強者と弱者







背後から追ってくる足音を聞いた時に、

ぞくりとした。


爆発しそうなくらい荒ぶっていた心臓が、

止まってしまうかと思った。


「ひっ、うぐっ……」


泣き叫んでいた喉が勝手に声を引っ込める

/体が走ることへと機能を向ける。


そうしないと、すぐに死んでしまうことを、

生物としての本能が理解していた。


しかし、かき集めたなけなしの力で幾ら走っても、

足音が遠ざかることはない。


迷宮にやけに響く荒い息を伴って、

じわじわと追い詰めるように近づいてくる。


後ろは振り向けなかった。


あの人間とは思えない姿が迫ってくるところを見れば、

怖くて立ち竦んでしまいそうだった。


現に、あの死体じみた顔を思い浮かべるだけで、

肌が粟立ち震えが走る。


今さっき殺された男の断末魔を思い出すだけで、

上手く呼吸ができなくなる。


苦しくて、辛くて、でも逃げるしかなくて、

酷く惨めな気分になってくる。


どうして自分が

こんな目に遭っているんだろうか。


自分が何か悪いことをしたんだろうか。


こんな場所に連れて来られた意味も、狙われた理由も、

羽犬塚には全く理解できなかった。


そのあり得なさに、生まれて初めて、

こんな理不尽を許す世界のことを呪った。


しかし、羽犬塚の価値観に関係なく、

理不尽は怪物という形を持って彼女を追い詰めていく。


速度が落ちていく羽犬塚との距離を縮め、

少女を捕まえんと血塗れの腕を伸ばす。


「ひっ……!!」


少女の頭の後ろの辺りで、怪物の腕が軋みを上げる

/振り回した腕が風切り音を立てる。


「やだっ……たっ、たすけてっ!」


慌てて速度を上げる――が、すぐに減速。


既に少女の体力は限界を迎えており、

逃げることは敵わなかった。


「たすけて! 誰かたすけて!

