片山の正体1

「はっ、はっ、は――!」


息が荒げる。鼓動が狂う。


目の前がチカチカ瞬き、

錆臭い味が喉元に絡み付く。


だが、少女は止まらない。


中庭で少年の手の甲を切り裂いてから、

逃げ出した足のまま、一心不乱に走り続ける。


追われるように、なく。


駆られるように、なく。


顎を上げ、体を左右に泳がせながらも、

少女は足を動かし続ける。


目的はない。


ゴールもない。


手段ですらない。


それでも、理由だけはあった。


「晶、ちゃん……!」


切れ切れの呼吸の合間に、

その名前を口にする。


かつて――いや、今でも、

少女の中でも大切な人の名前。


先ほど傷つけ流血させてしまった、

誰よりも仲のよかった幼馴染み。


「晶、ちゃん、わたし……!」


ごめんなさい――


今にも何かが溢れそうな声で、

佐倉那美は呟いた。


少女は、幼馴染みの少年が、

どうにかなったことは把握していた。


それが、別人なのか、二重人格なのか、

それとも何かに憑かれたのかは分からない。


ただ、何かがあるはずとは思っていた。


そうでなければ、

あの少年が人殺しなんて――


自分の首を絞めてくることなんて、

あるはずがない。


思い返すだけで、喉の辺りが冷たくなる。


二月の中盤/雪の日/放課後、

冷え切った手が熱を奪っていくあの感覚。


鏡を見ると、今でもたまに、

喉の周りに手形が付いているように思える時がある。


蛇のような目をした幼馴染みが、

じっと物陰からのぞいてくる錯覚を起こす。


それが、怖くて。


許せなかった。


あの少年のことをそんな風に思わせてくる“何か”が、

那美にはどうしても許せなかった。


だから、あの少年の顔をした偽物をどうにかしたくて。

でもどうにもできなくて――


そんな折りに、目の前に下りてきた蜘蛛の糸を、

少女は恐る恐る掴み取った。


提案――“何か”との話し合い。

対等なやり取りができるとは思わなかった。


しかし、『本当に偽物なのかを確かめよう』

というアドバイスで、少女は接触を決意した。


『人目につく場所なら最悪殺されることはない』

というアドバイスで、場所は中庭に。


『念のため護身用にナイフを持っていけばいい』

というアドバイスで、懐に果物ナイフを忍ばせた。


止まらない震えは『守るより攻めるべきだ』

というアドバイスと、もらった精神安定剤で克服した。


それらのお膳立てにより、

那美はどうにか“何か”の前に立った。


話し合いは順調。


実際のところは一方的に問い詰めただけだったが、

それでも少女は複数の情報を引き出すことができた。


“何か”の名。幼なじみの少年の生存。

そして、少年が入れ替わられていること。


大きな収穫だった。


街から出て行ってもらうだけのつもりだったのに、

一転して希望が生まれた。


どうにかすれば、

“何か”を追い出すことができるかもしれない。


少年を助けることができるかもしれない。


そう思っていたのに――


「なんでっ……」


いつの間にか、

ナイフを取り出していた。


突然、肩を掴まれて、動転したのは事実だ。


怖いほど真剣な顔で違うと叫んでくる少年に、

恐怖を覚えたことも間違いない。


それでも、ナイフを出すつもりなんて、

これっぽっちもなかったのに――


気がつけば、

苦痛に歪んだ少年の顔があった。


「何でわたし……あんなことっ……」


そんなつもりはなかったのに。


ただ、彼を助けたかっただけなのに。


例えそれが別人でも、彼と同じ顔に、

あんなに怯えた瞳を向けられるなんて――


「ごめん、なさい……!」


荒げる呼吸を飲み込みながら、

半ばしゃくり上げるようにして、謝罪の言葉を搾り出す。


夢から醒めたような気分だった。


困惑と、後悔とで、

とにかくどこかへ逃げたかった。


首を絞められた相手にも関わらず、

胸が罪悪感で押し潰されそうだった。


「ごめ……ん……!」


息が言葉にならなくなって、胸が痛んで、

逃走が歩みに変わる。


けれど、それもすぐに止まり――


膝に手をつくと、

どっと汗が噴き出した。


ぼんやりと床を眺めながら、どくんどくんと脈打つ頭で、

『どうしてこうなったんだろう』と考える。


この現状は、

那美の望むところではなかった。


あの悪魔に怯える日々を終わらせて――


以前のような関係は無理にしても、

せめて彼と普通のクラスメイトに戻りたかった。


……何が悪かったんだろうか?


