迷い人







「……はー、そういうこと。

あれで小アルカナのカードが手に入ると」


初の宝箱を開けて、

部屋を後にした後――


聖も温子らと同様に、

ようやくこのゲームの進め方を認識し始めていた。


最初の宝箱の中身は、

温子らと同じくバッテリーと小アルカナ。


二人組を想定していたのか、

スマートフォンのバッテリーは二人分入っていた。


一方で、得られた小アルカナは、

聖杯――ハートの9の一枚だけ。


最初はそれを、仲間割れを狙っての措置だと思ったが、

すぐに違うのだと気付いた。


このゲームでは、

カードをデータとして扱っているのだ。


説明会の会場を聖一人で出た時点で、

この場で配信されるカードを一枚に減らしたのだろう。


「開始段階では

極力、差を付けないって考えなのかなぁ」


だとすれば、ABYSSのゲームとしては

随分と公平なゲームに思えてくる。



ただ、そうなってくると、

気になるものが出てくる。


それは、大アルカナの存在。


能力などを考慮して配布するとは説明会の話だったが、

果たしてどの程度その言葉を信じていいのか。


信じるとすれば、聖の与えられたこのカードは、

一体どういう評価によるものなのか。


「……弱いほうだってことなのかな?」


聖が、画面に表示されている

大アルカナのアプリへと目を落とす。


『顔を隠した怪物に襲われなくなる』――

それが聖に配られた“太陽”の大アルカナの効果だった。


その下にある説明文によれば、

効果は大アルカナを所持し続けている限り有効とのこと。


実際、聖がこの場所に至るまでは、

怪物には一切遭遇しなかった。


この大アルカナさえあれば、聖の脅威となるのは、

一部の怪物と悪意のある参加者だけだろう。


『ゲーム後半、この能力は変化する』とあるため、

頼れるのは序盤だけだが、強力なことには間違いない。


敢えて欠点を挙げるとすれば、

怪物を倒せるならばあまり意味がないことだろうか。


「……怪物を見てみないと分からないけど、

他の人と交換できるなら、それもありかな」


持っていて損はないが、この“太陽”を

聖よりも必要とする人間はいるはずだった。


特に、説明会で一緒だった羽犬塚と那美は、

怪物に襲われたらひとたまりもないはずだ。


あの二人にならば、最悪、

無償で“太陽”を渡してしまってもいい。


尋ね人が別にいるため、

積極的に二人を探すことはできないが――


そこまで考えたところで、

聖がぴたりと足を止めた。


ついで、手の中の大アルカナへと

再び目を落とす。


「……うん。“太陽”は効いてます、と」


ということは――と心を引き締めて、

跳躍して気配から距離を取る/素早く背後へと見返る。


そうして見据えた先には、

黒ずくめの男が立っていた。


漆黒のフルフェイスにライダーギア。

手に持つ日本刀。


その見覚えのある姿に、

聖が若干驚きつつも、臨戦態勢を整える。


「今川龍一……で、

中身は合ってますよね?」


『ああ』というくぐもった声と首肯。


何故、この男がここにいるのか、

聖には見当が付かなかった。


ABYSSのゲームに

勝利したわけでもない。


聖自身と違って、

特に呼ばれるだけの理由があるとも思えない。


まさか、特別な怪物として、

この場に無理矢理連れてこられたのだろうか?


「とりあえず、それ以上近づかないで下さい。

近づいて来たら敵と見なして攻撃します」


相手の正体と目的が分からない以上、

迂闊に間合いには入れられない。


一度は勝った相手とはいえ、

前回は飛び道具を使ったが故の勝利だ。


龍一がもしもあれをやってきたのなら、

投げナイフの一本もない今は負ける可能性もある。


そんな聖の警戒が、

ごとりという音を前に断ち切られた。


龍一の刀が、

地面へと落ちた音だった。


困惑する聖を前に、龍一がメットを脱ぎ、脇に抱えて、

崩れた髪の毛を撫でつける。


「……どういう意図ですか?」


「いや、敵意がないゆーことを

知ってもらお思ってな」


「じゃあ、どうして私の前に?」


龍一の喉元をぐるりと巡る首輪を確認しつつ、

聖が訝しげに目を細める。


奇襲するつもりなら無駄です――


そんな視線に篭もる気持ちを見透かしたように、

龍一は薄く笑いながら目を閉じ、


「……ここ、どこですか?」


かっこわるい言葉を口にした。





「っていうことは、

本当に道に迷ったんですか?」


「いやもー、仰る通りで。

面目ないです、はい」


経緯を話しながらぺこぺこと頭を下げる龍一に、

聖が呆れた風に息をつく。


「説明会の会場を出るまでは

上手くいっとったんやけどなぁ」


「そこまでで上手く行かないとしたら、

相当危ないと思いますよ……」


「んでも、こっちの会場には、

何や四人しかおらんかったで?」


「四人……ですか?