だずげでぇえええっ!」


涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、

悲痛な叫びを繰り返す。


そんな少女の髪の毛を、

ついに怪物の腕が掠めた。


少女の顔が恐怖に凍る

/引きつった声が喉から漏れる。


その悲鳴を掻き消すように、

怪物は唸りを上げて、大きく腕を伸ばし――


思い切り、掴み取った。


少女に迫っていた怪物の腕を、

藤崎朋久が、間一髪のところで止めていた。


「悲鳴が聞こえて来てみりゃあ……

お友達と鬼ごっことは、随分と余裕だな?」


「あ……あ……」


地面に倒れ込んだ羽犬塚が、

涙に塗れた瞳をまん丸にして、ぱくぱくと口を動かす。


そんな少女の頭に、

ぽんと大きな手が乗せられる。


「やれやれ、間に合ってよかった。

これこそまさに危機一髪というやつだな」


見上げてくる羽犬塚に、

田西がにんまりと歯を見せて笑う。


「羽犬塚さんの悲鳴は、どうもよく響くらしいね。

聞こえる範囲に我々がいてよかったよ」


「……うん、ここまでよく頑張って逃げてきた。

でも、もう安心したまえ」


「私がファンになるほどの藤崎くんが、

すぐにあの怪物を仕留めてくれるから」


「うっ……ひぐっ……」


田西の声を聞いて、田西の手の平の熱を感じて、

羽犬塚の張り詰めていた糸が切れる。


心を一気に満たす安心感に、

再び声を上げてべしょべしょと顔を濡らす。


「さて、それじゃあ藤崎くん、

後は手早くやってくれ給え」


「言われなくてもやってるんだよ!」


既に交戦の始まっていた藤崎が、

田西の暢気な言葉に舌を鳴らす。


だが、外からの声にも集中力を欠かすことなく、

怪物の腕を鉄パイプで打ち払う/顔面をフルスイング。


よろめく怪物へと前蹴りをかまし、

倒れたところをさらに蹴り転がす。


血を噴き出しながら苦痛に呻く怪物――

這い回る/転げ回る/藤崎から逃げ回る。


と、動きが噛み合い僅かな隙間が生まれ、

藤崎の攻撃が怪物から外れた。


その一瞬に、

怪物がすかさず藤崎の足に絡みつく。


鈍色の腕を目一杯絞って、

標的の足を潰しにかかる。


「うざってぇんだよテメェはよォ!!」


そこに、藤崎が満身の力を込めて

鉄パイプを振り下ろした。


ぐしゃりと肉と骨の潰れる音が響く

/怪物の口から押し出されるような呻きが漏れる。


それでも構わず、何度も何度も何度も何度も

藤崎が鉄パイプを振り下ろす。


執拗なまでの滅多打ち。


相手が動いていようが動いていまいが一切関係なく、

藤崎の気の済むまでひたすらに殴り続ける。


そうして、鈍色だった怪物の体が

真っ赤に染まった後――


「……やっぱ鉄パイプはダメだな。

人間引っぱたいただけで、すーぐ曲がりやがる」


藤崎がはぁと溜め息をついて、

ぐしゃぐしゃに折れ曲がった鉄パイプを投げ出した。


鉄パイプがからからと音を立てた隣には、

軟体生物のように変形した怪物の頭部があった。


「いやー、お見事だよ藤崎くん。

楽勝だったじゃないか」


「そんな楽勝じゃねぇよ。

反撃させる余裕がなかっただけだ」


「理性がねぇっつっても、この腐れ耐久に身体能力は、

並みのABYSSじゃ圧殺されるのがオチだろうよ」


「パターンが少ねぇからハメ殺せたけど、

訓練された個体が出て来たら、ガチで殺し合いだ」


「なるほど、これは失礼した。

水準を超えると理解不能なのは芸術と同じだな」


「んな大層なもんじゃねぇ」


「つまり、息を吸うように神業を行っているわけだ。

全く、藤崎くんはいつも私に感動を与えてくれるな」


田西がわざとらしく肩を竦めてみせる。


それに藤崎は鬱陶しそうな目を向けて、

犬を追い払うように手を振った。


「あ、あの……」


「ん? ああ、これは失礼した。

つい話し込んでしまっていた」


照れくさそうに頭を掻いてみせる田西に、

羽犬塚がおずおずと頭を下げる。


「助けてくれて、ありがとうございました。

もう私、死んじゃうかと思って……」


「いやいや、そう[畏'かしこ]まることはない。

困った時はお互い様じゃあないか」


田西が気安い言葉を投げるも、

羽犬塚は蒼い顔で小さくなっていた。


その俯いた姿勢で、垂れた髪の毛の隙間から、

こっそりと血塗れの藤崎に目をやる。


「――怖いかな?」


そこに、田西の声が飛んできた。


不意に心の中を言い当てられて、

羽犬塚がびくりとする/慌てて顔を上げる。


目の前には、

田西の歯を剥いた笑顔があった。


「君のために頑張って怪物を殺してくれた

藤崎くんが怖いのかな?」


「えっ、と、あの……」


「いやいや、別に責めてるわけじゃない。

仕方のないことだからね」


「そう、仕方ない。花のような可憐な女の子が

修羅場を目の当たりにしたんだから、怖がるのは当然だ」


田西が膝を曲げて、

目線の高さを羽犬塚と同じにする。


肩に手を置き、羽犬塚の潤んだ瞳を、

がっちりと掴み取る。


