を要求される謂れはない。


聖も鬼塚も、部員の暴走を止めたし、

事後処理もつつがなく完了した。


ABYSS側の敗北に関しても、

当の高槻良子だって経験しているはずだ。


なのに、何故――


そんな鬼塚の思考をなぞるように、

聖が高槻へ『何故ですか』と疑問を投げつけた。


敵意を隠そうともしない冷たい声音に、

高槻が獰猛な笑みを作る。


「いやー、何故って言われてもねぇ。

聖の悪事を考えたら、そりゃ当然だろ?」


「悪事……?」


「ABYSSの部長なんだから、

薬の管理はちゃんとしねーとダメじゃん?」


「……片山がフォールを横流ししていた件であれば、

私は関与していません」


「そもそも、横流しできるほど薬を渡してません。

これは記録にも残っている確かなことです」


「ですので、その件に関しては、

まず片山に薬を渡していた人間を特定すべきでしょう」


「特に、片山と過去に個人的な付き合いがあり、

ABYSSの薬を自由にできる立場の人――とか」


聖が目を細めて高槻を見据える。


それに、高槻は薄ら笑いを浮かべた。


「どっちにしろ、部下の管理がなってないことには

変わりないと思うんだけどねぇ」


「あともう一つだけどさ、

ABYSSって仲間同士での殺し合い禁止だよな」


「なのにお前、片山のこと殺しちゃってんじゃん?

しかも、撮影までして証拠バッチリじゃん?」


「そこまで裏が取れちゃってたらさー、

幾らアタシでも庇いようがないんだよなー」


「……何バカな話をしてるんですか。

片山の処分の件は、あなたの指示でしょう?」


「映像に残したのも、

処分の正当性を証明するためと言いましたよね?」


「はてさて、覚えてないねぇ。

っていうかさー、やめろよなーアタシのせいにすんの」


「はぁ!?」


「証拠はぜーんぶ残ってんだから、

お前は大人しくブッ殺されてりゃいいんだよ」


『な?』と頬を歪める高槻を見て、

鬼塚はようやく理解した。


今回の呼び出しは、

始めから聖を陥れるものだったのだ。


高槻が片山に薬を横流ししていたことは、

決定的な証拠がないだけで、既に分かっている。


その片山が大失態をやらかしたおかげで、

恐らく高槻に火の粉が飛ぶ可能性が出て来たのだろう。


ならばと、聖に全ての責任を押しつけて始末し、

事態の沈静化を図ってきたに違いない。


いや――あるいは、最初から聖を始末するために、

片山を使ってきたのだろうか。


いずれにしても、

確実に分かることがあった。


高槻良子は、森本聖を、

今日この場で本気で殺すつもりなのだ。


「つーわけで、

そろそろゲストに登場してもらおうぜ」


携帯を取り出して、

くつくつと笑う高槻。


と――敷地内に停車していたトラックの

荷台の扉が開いた。



そこからぬっと、

鈍色の手が出てくる。


「う……」


「なんだよ、こりゃ……」


聖と鬼塚が言葉に詰まる。


一目で見て、異常と分かった。


骨と筋肉だけで構成されているような、

ガリガリなのに肉感的という矛盾の同居した肉体。


高密度の筋肉が折り重なっている様は、

まるで鋼線で編み上げた竹細工のよう。


張り詰めた体には僅かな遊びもないのか、

歩く度に/動く度に軋みを上げる。


一方で、弛緩しきった顔は不気味なまでに生気がなく、

死体がそのまま動いているようにも思えた。


果たして、

これは本当に人間なのだろうか?


「おいおい、なーに景気悪いツラしてんだよ。

お前のところの部員だろ?」


「私の……部員?」


「丸沢だよ、まーるーさーわっ。

お前が両足へし折ったアイツな」


「いや、嘘でしょう……?

どうして丸沢が、こんな……」


「いやー、実は丸沢がさー、

どーしても片山の仇を討ちたいっていうからさー」


「でも聖ってつえーじゃん?