こっちは六人だったのに、そっちは少ないんですね」


「せや。だから、もしかすると、

説明会の会場まで行かれへんやつもおるんやないかな」


「……なるほど。

それはあるかもしれませんね」


「ちゅーわけやから、

俺が迷ったんも無理はないっちゅー話で」


「んー、まあ、

そういうことにしておきますか」


「何や、おもっくそ

奥歯にものの引っかかった言い方されますね……」


「それくらい信じられないってことです。

今川くんじゃなければ、嘘だと疑ってかかってました」


「……まあ、日頃の行いのおかげや思っとくよ。

何だかんだで、森本さんにも会えたわけやしな」


「私を探してたんですか?

どうして?」


「このゲームをクリアするのに、

あんたと協力しよ思ってやな」


「……ちょっと理解できませんね」


休戦協定を結んでいるとはいえ

/この場では同じ参加者とはいえ、二人は敵同士。


道に迷ったことを信じるのとは訳が違う。

血迷ったとしか思えない。


ABYSSとプレイヤーが仲良くクリアを目指すなど、

どこの誰が信じられるというのか。


「納得行く理由がなければ、

私は今川くんと協力する気はありません」


彼が悪い人間ではないと知ってはいるが、

必要があればお互いに殺し合う仲だ。


おいそれと、

その提案に乗るわけにはいかない。


「……ま、そう言うと思っとったわ。

逆の立場やったら、俺でも疑う思うもん」


龍一がぽりぽりと頬を掻く。


「ほんでも、鬼塚のやつに頼まれたんやから、

あんたに声かけんわけにはいかんやろ?」


「鬼塚くんにっ?」


よく知る名前が飛び出てきたことで、

聖が目を丸くする/どくりとその胸が跳ねる。


どうしてこの目の前の男が、

鬼塚に自分のことを頼まれたのだろうか――


「鬼塚が死んだってニュースの日やったかな?

何やあいつが神妙な顔して、俺んとこ来たんよ」


「んで、あんたの目的やら、

鬼塚の調べたABYSSの情報やらを話してった」


「どうして鬼塚くんが、そんなこと……」


「多分やけど、死ぬってのを分かってたんやないか?