「でもね羽犬塚さん、君の怖れるその暴力がなければ、

君は間違いなく殺されていた」


「藤崎くんの浴びた返り血は怪物のものだが、

紙一重で、君が怪物の手を赤く染めていたんだ」


「だから、あの藤崎くんの手についた血は、

君の血でもあるんだよ」


「は、はい……」


返ってきた頷きに満足げな笑顔を見せて、

田西が今度は羽犬塚の側面へと体を移す。


それを不思議に思いながら、

羽犬塚も横へ向こうとして――止まった。


「えっ……?」


田西が腕に力を込めて、

羽犬塚の体を固定していた。


とはいえ、せいぜいつっかえる程度。

そんなに大きな力ではない。


別に、無理矢理にでも振り向こうと思えば、

できたかもしれない。


それでも、

羽犬塚にはできなかった。


自分よりも遥かに年上の男の抑止に

逆らうことができなかった。


「ねえ、羽犬塚さん」


そうしている間に、

田西は羽犬塚のほぼ真後ろに移った。


ついで、肩をがっちりと掴んだまま、

耳元に顔を寄せて囁く。


「我々が助けに入ってよかったねぇ。

そうでなければ、君は殺されるところだった」


羽犬塚が首を回して/目を横に向けて、

田西の顔を見ようとする。


しかし、目の端に僅かに耳が見えるだけで、

田西の表情そのものを窺うことはできない。


「それとも、君はあの怪物を、

一人でも何とかすることができたのかな?」


羽犬塚が首を横に振る。


「そうだよねぇ。君は何もできなかった。

我々が君にできないことをしてあげたんだ」


肩に乗せられた手の重みと熱が、

じわりと染み込んでくる。


嫌な感じがした。


いや――実のところ、

さっきからずっと嫌だった。


触れられる手が異様に汚く感じられたし、

囁かれる声は耳からして臭いと断じていた。


けれども、田西の言葉には、

少女の聞く限り間違っているところはなかった。


強いて言えば、わざわざ触れてくる理由や、

顔の見えない後ろに回った理由が分からないだけ。


何より、あれほど怖くてどうしようもなかった怪物を、

この二人は通りがかっただけで退けてくれたのだ。


これが味方でなくて何だというのか。


「んん、どうしたのかな?」


なのに――


自分の後ろにぴったりと付き、

肩に重くて熱い手を乗せてくる田西も。


いつの間にか、

自分のすぐ前に立っている藤崎も。


どうして、こんなにも、

嫌な感じがするのだろうか。


どうして、怪物に怯えていた時のように、

じわじわとお腹の奥が痛む感じがするのだろうか。


「うぅ……」


羽犬塚が俯いたまま、

スカートの裾をぎゅっと握り締める。


早く佐倉さんのところに帰りたいなと、

田西の話が終わるのをじっと待つ。


それをどう思ったのか、

田西は嬉しそうにふふふと笑った。


「さて――それじゃあ羽犬塚さんに、

簡単な質問をしようか」


それから、羽犬塚の肩を握る手に、

僅かばかりの力を込める。


「君は、君にできないことをしてあげた我々に、

何かをお返しするべきだとは思わないかな?」






「なに、これ……」


那美が羽犬塚を追って迷宮を進んでいると、

赤黒い血に染まった怪物の死体に行き当たった。


さっきの怪物かどうかは分からないが、

肌の色や竹細工めいた筋肉の付き方は同じ。


ただ、頭のあったらしい辺りが、

ぐちゃぐちゃになって原型を留めていない。


まるで熟れ腐って地面に落ちた柿のようなその有様に

/漂う血の臭いに、那美が口元を押さえる。


一体、何をどうすれば、

あの怪物をこんな風にできるのだろうか。


そう思う一方で、倒れ伏す羽犬塚が見つからないことに

ホッと胸を撫で下ろしてもいた。


もし、この死体が先の怪物のものであるならば、

羽犬塚はきっと逃げ延びたに違いない。


恐らく、この惨状を引き起こした誰かに、

助けられているはず――



そんな那美の予想は、

見事に当たっていた。


「羽犬塚さん!」


見かけた小さな姿に那美が呼びかけると、

羽犬塚は目を丸くして驚いた。


その傍らに立つ男が、

にこにこと歯を見せて笑う。


「おやおや、佐倉さんじゃないか。

まるで長年の旧友に会ったような気分だな」


「田西さんたちが、

羽犬塚さんを助けてくれたんですね」


「ああ、たまたま悲鳴を聞きつけてね。

間一髪だったが、間に合ってよかったよ」


「もう、何てお礼を言ったらいいのか……。

田西さんたちがいて本当によかったです」


「いやいや、気にしないでくれ給え。

協力しようと約束をした仲なわけだからね」


「……そう言って頂けて、凄く嬉しいです。

ありがとうございます」


「羽犬塚さんも、よかったねっ」


「佐倉さん……」


「……羽犬塚さん?」


と――そこでようやく那美は、

羽犬塚の目に涙が溜まっていることに気付いた。


怪物に襲われた時のショックが

まだ抜けきっていないのだろうか。


疑問に思う那美が、羽犬塚の元へと駆け寄り、

膝を曲げて目線の高さを合わせる。


「羽犬塚さん、どうしたの?