そのまま丸沢行かせたって返り討ちにされるじゃん?」


「それじゃあんまりにも可哀想だから、

魔法のお薬をプレゼントしてやったわけよ」


傍らに立つ丸沢の肩を馴れ馴れしく叩きつつ、

高槻が[下種'げす]な笑みを浮かべる。


「いい感じだろ? シビれんだろ?

これがあの丸沢なんだぜ?」


「超進化っていうか超人化っていうか、

『こうはなりたくはない』の代表例って感じだ」


「まさか……

元に、戻れないんですか?」


「おいおい、片山の件からまだ一週間だぜ?

それでこんなんなってんのに、可逆的なわけねーだろ」


「ま“アビス”に適合性がなかった以上、

どう足掻いても二週間で死ぬんだけどな」


何てことを――と、

聖が拳を硬く握り締め、顔を紅潮させる。


常人であれば逃げ出すほどの嫌悪を滲ませながら、

高槻を睨みつける。


「おいおい、そんな怒んなって。

どうせ丸沢も、あのままじゃ始末されてたんだしさぁ」


「むしろ、二週間も寿命が延びただけ、

いいと思わないかねぇ?」


「人の命を弄んでおいて、

よくもまぁ、ぬけぬけと……!」


「言えるさ。だって、やったのは今川のオッサンだし、

やられたのもアタシじゃねーもん」


高槻が嘲るような笑みを浮かべ、

挙げた片手をひらひらと振る。


「つーかよ、丸沢の心配してる場合じゃねーだろ。

お前、自分の状況分かってんのか?」


三対一だぜ――と笑う高槻。


その顔は、鼠と正対する猫のようだったが――

一つ、大きな裏を見逃している証左でもあった。


すなわち、高槻良子は、

鬼塚と聖が繋がっていることを認知していない。


鬼塚のことを

忠実な犬だと思い込んでいる。


最悪に近い状況ではあったが、

聖にとってそれは大きなアドバンテージだった。


そのことに聖が安堵しつつ、

改めて状況を確認する。


数的には二対二――

ただし、高槻良子に一対一で勝つのは難しい。


そして、丸沢。


この凄まじい変化は、恐らく、

噂に聞いたアビスと呼ばれる薬によるものだろう。


見た目はもちろん、身体能力も変化が凄まじく、

素の状態では勝ち目がないのは確実だ。


だが――隙を見てダイアログを服用してしまえば、

逃げるだけなら可能性があった。


最悪、鬼塚だけでも

逃がすことは可能だろう。


そう思い、

目配せしようと横を向いた瞬間、


「――え?」


聖は鬼塚に胸ぐらを掴みあげられ、

内ポケットからダイアログを抜き取られた。


「悪いが、使われたらどうしようもなくなるんでな。

パクらせてもらったぜ」


「おー、手際がいいじゃん鬼塚。

やるときゃやるねぇ」


高槻から拍手が上がる。


「鬼塚くん……どうして?」


「お前とは長い付き合いだけどな……」


低い声で呟いて、

鬼塚が聖の右肩に拳を振り下ろす。


「ほら、もう一つ!」


二撃目は辛うじて防御したものの、

本気の一撃だったらしく、聖の左手に痺れが走った。


右手に至っては、

痛みで上手く持ち上げられなかった。


「あ……」


膝をついた聖の脳裏に、

絶望が過ぎる。


味方だと信じていた人間に殴られ、

反撃の目すらも潰されたことに、目の前が暗くなる。


裏切られた。


この土壇場になって、

繋いでいた手を叩かれた。


信じていたのに――あの悪夢の夜のように、

鬼塚のことを信じていたのに、突き放されてしまった。


聖の顔が苦痛に歪む。


鬼塚を見てられず、

自然と頭が垂れる。


どうして、自分は裏切られたんだろうか。


どうして、どうして――


そんな後悔で滲む視界の中に、

ふと手が現れた。


何事かと涙を擦ると、その手の中には、

奪われたはずのダイアログの箱があった。


「えっ?」


聖が顔を上げる。