正確にやないけど、万が一を考えてみたいな」


「んで、実際に鬼塚が死んでるっちゅうことは、

何かあったんやろ?」


『それは……』と聖が俯く。


高槻に呼び出され、鬼塚が犠牲になって、

聖を逃がしてくれた時のことを思い出す。


もし、鬼塚が死期を悟っていたなら、

聖の制裁を高槻から事前に知らされていたのだろう。


「まあ、それだけやったら、

別にあんたのこと手伝う必要もないんやけどな」


「別に鬼塚が死んだからって、

あいつの遺志を継ぐほど俺には義理ないし」


「じゃあ、どうして私のところに……?」


「……鬼塚が調べた情報の中に、

俺の妹の情報があったからな」


「あ、うちの妹な、ちょっと家庭の事情で

ABYSSに連れて行かれたんよ」


「んで、その妹を取り戻すために、

俺はプレイヤーになったんやけど……」


「前にちらっと話したの、

[鬼塚'あいつ]、覚えとったんやなぁ」


「自分の調べ物のついでに、

俺の妹の情報までちゃっかり調べとったんやと」


「んで、その情報を俺に寄越す代わりに、

あんたを手助けして欲しい言われたんよ」


「そんなことされたら、

俺も断るわけにはいかんやろ?」


情報を手に入れるためだけではない。

いや、そもそも、情報は先払いで受け取っている。


利だけを考えるのであれば、

龍一が聖の元へ来る必要などないだろう。


だから、龍一の今していることは、

純粋に鬼塚に対する礼だった。


自分のためにわざわざ調べてくれた鬼塚へ

何とか報いたい――


そんな龍一の気持ちが、

その大きな体を聖の元へと動かしていた。


「だから、協力の申し出っては[言'ゆ]ってるけど、

俺はあんたにNOを言われても協力するつもりや」


「そんでなきゃ、

鬼塚に申し訳が立たんからな」


「……そうですか」


「ちゅーわけで、改めて聞くで。

俺と協力してこのゲームクリアせんか?」


龍一が、熱意の滲む声音で問いかけてくる。


鬼塚と同じ高さから、

聖に真摯な目をじっと向けてくる。


それに、聖は下唇を僅かに噛んで――

少しだけ、俯いた。


そうしないと、

彼の顔を思い出してしまいそうだった。


「あーっと……森本さん?」


「……いえ、大丈夫です」


関西弁を聞いて、顔を上げる。


「その申し出、

ありがたく受けたいと思います」


「……そうか。

そんじゃ、よろしくお願いしますやな」


「はい、よろしくお願いします」


挨拶を交わすと、

ようやくお互いの顔に笑みが浮かんだ。


張り詰めていた空気が緩んだことを確認して、

龍一が足下に落とした刀を拾い上げる。


「いやー、でもよかったわ。

断られたらどうしよ思ってたし」


「私も最後まで話を聞いて正解でした。

何かあれば逃げ出すつもりでいましたから」


「そしたら俺の迷子がまた確定するし、

一生会えんで終わったかもしれんよ」


「っていうか、そもそもここで会えたこと自体、

俺にとっては奇跡みたいなもんやしな」


「……ここで私と会えたんですから、

妹さんにもきっと会えますよ」


「そうやといいんやけどな。

まあ、ちょっと難しいかもしれん」


「まずい状況なんですか?」


「鬼塚の情報やと、生きとるらしいってだけやな。

有用やって判断されたとかゆー話で」


「ほんでも、最後に会ったのは十年も前やし、

薬の実験台になっとるはずやから、どうなっとるか」


「そうですか……」


「まあ、死んどると思ってたくらいやし、

生きてるって分かっただけで十分やけどな」


「それだけで、

俺が妹を助けに行く理由にはなる」


兄弟のため――


そう言われてしまっては、

聖も龍一の目的を手伝わないわけにはいかない。


「それじゃあ、早く妹さんを助けられるように、

動いていきましょうか」


「せやな。あと、いつまでも同じところにおると、

怪物がやってきそうやし」


「ああ、それでしたら心配要りませんよ。

私の“太陽”の大アルカナは怪物避けですから」


聖がスマートフォンに“太陽”を表示させ、

龍一へと手渡す。


「……ホンマや。

何や、めっちゃ当たりのやつやん」


「まあ、私たち二人なら怪物は倒せるでしょうから、

そんなに必要ないと思いますけどね」


「ほんでも、体力使わんで済むんは助かるわ。

俺のなんてどう使えばいいか分からんし」


スマートフォンを聖に返すついでに、

龍一も自分のそれを手渡す。


その画面に目を落とし――

聖は、首を捻った。


龍一の大アルカナは“正義”。


その効果は『対象と自身のスマートフォンの情報を

完全に入れ替える』というものだった。


「これ……本当にどう使うんでしょうね?」


「せやろ?

手渡すのと何が違うのか分からんもん」


「一応、相手の意思に関わらず

交換できるっていう感じなのかなぁ」


「手渡しだと嫌がる相手には実力行使が必要だけど、

“正義”を使えば問答無用で奪える感じ」


「ほんでも、奪うっちゅーよりは交換やろ?