まだあの怪物が怖いの?」


涙声を堪えるように唇を結んで、

首を横に振る羽犬塚。


「じゃあ、どうしたの?

何があったの?」


「もし、何かあったなら、

私がどうにかするから言ってみて?」


『ねっ?』と那美が羽犬塚の頭を撫でる。


それが、羽犬塚の堰を切ったのか、

ぼろぼろと涙を零して那美の胸に飛び込んだ。


驚く那美――しかし、すすり泣く羽犬塚を、

戸惑いつつも抱き留めてその背を撫でる。


どうして、

こんなに泣いているのだろうか。


一体、羽犬塚に何があったのだろうか。


「……羽犬塚さんがどうして泣いてるのか、

田西さんたちは何か知りませんか?」


「いやぁ、申し訳ない。

私たちにもさっぱり分からないんだよ」


「私たちがやったことと言えば、

羽犬塚さんを怪物から助けたことくらいだ」


「じゃあ、田西さんたちが助ける前に、

どこか怪我したとか……?」


那美が腕の中にいる羽犬塚に、

『どこか痛いの?』と優しく囁く。


けれど、羽犬塚は小さく首を横に振った。


怪我ではないとなると、

何か他の要因があるのだろうか――


そう思っていたところで、那美はふと、

自分たちに注がれている田西の視線に気が付いた。


顔を上げて眺めたそこには、

にたにたと笑う田西の不気味な顔があった。


「どうして……笑ってるんですか?」


「いや、別に」


「別にって……」


その回答と田西の顔に、

那美の心の内で違和感が燻り始める。


どうして、自分が来るまで、

羽犬塚は一人で泣きべそをかいていたのだろう。


怪物から助けるような仲間であれば、

慰めるくらいしてもいいはずなのに。


よしんば田西の手に負えないのだとしても、

自分にその説明と役目を渡してくるはずなのに。


どうして、田西と藤崎の二人は、

見世物でも見るように何も言ってこないのだろう。


普通じゃない。


何かがおかしい。


「まさか……田西さんたちが、

羽犬塚さんに何かしたんですか?」


「いや、さっきも言っただろう?

私たちはその子を怪物から助けただけだって」


「だったらどうして羽犬塚さんが、

私に抱き付いてこんなに泣いてるんですかっ?」


わざとらしく肩を竦める田西に、

怒気を顕わにする那美。


――その時、那美の腕の中で、

羽犬塚がか細く何かを呻いた。


「羽犬塚さん?」


聞き取れなかった言葉を確かめるべく、

那美が羽犬塚を胸から引き離す。


真っ赤になった顔に向かって、

『大丈夫だから話してみて』と優しく問いかける。


その那美の言葉が通じたのか、

羽犬塚がしゃくり上げながら涙声を紡いでいく。


「さく……さんっ……

わたしっ、どうしよう……」


「……どうしようって、

何かあったの?」


「わた、わたしっ、とられちゃった……」


「取られた……?」


「田西、さんにっ、

わたしのっ、でんわっ」


「――は!?」


那美が田西を見る。


そこには、那美が視線に気付いた時から

全く変わっていない男の笑顔があった。


普通、身に覚えのない悪い話をされれば、

驚いたり否定しにかかったりするものだ。


にも関わらず、田西にはその様子がないということは、

否定する必要すらない事実だということだろう。


「……どういうことですか?」


「んん? どういうことというのは?」


「決まってるでしょう!?

どうして羽犬塚さんの携帯を盗ったんですか!」


「どうしても何も……

別に疑問を挟む余地なんてないんだがねぇ」


食ってかかろうとする那美に対して、

田西が白い歯を剥き出しにして笑いかける。


「君だって、労働をしたら対価を貰うだろう?

それとも、自分はいいが他人には渡したくないのか?」


「それは……でもっ」


「“でも”? 今度は、スマートフォンは対価として

高すぎるとでも言うのかな?」


言おうとしていた言葉を先読みされて、

那美が思わず言葉に詰まる。


「ふふふ、佐倉さん。

命と比べてそれより高いものなんてのはないよ」


「自分の命を守るためなら、

誰だって差し出せるものを全部差し出すんだ」


「でも……」


「また“でも”? おやおや、今度は何かな?