そこには、ダイアログを一粒銜えた、

鬼塚の笑顔――


「俺は部長にしか従わないんだよ」


聖にダイアログを押し付けた後、

逃げろ、と鬼塚が背を向ける。


それから鬼塚は、ダイアログを噛み砕き、

懐から取り出したナイフを高槻良子へと向けた。


「おいおい、鬼塚……

狂ったのかよお前?」


「だから言っただろ。

俺は部長にしか従わないってなぁ!」


叫ぶ鬼塚。


それと同時に高槻へと殴りかかり、瞬く間に戦いの

火蓋が切って落とされる。


その背中を眺めながら、聖は、

ようやくにして鬼塚のしようとしていることを悟った。


それに抗える可能性はあるか

/それ以外を選択できるか、必死に模索する。


しかし、現在の状況を見ると、

思い付く案の悉くがざくざくと刻まれ捨てられた。


そして、聖は悟る。

悟ってしまう。


その可能性という泉には、

初めから水が無かったということに。


鬼塚の与えてくれた一滴以外、

何もなかったということに。


それでも、否定したくて。


自分がそんなことをする人間だなんて思いたくなくて、

聖は唇を噛んだ。


それでも、本心では、

聖も分かっていた。


目的のために、罪の無い生贄を殺してきたことも、

誰かを見捨ててきたこともある。


ただ、それが今回は、

鬼塚になったというだけの話だ。


鬼塚は、聖を痛めつけることで、

聖が囮になるという選択肢を殺した。


聖を逃がし、自らが残ることを選択した。


二人とも逃げられなかったかもしれない状況に、

一人が生き残れる可能性を残したのだ。


ダイアログさえ飲めば、

聖が逃げ切ることは難しくないだろう。


誰かがここで足止めをしてくれるのであれば、

尚更である。


だから――


「ごめんなさい……ッ!」


背中に鬼塚を残し、高槻と丸沢を尻目に、

森本聖はこの場から走り出した。


後悔が心に澱み、

罪悪感が聖の身体を強張らせる。


けれど、同じくらいの使命感が、

力強く地を穿つ。


それを見て、追走は不可能と悟ったのか、

高槻良子が舌打ちした。


そして、飛んできた鬼塚の左の拳を弾き飛ばし、

目の前の不敵な笑みを睨み付けた。


「ったく……やられたよ。

狂ってたのはフリかい?」


「当然だろ、自惚れんな。

てめぇが喜んで尻尾振ってもらえる人間かよ?」


「――来いよ、化け物。

しばらく俺と遊ぼうぜ」


鬼塚の挑発的な物言いで、

高槻のこめかみに青筋が浮かび上がる。


それでも何とか笑みは崩さず、

怒る代わりに拳を持ち上げた。


「結果は分かりきってるけど、まー昔のよしみだ。

久々にアタシが可愛がってやんよ」


「ああ、来やがれこの野郎!」


両者が共に突撃する。

一瞬でお互いが間合いに入る。


刹那、閃く鬼塚の左拳。


フォールに加え、ダイアログで

僅かながら加速されている最速のジャブ。


その速さを前に、

高槻が慌てて真後ろへと飛び退った。


「っ、結構速ぇじゃん……!」


女の驚愕と賛辞の言葉。


が、鬼塚はそれに眉一つ動かさず、

素早く距離を詰めて行く。


「おぉおおぉっ!!」


雄叫びと共に、再び打ち出される左拳

/そこから繰り出されるコンビネーション。


目も眩むような連打の雨が、

化け物を削り取るべく降り注ぐ。


「ッ……この……!」


だが、その拳の弾幕でさえ、

ただの一発も高槻の身体に届いていなかった。


避けられる。往なされる。


極限まで身体を使っているのに、

鬼塚の限界なのに、全てが全て防がれる。


鬼塚の全力が、

高槻良子に届かない――


「この……化け物野郎っ!」


「おいおい、

お姉さんを舐めてもらっちゃ困るんだぜ!」


ほらよ、という声と共に、

高槻が身体を滑らせる。


そのすぐ上を鬼塚の拳が通る。