そんなんしたら、自分もピンチやんか」


「……それもそうですね」


スマートフォンの重要性は、

もう既に十分なほど理解できていた。


何しろ、スマートフォンがなければ、

小アルカナは入手できないのだ。


大アルカナも使えないし、

自分の首輪のカウントを確認することもできない。


小アルカナからカウントへの変換も、

一切できなくなる。


つまり、スマートフォンを手放すことは、

イコールで死と言っても過言ではなかった。


だからこそ、この“正義”の使い道が、

聖にも龍一にも分からなかった。


自身のスマートフォンを必ず手放すことになるのに、

一体何を目的に使えばいいのだろうか。


「……ま、まあ、大アルカナは持ってるだけで、

クリア報酬に影響するらしいですから」


「うわー……何やその

モテない男子を励ます的な言い方は……」


龍一の『えげつないわこの人……』という視線に、

聖が引きつった笑顔を浮かべる。


とはいえ、特に慰めも言い訳も思い浮かばず、

聖は咳払いで何とかごまかすことに決めた。


「何にしても、大アルカナに関しては、

極力作戦には組み込まない方向で動けばいいんです」


「というより、

最初から組み込まない予定でしたしね」


「何か作戦があるんか?」


「ええ。ただ、茨の道であることは

確かだと思います」


「そんな脅さんでもええよ。

プレイヤーになった時点で茨の道やしな」


『何でも来いや』と

マッスルポーズを決める龍一。


「……私が狙っているのは、

高槻良子を確実に仕留めることです」


「高槻良子? 誰やそれ?」


「朱雀学園の前ABYSS部長です。

ABYSSトップ五人のうちの一人でもあります」


「鬼塚くんは、彼女に殺されました」


「……鬼塚の仇討ちで狙うってことか?」


「いえ、それだけじゃありません。

私は彼女に色々な責任を押しつけられているんです」


「私がこのゲームに参加することになったのも、

彼女に着せられた濡れ衣のせいですから」


「なるほどな……そいつを倒さんと、

森本さんはいつまでもお尋ね者ちゅーことか」


「そうですね。高槻良子を仕留めない限り、

ABYSSに私の居場所はなくなります」


途端、龍一の顔が曇った。


「……前から思っとったんやけど、

森本さんは何でABYSSに入っとんのや?」


「目的のためです」


龍一が眉間に皺を寄せ、口を強く結び、

真意を測るように聖を見据える。


それは半ば、脅しのような色も含んでいたが、

聖がたじろぐようなことはなかった。


龍一のことを

脅威だと思わなかったからではない。


単純に、龍一に対して、

疚しい気持ちがなかったためだ。


それを感じ取ったのか、龍一は鼻から息を吹き、

『なるほどな』と強張らせていた顔を緩めた。


「事情は分かった。

ほんで、ホンマにおるんやろうな、そいつ?」


「ラピスに聞いた情報ですから、間違いないです。

確実にこのゲームに参加してます」


「ほんなら、そいつを探しましょーと。

んで、仕留める言うとったけど、殺すんか?」


「……ええ。殺します」


「念のため聞いとくけど、

ABYSS同士でそんなんしてもええんか?」


「はい。普段はABYSS同士の争いは厳禁ですが、

このゲーム中なら事故という処理になりますから」


「ですから、絶対に、

この機会を逃すわけにはいかないんです」


「分かった。

殺すところまで協力したるよ」


「……それですが、今川くんには、

探すところまで協力してもらえれば十分です」


「おいおい、何を水くさいこと言うとんのや。

別に俺だって人殺してんねんで?」


「今さら人殺しなんて躊躇せんし、

絶対殺さなアカンのやったら、確実に行くべきやろ」


「……理屈の上ではそうですね。

でも、どうしても高槻良子は私が殺したいんです」


「いや、私がって……」


「誰が何と言おうと、これだけは、

絶対に譲ることはできません」


龍一の言いかけた言葉が、

聖の拳が立てたギリギリという音に遮られる。


薄く開いていた瞳が見開かれ、

その隙間から暗い焔が零れ出す。


丁寧な言葉とはまるで正反対の、

息が詰まるような強烈な敵意。


それは、誰に向けたものでもないのにも関わらず、

龍一をすら一歩引かせるだけの迫力があった。


「……分かった。

そいつは森本さんに任せるわ」


「ありがとうございます。

……助けてもらう立場で、わがまま言ってごめんなさい」


「ええよ別に。

俺がやるって決めたんやから」


「それに、今さら『ほんならやめます』言うたら、

鬼塚にメッチャ怒られそうやん?」


「あいつ、途中で投げ出すとかゆーの、

いっちゃん嫌っとったからな」


「……そうですね」


「そういうわけやから、ええよ。

森本さんは自分のやりたいことやってや」


「本当に、いいんですか?

私の事情とわがままに付き合ってもらって……」


「いいも何も、そんなん当然やないか。

何も遠慮することなんてあらへんよ」


「何せ切り裂きジャックさんは、

困ったもんの味方やからな」


龍一が決め顔で、

変身ヒーロー的な決めポーズを作る。


『ちゅーわけで、改めてよろしく』と、

子供っぽく笑って聖に手を差し出す。


聖は、そんな龍一へと

目をしばたたかせて――


やがて、その手を握り返し、

『よろしくお願いします』と微笑んだ。








「何か、みんな凄そうだったねー」


「うん……凄そうだった」


会場を出てすぐの話題は、

やはり先の説明会のものだった。


地図アプリに記された光点を目指して歩く中、

二人がそれぞれの参加者の印象を語っていく。


「田西っておじさんは、

何かいい人そうだったねー」


「そうだね。大人って感じだし、

みんなと一番仲良くなろうとしてたし」


「最後に番号も交換してくれたしね」


「……そういえば羽犬塚さんって、

あの藤崎くんって男の子と知り合いなの?」


一緒に番号を交換した繋がりから、

那美が気になっていたことを訊ねる。


と、羽犬塚は自信なさげに俯いた。


「うーん……分かんない。

知り合いに似てるなって思ったんだけど……」


「確かに、向こうは知らなそうな感じだったね。

それに、ちょっと危なそうな感じ」


羽犬塚に気を遣って控えめには言ったものの、

那美の藤崎に対する印象は最悪に近い。


しかも、彼は恐らくABYSS。

可能な限り近づきたくない相手だった。


ただ、協力できそうな田西は、

その藤崎と共に出て行った。


もし、田西と連絡を取っていくなら、

嫌でも藤崎と顔を合わせていくことになるだろう。



「あと、藤崎くんと同じくらい、

須藤さんも仲良くしづらそうだったかな……」


「えー、そうかなぁ?