後出しはずるいとでも言うのかな?」


再び那美が目を丸くする

/予想通りだとばかりに田西が首を横に振る。


「もし後出しがずるいと言うのなら、何だね?

我々は許可を得てから助ければよかったのかな?」


「それは……」


「出来るわけがない、だよねぇ?

そんな悠長な時間はない。時は金なりだ」


「だから、我々が羽犬塚さんに求めたものは、

極めて妥当だ。何も間違っちゃいない」


「――以上だが、まだ何か言うことはあるかね?

まあ、無いと分かってるから聞いてるんだが」


頬の肉を大きく歪めて、

ぎらぎらと並ぶ歯を見せつけるように笑う田西。


彼の言う通り、

那美には何も言い返すことができなかった。


というより、最初から、

何も言わせてもらえていなかった。


質問は全て先回りして回答。


論理的にも、那美が納得せざるを得ないほどには、

筋が通っているように思えた。


今になって、羽犬塚が泣きそうになりながらも

田西たちと一緒にいた理由が分かる。


返して貰うようお願いする以外に、

何もできることがなかったのだ。



「さて。それで佐倉さんは、

これからどうするんだ?」


「どうする、って……」


「取り得る選択肢は三つだ。

もちろん、どれを選ぶのも自由だよ」


田西が三本の指を立て、

困惑を浮かべる那美に簡潔な選択肢を提示する。


1.このまま羽犬塚とスマートフォンは諦める

2.どうにかしてスマートフォンを取り返す

3.那美も羽犬塚と一緒に田西の支配下に入る


「忠告しておくが、2番は諦めたほうがいい。

私も藤崎くんも、敵には容赦しないからな」


「1番は一見すると君にとって無難な選択肢だが、

こちらもあまり推奨はしない」


「佐倉さん一人でゲームを進めたところで、

どうせ怪物か他の参加者に食われてお終いだからね」


「というわけで、我々と一緒に行動しないか?

余裕があれば、君たちもクリアさせてやってもいい」


「心理的に抵抗はあるかも知れないが、なに、

どうせ同盟を結ぶのと大差はないさ」


「最初からそうするつもりだったんだから、

佐倉さんが反対する理由もないと思うがね」


“最初から”――田西の言うそれは、

彼が説明会後に話した同盟の提案のことだ。


しかし、那美がその言葉を受けて思い浮かべたのは、

田西の意図とは少し違うものだった。


つまり、そう――


「田西さんたちは、最初から、

私たちを罠に嵌めるつもりだったんですか……!」


ここまでの流れは、全て田西によって

仕組まれていたのではないか、ということだ。


説明会での態度も、同盟の提案も、

羽犬塚が怪物に襲われたことも。


全てが全て、

田西が操作していたのではないか――


そんな考えを、那美が罵るような言葉でぶつけると、

田西は頭を掻いて苦笑いを浮かべた。


「いやはや、これは参ったな。

佐倉さんはなかなか豊かな想像力をお持ちのようだ」


「ごまかさないで下さいっ」


「……君は少々勘違いをしている。

君にごまかすほどの価値があると思うか?」


「ここで藤崎くんにお願いすれば消し飛ぶような君に、

私がどうして嘘をつく必要がある?」


田西の質問――

また那美は何も答えられず。


どころか、今の田西の発言で、

壁際で退屈そうにしている藤崎を意識する有様だった。


そんな那美へと、

田西がさらに切り込んでいく。


「今、藤崎くんを見たな?

やっと、殺される可能性があることに気付いたか」


「そう、その通り。私は殺そうと思えばいつでも殺せた。

いつでもだ。会った瞬間から、今この時までずっと」


「君はどうしようもなく弱い。ハッキリ言って、カスだ。

これまで会った参加者の中で一番、君の価値が低い」


「自身を客観的に評価されるのは初めてか?