舞い上がる髪の毛。


しかしそれらを刈り取ることもなく、

文字通り風を切って終わってしまった。


それでも諦めずに、

鬼塚が隠し持っていたナイフを間隙に突き出す。


そのフォローに対し、化け物は身体をくるりと回転させ、

鬼塚の腕を巻き取るように掴み取った。


さらに奥襟を取り、鬼塚の身体を腰に乗せ、

勢いそのままに左足でもって宙へと跳ね上げる。


「はい払い腰一本コース!」


ダン、と大きな音を立てて、

鬼塚が地面に叩き付けられた。


さらに――


「ほら、アタシの靴を舐めな!」


背中を打ち付け喘ぐ鬼塚へ、

高槻の靴が降り注ぐ。


「ほらほらほらほら、どうした鬼塚?

アタシと遊んでくれるんじゃないのかい!?」


「オラ鬼塚、思い出したか!?

痛いだろ、思い出したか? 苦しいだろ、思い出したか?」


「怖いだろ逃げたいだろ早く終わって欲しいだろ!?

お前がアタシに逆らうなんて、百万年早いんだよ!」


いつかの儀式の夜のように、逆らった鬼塚に対して、

高槻が何度も蹴りを見舞う。


声を張り上げ、唾を吐き捨てながら、

何度も何度も繰り返す。


「オラオラオラオラァ!

ザケてんじゃないよォ!!」


顔面大腿喉腰胸腹腕や脇、

一切を構わず痛めつける。


以前と違って、加減はしない。


以前と違って、壊してもいい。


以前と違って、殺してもいい。


以前と違って――


「ッ!?」


以前と違って――

足元から、白銀のナイフが飛び出してきた。


その銀色の閃きに、

高槻が後方へと大きく飛び退いた。


驚きに目を[瞠'みは]り、

呆けた風に口を開けた。


その視線の先で、

ゆらりと鬼塚が立ち上がる。


「おうコラ、

まだ行けんぞ……!」


女の見開く瞳の中に映る、

大きな立ち姿。


服は汚れ、顔は血に塗れ酷い有様でも、

眼光は些かも衰えていない、その威容。


以前は、心が折れていたのに。


今回は、それでもなお立ち上がり、

高槻良子を見据えている。


「オラ、来いよ高槻良子……!

俺は……まだ、行けんぞ!」


「……いやさあ、無理じゃね?」


しかし――そんな鬼塚の気迫に対し、

高槻はあくまで冷静だった。


予想外の出来事に驚きはしたものの、

それも一瞬だけ。


今は頬を上げ、肩を小さくしながら、

ボロボロの鬼塚を冷やかしていた。


「立ち上がってきたのは、正直ビビったよ。

立てなくしてやってたつもりだしねぇ」


「……予想が外れて残念だったなぁ、オイ」


「まあね。でもさ、立つ意味ねーっしょ。

どうせアタシには勝てないんだから」


「……意味はあんだろ」


ふらりとよろけつつも、

鬼塚が高槻を見据える。


「今の俺は、お前に負けてない」


「前は、確かにビビってた。

でも、今は違う」


「今は、お前に切りつけることだってできる。

お前との距離は縮まった」


「はっ、よゆーで避けたけどね。

つーか、距離が縮まろうが、お前ここで死ぬし」


くつくつと笑う化け物女。


しかし、それにつられるようにして笑う鬼塚を見て、

女の笑いがあっさりと止んだ。


「……何がおかしいんだ、あぁ?」


「いや……死ぬからどうした、ってな」


「死ぬのなんざ、もともと覚悟の上だったんだよ。

言いたいのはそういうことじゃねぇよ」


結局、鬼塚は、

高槻に勝つことはできなかったものの――


二年前のように、

何もできずに終わったわけではない。


高槻良子を怖がることなく、自分の全てを、

目的のために使うことができた実感があった。


今回はちゃんと、

聖を助けることができた。


「分っかんないねぇ」


ふらつきながらも不敵な笑みを浮かべる鬼塚に、

高槻が大仰に肩を竦める。


「聖をここで逃がして何の意味があるんだ?