佐倉さんみたいだったと思うけど」


「え……私?」


「うん。一人がいいみたいだったし」


『ああ……』と那美が苦笑する。


那美も事情があって他人を遠ざけていたため、

羽犬塚のその評価は否定できなかった。


ただ、那美が孤立していたのは、

他人を巻き込まんとしていたためだ。


対して、あの須藤という女の子は、

自分一人でいいという印象の孤立に見えた。


「須藤さんと協力するのは

難しそうかな……」


「森本先輩なら助けてくれるんじゃないかなぁ。

副会長さんだったし、優しそうだし」


「あー……そうかもね」


確かに“副会長の森本聖”なら、

一緒に脱出を目指したい相手だ。


しかし彼女は“ABYSSの森本聖”。


この状況がABYSSによるものである以上、

おいそれと信じるわけにはいかない。


ただ、さっき話していた限りでは、

嫌な感じはしなかったのも事実だ。


もしかすると、あの夜助けてくれた鬼塚のように、

話の通じるABYSSという可能性はあった。


もし、手を組めるのであれば、

それに越したことはないだろう。


「ねぇ、佐倉さん。

これからどうするの?」


「そうだなぁ……とりあえず、

最初の小アルカナを取りに行けばいいと思うよ」


「そこから先は、温子さんを探しながら、

歩いて小アルカナを集める感じかな」


「あと、できれば誰か、

協力してくれる人も見つけられればなって思う」


那美に現時点で分かることは、

誰かと協力することがクリアへの近道だということだ。


温子はもちろんとして、それ以外でも、

協力できる相手を見つけるのは必要だった。


「ああでも、怪物に対抗できるように、

武器も確保しなきゃいけないのかな……」


「何もなしでばったり遭ったら終わりだし、

早めに対策を考えなきゃだね」


「佐倉さんは、

怪物の話って信じてるの?」


「信じてるけど……

羽犬塚さんは信じてないの?」


「うーん……よく分かんない。

説明を聞いても『そうなんだぁ』って感じで」


「あー、あんまり実感が湧かないのかぁ」


だが、それは無理もないことだと

那美は思っていた。


何しろ羽犬塚が体験している異常は、

『目覚めたら知らない場所にいた』だけだ。


ABYSSの恐怖を体感したわけでもなく、

日常の象徴たる知り合いの姿もある。


説明会での仮面が紳士的だったこともまた、

危険の認識しにくさに一役買っていた。


「信じられないのは分かるけど、

多分、全部本当のことだよ」


「何もしないでぼーっとしてると、

私たち本当に死んじゃうから」


「うん……」


「……やっぱり、

言葉だけだと難しいかな」


「ごめんなさい」


「あ、羽犬塚さんは何も悪くないよっ。

いきなり死ぬって言われても、みんな信じないもん」


そう、信じない。


信じるのは、心臓に病を抱える那美や、

温子のような思考実験を繰り返していた人間だけだろう。


「でもね、仕方ないの。

それが普通だと思うから」


「話だけ聞いて分かったつもりでも、

その状況にならないと分からないことってあるしね」


「教科書を読むのと、問題を解くので、

全然違うのと同じ?」


「うん。大体そんな感じ」


「駅のホームで立ってる時に、

誰かに背中を押されることなんて考えないでしょ?」


羽犬塚の思案/首肯――

子供みたいな素直さ。


『世の中はどこにも悪い人なんていません』と

平気で口にしそう。


その真っ白さに心が痛くなる

/守ってあげなくちゃという気持ちが湧いてくる。


「だから、今は分からなくてもいいから、

準備だけちゃんとしておこう」


「そうすれば、何か危ない目に遭った時でも、

きっと何とかできるから」


「うん……分かった。そうする」


童顔を決意に引き締めて、

小さな手をぎゅっと握り締める羽犬塚。


その可愛らしさと素直さに、

那美の顔は自然と綻んだ。


「じゃあ、大アルカナの教えっこしよ?」


「うん。いいよ」


説明会では忠告されたものの、

羽犬塚ならば問題ないだろう――


そう判断して、

那美と羽犬塚がスマートフォンを交換する。


「羽犬塚さんのは……“恋人たち”かぁ」


『遭遇したことのある参加者に使用可能。

使用した対象と所持者との運命を共にする』


『対象と所有者、どちらかが死亡した場合、