なら喜べ。私はおべっかの類いは一番嫌いだ」


「ついでに、否定したいなら論拠も述べてやろう。

君がいかに使えないかを私は一時間は語れるぞ?」


「例えば、ほら――

そこにいる羽犬塚さんを助ける力もないだとかな」


田西が醜悪かつ満面の笑みを浮かべて、

『だろう?』と那美に同意を求める。


そのねっとりとへばり付くような視線に、

那美はぶるりと身震いをして、目元を拭った。


涙が滲んでいた。


羽犬塚に対して何もできないという事実を指摘され、

ぐうの音も出ないほど打ちのめされた。


元々、自身にあまり価値はないと思っていた那美でも、

こうまでハッキリ否定されると酷く傷ついた。


自分よりも経験と能力を積み重ねた大人の言葉は、

呪いのように重く、痛かった。


そんな那美の反応を見て、

田西がほくそ笑む。


実のところ、

価値うんぬんはデタラメだ。


田西は那美の能力が低いとは思っていたが、

全くの無価値とも思っていなかった。


何より、ABYSSの儀式を勝ち抜いてきた人間が、

そこまで無能なわけがない。


だが、事実がどうであれ、

ここで上下を確定させるのは彼にとって重要だった。


仲間にするにしろ敵対するにしろ、

心さえ折っておけば後が非常に楽になる。


那美が誰かを連れてきてくれる可能性が、

非常に高くなる。


「さて――それで、どこまで計画していたかだったか?

本来語る必要もないんだがね、まあ教えてやるよ」


田西の嘲笑――

“君ごときに話しても害はないからね”。


様々な計算から

田西が那美の価値を徹底的に落としにかかる。


「まず前提として、私はABYSSのスポンサーだ。

今回のゲームには自分から望んで参加した」


「ただし、ゲームに関する部分は全て公平だ。

君たちと同じく死ぬ危険もあるし、報酬もある」


藤崎に報酬を渡すことは既に決まっていたが、

田西はそれを敢えて伏せた。


那美に自身を強大に見せるために話はするが、

弱点になりかねない情報は渡さない。


より美味い[報酬'えさ]で裏切る人間は、犬の糞と同じ数だけ

転がっていることを、田西は経験で知っていた。


「ゲームのルールを把握した時点で、

私はまず、カモから搾取することを決めた」


眉をしかめる那美を見て、

田西が歯を剥いて笑いかける。


「そう、君たちだ。森本聖はABYSSだし、

須藤とかいう女は警戒心が強すぎたんでね」


「敵を作らないように無難に振る舞っていたら、

勝手に仲良くしてきた君たちを使うことに決めた」


「もちろん、君たちが私を警戒していたとしても、

一番弱い相手として狙ったのは変わらないがね」


「……やっぱり、

最初から仕組んでたんじゃないですか」


「いや、私がやったのは連絡先の交換までだ。

その後は君たちが泣きついてくるのを待ちだよ」


「君が想像しているような、

怪物に君たちを襲わせたりなどは一切ない」


「というより、怪物に襲わせるなど愚の骨頂だ。

手段としては最悪と言ってもいい」


「……どうして最悪なんですか?」


「持ち主の死んだスマートフォンから、

カードを回収できるかどうか分からないだろう?」


「もし、まかり間違って二人が死にでもしたら、

大変な損失だ。今回は運が良かった」


自分たちを人間として見ていない田西の言動に、

那美が怖れと怒りで顔を強張らせる。


もちろん、田西はそんな那美を見ても、

蛙の面に小便とばかりに笑顔を作るばかりだった。


「さて、これで分かっただろう?