結局、速攻で捕まえて終わりになんのに」


「……俺はそう思ってねぇんだよ」


ここで鬼塚が聖を逃がしたのは、

何も贖罪だけじゃない。


あの才能ある聖であれば、きっと、

自分の夢を叶えてくれると思ったのだ。


そう。鬼塚がABYSSを知った時に願った、

『ABYSSを何とかして止めたい』という夢を。


他にも、色々な感情があったが――


それこそ、この化け物には理解できないだろうなと思い、

鬼塚はただ笑うだけに留めた。


「はっ。お前とは付き合いなげーけど、

そんなにメルヘンチックなやつだったとはねぇ」


「まあ、これまで上手くアタシを騙せてたご褒美だ。

最後に何か一個だけお願いを聞いてやんよ」


「……本当か?」


「アタシに危害を加えるもんじゃなければな。

あと、お前や聖を見逃して系も、もちろん却下だ」


「ほら、なんなら、

ダイアログで火照った身体でもしずめてやろうか?」


「聖に渡して欲しいものがある」


「……おい、アタシの素敵な提案は

ガン無視かよ」


せっかく、

ブチ殺して沈めてやろうと思ってたのに――


そう嗜虐的な笑みを浮かべるも、

『渡して欲しいもの』に興味があるのか、高槻が先を促す。


そんな女の態度に対し、

鬼塚が右腕を前に差し出した。


その先に持つのは、

刃渡り二十センチほどの、銀色のナイフ。


「コイツを、

聖に渡してやってくんねーか?」


「……それは、アレか?

アタシを刺すようにってか?」


「何でもいいさ」


「……ふぅん。まあ、形見ってことにしといてやんよ。

聖に対しての嫌がらせにも使えるかもだしな」


ほらよ、と刃先を摘むようにして、

高槻がナイフを抜き取る。


それから、ナイフを適当に眺め、

やがてそれを左手に収めた。


「てっきり騙まし討ちかと思ってたんだけど、

意外と普通で拍子抜けしたよ」


「お前じゃないからな」


鬼塚がそう返すと、

高槻はフンと一つ鼻を鳴らした。


「そんじゃま、いよいよお別れといこうか。

――丸沢、やれよ」


「……意外だな。

お前が殺ってくると思ってたのによ」


「いやぁ、試運転のいい機会だろ?」


言って、高槻が丸沢の背を叩く。


と――ずっと無言で立っていた丸沢が、

風鳴りのような低い唸り声を上げた。


その様子を感心と共に眺めながら、

鬼塚が溜め息をつく。


もう、できることはやった。


聖は恐らく逃げ切ることができただろうし、

高槻づてとはいえ、ナイフを渡すこともできた。


他にやっておきたかったことは……強いて言えば、

笹山晶の妹に謝っておくことだろうか。


ただ、それも今となっては遅い。


後は、全力で暴れるだけだ。


タダで殺されるつもりは毛頭ない。


少しでも、

相手の戦力を削ってやる――


「……お前は負けるなよ、聖」


聖の走って行った方向へちらりと目を向けて、

鬼塚が独りごちる。


同時に、もぎ取った標識を振り上げながら、

咆哮と共に眼前へと迫る丸沢。


それに、鬼塚が拳を前へと構え、

真正面から挑みかかる。


そうして、

鬼塚の最後の戦いが始まり――


――骨の砕ける音がした。




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