もう一人も死亡する。有効時間は六時間』


「これって、

相手を道連れにするってことだよね?」


「多分……そうなのかな?」


ということは、パッと思いつく用途は、

これを盾にした交渉だろうか。


それ以外では、相手に殺されないようにするために、

道連れ状態に持ち込む使い道がありそうだった。


「佐倉さんのほうの“隠者”って、

どういうのなんだろう?」


「それが、よく分からないんだよね。

説明が曖昧だし」


『深い知恵を持つ隠者が

使用者に知恵を授ける』


これだけの説明では、

何が何だかよく分からない。


「コストもゼロだし、

使ってみればいいんじゃない?」


「うーん……でも、

まだちょっとやめておこうかな」


差し迫っている状況でもないのに

得体の知れないものを使うのは、躊躇があった。


もし、使うのだとしても、

それは温子のいる時にしたい。


依存しすぎな自覚は那美にもあったが、

羽犬塚を連れてリスクは取れなかった。


もっとゲームをやっておけばよかったなぁと、

那美が若干の後悔。


それでも、今すぐどうにかできないことは、

嘆く意味がない。


今できる中で、最善だと思うことを、

迅速にやっていく必要がある。


「早く、温子さんと合流しようね」


「うん」


交換していたスマートフォンを戻して、

改めてマップを確認する。


説明会の会場を出てから、のんびり歩いて五分ほど。

指定された部屋はまだ遠い。


だが、もう他の参加者も動き出していて、

小アルカナの総数にも限りがある。


ペースを上げよう――そう提案するべく、

那美が羽犬塚に目をやる。


ぎしり、という音が聞こえてきたのは、

そんな折りだった。


羽犬塚がぎょっとした顔を作る

/那美の顔がさっと青ざめる。


お互いが口を固く閉じながらも、

視線により通じる意識――“今のは何の音?”。


聞き間違いかなという希望を否定するように、

T字路の向こうからもう一度――ぎしり。


まるで金網へ寄りかかって

何度も揺らしているような不気味な音。


だが、これまでの通路に

金網のようなものがあった記憶はない。


では、これは一体、

何の音なのだろうか?


那美と羽犬塚が固まったまま身を寄せる

/お互いの腕にしがみつく。


その間にも音はじわじわと近づいてきて、

空洞から風が吹くような音まで混じってきた。


そして――


「ひっ!?」


T字路の角から、

鈍色をした化け物が姿を現した。


骨に引っかけて鋼線を編み上げたような

竹細工じみた体。


動く度に軋みを上げる

破裂寸前といった印象の肉。


そして、半壊した仮面の隙間から覗く、

弛緩しきって表情の消え失せた顔。


それは、説明会で聞いた言葉の通り、

どこからどう見ても“怪物”だった。


ううううう、と声にならない声を上げて、

羽犬塚と那美が後退る。


がちがちと歯を鳴らし、

お互いの腕に指をめり込ませる。


逃げることは考えられなかった。


ただ、目の前の恐怖を前に体が強張り、

縋り付くものを探していた。


そんな二人に、怪物が虚ろに響く声を上げながら、

ゆらゆらと近寄っていく。


怪物の不気味さを余計に際立たせる、

糸繰り人形のような意思のない歩み。


ホラー映画さながらのその光景に、

羽犬塚が涙を零して那美の胸に顔を埋める。


『怖い、助けて』と繰り返しながら、

那美の腕の中でぶるぶると震える。


その弱さが、那美の恐怖で固まっていた体に、

ほんの少しだけ油を差した。


「逃げるよっ!!」


二人に怪物の影がかかる所で、

那美が羽犬塚を抱えて駆け出す。


小柄な羽犬塚とはいえ、女の那美には十分に重いが、

それが辛いとは感じなかった。


ただ、怪物から距離を取るのに必死だった。


しかし、怪物も止まってくれてはいない。


那美たちが遠ざかれば遠ざかるぶんだけ、

速く動けばそのぶんだけ速度を増す。


まるでそういう風にプログラムされているかのように、

じわじわと那美たちを追い詰めてくる。


そうして、数十メートルも走らないうちに、

那美の体力に限界がやってきた。


酸欠に苦しみ、早鐘のように胸が軋む中で、

どうやっても逃げられないことを悟る。


それでも何とか羽犬塚だけは逃がせないかと頭を絞り、

とにかく羽犬塚を立たせようとその名前を呼ぶ。


「羽犬塚さんっ?