ナイフを持っていこうと思ったこと?


そもそも話し合おうと思ったこと?


それとも、二日前に彼の顔を打ったこと?


幾つも考えが浮かんでくるものの、

答えは出ない。


答えが欲しい。


こんな時、片山くんがいればいいのに――

そう、那美は思った。


今回の計画も、

提案から何から彼が全てお膳立てしてくれた。


流れも、用意も、

落ち着ける薬をくれたのも彼だ。


何より、秘密を共有している同士なら、

いい案を出してくれるかもしれない。


こめかみに張り付く髪をかき上げながら、

細く息を吐き出す。


彼を探そう。


彼なら、どうにかしてくれる。


そう、彼ならきっと――


「んだとゴラァ!?」


瞬間、那美の体が思い切り跳ねた。


「ナメたこと抜かしてんじゃねぇぞオイ!」


誰もいないと思っていた廊下に、

さらに怒声が響く。


竦み上がる那美の身体――

辛うじて悲鳴を堪える/恐る恐る右へ首を回す。


廊下の突き当たりに見える二つの横顔。


暴力の象徴として名の知れた男と、

探そうと思っていた彼の姿だった。


「いちいちデカい声出すなって。

俺を威嚇する意味がどこにあるんだ?」


「……あぁ?」


一瞬、怒声が止んで――

我に返った那美が、一歩下がって身を隠す。


途中から歩いていたおかげか、

幸い、鬼塚らが気付いた気配はなかった。


「『バカでも分かる』って言葉にキレてんなら、

別にそんなつもりはなかった。悪かったよ」


「テメェ……!」


「だからキレんなって。

言うこと言ったらすぐ消えてやるよ」


だから聞けよと、

片山が両の掌を顔の高さに上げる。


親しいというよりは馴れ馴れしい片山と、

鎖の切れた獣のような鬼塚の間にある、危うい均衡。


その歪なシーソーの傍にいる気にもなれず、

那美がゆっくり後退る。


「アンタに雪辱を晴らす機会をくれてやる」


「何の話だ?」


「だから、アンタの嫌ってる笹山だよ。

今ごろ、俺の罠に引っかかってるはずだぜ」


聞き慣れた名前が、

出直そうと下がる少女の足を止めた。


目を見開く那美――廊下の角へ張り付き、

再び二人の様子を伺う。


「罠だぁ?」


「ああ。運が良ければナイフでブッ刺されるし、

最悪でも精神的に動揺してるはずだ」


那美の覗く視線の先で、

お気に入りの歌でも口ずさむように語る片山。


その様子は、彼女が昨日、

彼に感じた印象とはまるで違っていた。


初対面の印象こそ悪かったものの、昨日の彼は、

那美に対してあらゆる意味で紳士的だった。


なのに、今の目の前にいる彼は、

酷くいやらしい目をしていた。


声音もそれに合わせるように汚く、

言葉の端々から人を馬鹿にしたような臭みが感じ取れる。


そんな彼の変貌に、

那美は少なからず動揺していた。


少なくとも今の彼ならば、秘密を共有するどころか、

会話をしようとも思わない。


したところで、

不快を覚えて終わるのは目に見えている。


そしてそれは、

鬼塚にしても同じだったらしい。


「……どうせクソみてぇなことだろ」


吐き捨てるように言って、

鬼塚は片山の対面から体を外した。


「おいおーい。

人がせっかくお膳立てしてやったのにか?」


「要らねぇよバカ。邪魔だったらブッ殺す。

それだけ覚えとけ」


『誰だろうとな』と鬼塚が拳で壁を殴りつけて、

片山に背を向け――那美の視界から消えていった。


「……たかが不良の分際で」


残された片山が鼻を鳴らす/舌打ちする。


「ま、アイツもいずれ殺してやるか」


――えっ?


自分に向けられたわけでもないのに、

その空恐ろしい言葉に、那美は思わず身震いした。


印象が違うなどという気持ちは、

もう完全に消し飛んでいた。


彼の言う罠とは何なのか。


彼のアイツ“も”殺すという発言は、

他に殺している/殺そうとしている人間がいるのか。


よくよく考えていくと、

どんどん恐ろしい方向へ向かっていく。


自分がさっきナイフを取り出したことが、

途轍もなく恐ろしいことに感じられる。


少女はあくまで、

幼なじみを――笹山晶を救おうとしていた。


では、片山信二は?