ねぇ、羽犬塚さん!?」


が――幾ら呼びかけても、

羽犬塚は那美にしがみついて離れようとしない。


顔も体も完全に恐怖で強張り、

那美に抱き付く以外の機能を忘れていた。


羽犬塚は逃がせない。


例え強引に引き剥がしたところで、

動けずにしゃがみ込むだろうことは明らかだった。


それでも、何とか助けたくて、

那美が泣きじゃくる羽犬塚を硬く抱き締める。


決死の表情で震えながら怪物を睨み付け、

迫り来る運命に健気にも立ち向かう。


怪物の影がかかる/怪物の息がかかる。


そして、怪物の手が――


「……えっ?」


かかるはずだった怪物の手が、

どうしてか那美の上でぴたりと止まっていた。


何事かと見上げると、死に顔のようだった怪物の相貌が、

僅かに表情らしきものを作っていた。


そこに見えたのは、

那美の表情を写し取ったかのような――困惑。


どうして何もしてこないのか。

何故、困惑を浮かべているのか。


疑問が恐怖に勝り、

那美の震えが止まる。


怪物の真意を読み取ろうと、

落ち窪んだ眼窩の向こうにくすむ瞳を見つめる。


そうして、時が止まったかのように、

数秒ほど音が消え失せ――


那美の記憶の海に、微かに波紋が生まれたところで、

怪物はスッとその身を引いた。


「あ……」


怪物が那美へと背を向ける。


その身をぎしりと軋ませて、

意思のない歩みを再開する。


そうして、呆然と那美が見送る中、

怪物は再び迷宮の向こうへと姿を消していった。



何事もなかったかのような静けさが戻ったところで、

那美の体からどっと汗が噴き出してきた。


疑問で忘れていた恐怖が再び押し寄せてきて、

体ががくがくと震えだす。


何か頼るものが欲しくて、

胸の中の羽犬塚をぎゅっと抱き締める。


「助かった……の?」


勝手に零れ出す自問――

それくらい、信じられなかった。


もし、怪物が那美たちを見逃さなければ、

あの場で二人とも死んでいたのは疑いようもない。


明らかに終わっていた状況だった。


なのに何故、

こうして自分たちは生きているのか?


あの怪物の顔を思い出す。


弛緩していた相貌が僅かに形作った困惑。


そこに自分は、

何かの引っかかりを感じていたのではないか?


もしかするとそれが、

怪物が引いてくれた理由だったのではないのか?


そう思ったものの、既に揮発してしまったのか、

何に引っかかったのは思い出せなかった。


「……何だったんだろう?」


そんな言葉が、

迷宮の通路に冷たく響いた。





「羽犬塚さん、大丈夫……?」


「うぅ……」


那美の腕にしがみついた羽犬塚が、

真っ赤な目から涙を零しつつ頷く。


怪物が去ってから、およそ五分――


何とか歩けるようにはなったものの、

まだまだ落ち着いたとは言いがたい。


いずれ緊張感を知って欲しいとは思っていたが、

この状態がいつまでも続かれては困る。


とはいえ、慰めの言葉は既に尽くしており、

那美にはもう、何もしてやれることがなかった。


後はもう、怪物と遭遇する可能性を減らすしか、

羽犬塚を安心させる手段はない。


けれど、幾ら考えてみても、

那美にはその方法が思い浮かばなかった。


こういう時は温子に頼りたくなるが、

いつ合流できるかも分からない。


それに、彼女とて、

自分たち同様に苦しんでいる可能性だってある。


他に思いついたのは田西たちだが、

仮に連絡を取ったとしても、合流は難しいだろう。


結局、那美が今持っているものだけで

何とかするしかない。


「羽犬塚さん。はい、ティッシュ。

とりあえずお鼻を拭こう?」


「うん……」


『どうにか今できることを』という思いで、

まずは羽犬塚を普通の状態へ近付ける。


べしょべしょになっている顔を拭い、

気持ちを落ち着けるために水を飲ませる。


それから頭を撫で、

背中をさすり、体を寄せてあげる。


「……心配しないで。何とかするから」


そうして、ゆっくりと歩きながら、

ひたすら考えを巡らせる。


今あるもので、何とかする。


何とかできそうなものが、

今あるものの中にないか考える。


水、食料、スマートフォン、例の笛。


笛にできれば頼りたかったが、

それで何とかなる可能性はほぼないだろう。


逆に、怪物をおびき寄せるかもしれないため、

さすがにそれを使うことはできない。


他に何かないか――


「あっ……」


「……どうしたの?」


「これ、使ってみない?」


那美が目一杯考えた末に思い当たったもの――

“隠者”の大アルカナ。


羽犬塚の“恋人たち”とは異なり、

コストはゼロ。


小アルカナのない現状でも、

問題なく使用できる。


「知恵を与えてくれるっていうんだから、

怪物に遭わない方法も教えてくれるかも」


「……ホントに?」


「試してみる価値はあると思わない?」


那美が笑いかけると、

羽犬塚は『そうだといいな』という風に一杯に頷いた。


それではと、那美が“隠者”のアルカナを起動する

/使いますかの二択にYESと答える。


と――まるで企業サイトのFAQのように、

様々な項目がずらり那美の画面に現れた。



そういうものだと予測しておらず、

那美が目を丸くする/羽犬塚が『わぁ』と声を漏らす。


顔を見合わせる二人――

“これはもしかすると行けるんじゃない?”


その期待に任せて、

『怪物について』という項目を選択。


新たに開かれたページに、

『怪物の種類』『怪物の行動』などが展開される。


その項目をずっと追っていくと、一番下に、

二人が今、最も欲するものがあった。


『怪物の探知』


再度、顔を見合わせる二人――

顔を綻ばせながら、急いでその項目を選択。


と、アプリの画面の下部に、

『現在周囲に怪物はいません』というテキストが出た。


「やった! ほら、羽犬塚さんっ、

周りにさっきの怖いのはいないよっ!」


「ホントに? ホントに大丈夫なの?」


「だって、ここに書いてあるよ。

嘘じゃなければ、周りに怪物はいないんだよ」


那美が『やったね』と、

傍らで画面を覗き込む羽犬塚の肩を叩く。


それに羽犬塚は、しばし戸惑うように、

口を開いたり閉じたりして――


その後にもう一度、那美に抱き付いて、

よかったぁと声を上げて泣き出した。


その背をあやすようにさすりながら、

那美がスマートフォンの画面へ目を向ける。


これまで使用を躊躇してきた

“隠者”の大アルカナ。


それがまさか、

ここまで使えるものだったとは。


改めてその効果に那美が嘆息しつつ、

他の項目の内容に期待を寄せる。


もしかすると、この大アルカナさえあれば、

上手くゲームを乗り切れるのかもしれない――







「――あれー?

もしかして、またアレか?」


暢気に声を上げつつ首を回す男の視界には、

見たことのない景色が広がっていた。


見上げた先にあったのは、

最後に見た記憶のある夜空ではなく、打ちっ放しの天井。


鼻を鳴らすと、黴と埃のにおいが舌に触れ、

手をついた壁はひんやりと冷たかった。


どこぞの地下室のようだと思ったが、

一体、ここはどこなのか?


「えーと、落ち着け。

とりあえず今は何月何日の何時だ?」


いつも尻ポケットに突っ込んでいる携帯を取り出して、

まずはと時間をチェック。


「……いやいや。

何でいつも使ってる携帯と違うわけさ?」


機種変したのか、

はたまた誰かの落とし物を拾ったのか。


だが、男――深夜拝は、この程度では驚かない。


より正確に言うならば、

この程度で驚いていたら生活できないと言うべきか。


『うーんびっくり』と口だけで驚きつつ、

ホーム画面を表示。


が、そこにある時間は、

どうしてか刻一刻と減っていた。


「絶賛タイムスリップ中……ではないか。

何かのタイマーだな、これ」


124時間からどんどんと減っていく時間を見て、

これがゼロになったらどうなるんだろうと想像する。


が、すぐに

『これは分からないものだ』と理解を放棄。


現在時刻を特定するのは諦めて、

いつものように、最後の記憶を振り返り始める。


――男は、記憶障害を抱えていた。


いつからかそうなったのかは分からない。


ただ、十五歳より以前の記憶がなかった。


専門家が言うには、

“かなり特殊な記憶障害である”とのこと。


記憶の消失は頻繁に起こり、

気を抜くといつもどこか知らない場所にいた。


だが、深夜拝は慌てない。


記憶がなくなるたび、今そうしているように、

最後の記憶を呼び起こして現状を把握する。


「あーっと、コンビニに行ったんだっけ?

それから誰かに後をつけられたような……?」



よく思い出せないが、

恐らくは携帯もそこでなくしたのだろう。


新しい携帯も、

その過程で手に入れたに違いない。


そういえば他のものは――と、

服を漁り、周囲を見回す。


「あー、やられた……」


財布。そして、鞄がなくなっていた。


特に後者は、彼にとって大事なものが入っていただけに、

どこかへ行ってしまったのは非常に痛い。


辛うじて鉛筆だけはポケットに入っていたが、

それだけでは、せいぜい壁に落書きしかできないだろう。


「新しいのを買うとして……とりあえずお金か。

いや、その前にここから脱出か」


彼は『記憶と同じで無いものは無い』ということを

きちんと知っている。


さっさと思考を切り替え、

適当に方角を決めて迷宮へ――


「おっ」


踏み出そうと思ったところで、

前方から出て来た人影を見つけた。


これは日頃の行いがよかったからだろうと、

覚えていない間の自分に感謝する/通行人に近づく。


と――何故かその通行人が、

仮面を着けていることに気付いた。


明らかに異様な出で立ちだが、

それでも深夜は慌てない。


手の中の鉛筆を握り締め、身だしなみを整え、

失礼のないように『すみません』と声をかける。


「あの……つかぬ事を伺いますが、

ここって一体どこなんでしょうか――」



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