片山信二は、笹山晶をどうしようと思って、

あの計画を持ち出したというのか。


確信に変わりかけた疑問を抱え、

那美がぐっと歯を噛み締める。


そして、彼に今すぐ詰め寄ろうとして――

足が止まった。


確かめたい気持ちはある。


騙されたと分かったら、

殴ってやりたい気持ちもある。


なのに、足が竦む。

手が震える。


踏み出そうと思っていた一歩さえ、

眩暈がするほど遠く感じられる。


「……そろそろか」


そんな彼女の葛藤を知らずに、

片山が歩き出す。


西日の中で遠ざかる背中と足音。


それに那美は安堵を覚えたが、同時に、

今を逃したら二度と彼とは話せないような予感もあった。


今を逃せば、

少なくとも自身は言い訳を作る。


何しろ、今の時点でも確証がないのだ。


リスクを犯してまで詰め寄るよりは、

過ぎたことだからと、なあなあにしてしまう可能性が高い。


迷った末に――


那美も、それを追うことにした。





……片山に声をかける機会を窺っているうちに、

化学準備室に辿り着いた。


何故持っているのか分からないが、

当然のように鍵を取り出して中に入る片山。


すっかり人気のなくなった学園で、

こんなところに何の用事があるというのか。


那美がそっと中を覗き込んでみるも、

廊下からではよく分からない。


では、片山の後に続いて準備室に入るかとなると、

それをするだけの勇気はなかった。


片山と話すには、安全の確保が絶対に必要――

先の会話を耳にした那美の直感だった。


そうこうしているうちに、

片山が準備室から姿を現す/携帯電話を取り出す。


「俺だ。予定通りで問題ない。

そっちはもう押さえてるな?」


「……よくやった。

絶対逃がすな。分かったな?」


空いた手で準備室の鍵を弄びながら、

長い髪に見え隠れする携帯で指示を出す片山。


押さえているというのは、

一体、何のことだろうか?


逃がすなということは、誰か人を捕まえる、

あるいは包囲しているのだろうか?


まさか自分自身なのではと那美は青くなったが、

首を振ってすぐにその考えは否定した。


もしも自分が罠として利用されていたのだとしたら、

既に用済み――押さえる意味がないのだ。


となれば、他に誰が……?


そう思っていたところで、

片山は電話を切り、どこかへと歩いていってしまった。


その場に一人残された那美が、

高鳴る胸に手を当てる。


目の前には、

ドアが開きっぱなしになっている化学準備室。


さっき、気になっていたその場所が、

今は片山という障害もないままで口を開けている――


「どうしよう……」


好奇心はあった。


彼が何をやっていたのか、

何をしようとしているのかを知りたかった。


そして、それが誰かを傷つけるようなものであれば、

警察に通報したいとも思っていた。


自身の手が、犯罪を未然に防ぐ可能性があると思うと、

使命感のようなものが那美の体を後押ししてくる。


そこへ入って確かめろと、

鼓動に乗せて囁いてくる。


「……見るだけ、なら」


誘惑のような使命感と好奇心に駆られ、

足早に化学準備室の敷居をまたぐ。


片山がいつ戻ってくるか分からない以上は、

あまり長居をするわけにはいかない。


目立つものが何もなければ、

すぐに出てしまえばいい。


そう考えてはいたが――そこを出るのは、

すぐにというわけにはいかなくなった。


「何なの、これ……?」


捲れ上がった床。


そして、剥き出しの床下にぽっかりと空いた

深い穴/奥へ続く階段。


それらが、準備室に入ってすぐに、

那美の視界へ飛び込んできた。


台所の床下などにある収納かとも思ったが、

それにしては床材の下にあるのが不可解だ。


奥へと続く階段を見るに、収納というよりは、

むしろ秘密の地下室というほうがしっくりくる。


しかし、何故こんなところに、

こんなものがあるのだろうか。


不思議に思って見て回っていたところで、

階段の奥にある微かな明かりに気付いた。


状況から察するに、

片山が中に入って電灯を点けた可能性が高い。


ドクドクと脈打つ胸を手で押さえ、

那美が中の様子を伺う。


……物音はしない。

誰もいないのだろうか。


念のため廊下も確認――誰かが来る気配はなし。


ゴクリと、一つ息を呑む。


それを緩く吐き出しながら、

佐倉那美はゆっくりと階段を下っていった。





地下は、壁も階段も

しっかりとした作りだった。


少なくとも素人拵えには見えないため、

学園の設計段階から存在していたのだろう。


ただ、隠し部屋こんなものを学園に作るにしても、

どんな用途に使うのかが分からない。


那美はもちろん初見だが、担当教員にしても、

果たしてこの存在に気付いているのだろうか。

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