君の考えがいかに足りていないのか」


「悪いことは全て他人の陰謀などと思いたいようだが、

私のやったことなんて連絡先を教えただけだ」


「今、君たちが私に大切なものを奪われているのは、

君たちが勝手に私のところに来たせいなんだよ」


「もちろん、君たちではすぐに手詰まりになって、

絶対に連絡してくるとは思っていたがね」


皮肉気に笑う田西。


ただ、口には出さないが、本当は那美たちが

もっと早く泣きついてくるものだと思っていた。


いつまでも鳴らない携帯に、

勝手に死なれているのではと心配していた。


ところが、予想外にも那美たちは健闘しており、

小アルカナを少なくとも四枚も集めていた。


カウントに変換されていたため、

残っていたのは二枚だが、田西の驚きは大きい。


「さて、それじゃあ君たちの立場を踏まえて、

もう一度質問だ」


だからこその――勧誘。


「我々と一緒に来るか、別な道を選ぶか、

好きなほうを選び給え」


使えるものなら使ってみようという気持ちで、

佐倉那美へと選択肢を与える。


そんな田西の気軽さと比べると、

那美の戸惑いは際立っていた。


だが、無理もない。


ここでの選択が、

自分と羽犬塚の命運を確定するのだ。


腕の中で怯える羽犬塚を少しだけ強く抱いて、

那美がしばし黙考する。


そうして、出した答えは――


「羽犬塚さんの携帯を返して下さい」


「……本当に、2番の選択肢でいいのか?」


予想外の答えに驚きつつも、

田西が平静を装って那美へと問い返す。


まさか、実力で奪い取るということか――と。


しかし、那美は首を横に振った。


それから、目を見開き、

強い決意を秘めて田西を真っ直ぐに見返した。


「実力で奪い取るんじゃありません。

私の携帯と羽犬塚さんの携帯の交換です」


「そうすれば、羽犬塚さんと羽犬塚さんの携帯には、

もう用はなくなりますよね」


「なるほど……

こいつは予想していなかった」


「さっ、佐倉さん……!?」


「心配しないで。

今、羽犬塚さんの携帯を取り返すから」


『ダメだよそんなの』と見上げてくる

羽犬塚に微笑みかけて、那美が田西と向かい合う。


「そういうわけです。

返してもらえますね?」


「念のため聞いておくが、

本気で言ってるのか?」


もちろんです――と那美の首肯。


それに、田西は理解不能とばかりに頭を掻き、

先の那美と入れ替わるように沈思を始めた。


“死ぬのが怖くないのか、こいつは?”


“それとも、羽犬塚を得る以外に

何か交換するメリットがあるのか?”


色々な可能性を想定してみたものの、

どうにも納得できる理由が思いつかない。


そこに、田西は正体不明の気持ち悪さを感じたものの、

ひとまず表情には出さずに『なるほど』と呟いた。


分からないなら分からないなりに、

価値を前面に出した無難なやり方もある。


「実は私は、羽犬塚さんを

手放したくないと思ってるんだ」


「何それ……どうしてですかっ?」


「彼女の大アルカナ“恋人たち”が、

私にとって非常に有用だからね」


「だったら、大アルカナだけ奪えばいいじゃないですか。

羽犬塚さんを手元に置く必要なんてないでしょう?」


「いやいや、それじゃあまずいんだ」


「まずいって、何がですかっ?」


「“恋人たち”の効果は覚えているか?

羽犬塚さんからもう聞いてるんだろう?」


「……使った側と使われた側が、運命を共にする。

つまり、片方が死んだら両方死ぬんですよね?」


「大体それで正解だ。

正確には、使用者じゃなくて所持者だがね」


「それと羽犬塚さんに、

何の関係が――」


言いかけたところで、

はたと那美の言葉が途絶えた。


そう、気付いてしまった。


田西が“恋人たち”と羽犬塚の関係について、

何を言わんとしているかに。


「まさか……羽犬塚さんを生け贄にするつもりですか!?

“恋人たち”を無理矢理使うために!」


「そういう使い方もできる、

と言っているだけだ」


歯を剥いてくつくつと笑う田西。


「なに、別に必ず殺すというわけじゃないよ。

伝家の宝刀と同じく抜かないに越したことはない」


「“恋人たち”は交渉に非常に有効な大アルカナだ。

基本は相手の命を人質にするために使う」


「ただ、例え脅す用途にするとしても、

死んでも構わない人間がやらなければ意味がない」


「そうでなければ、どうせ使えないだろうと、

相手に開き直られてしまうんでね」


「そういうわけで、

羽犬塚さんを手放すわけにはいかないんだよ」


悪びれもしない田西が、怯える羽犬塚を見やる

/目つきが完全に家畜を見るようなそれ。


その忌まわしい視線から庇うように、

那美が羽犬塚をぎゅっと抱き締める。


「最ッ低……!」


「相手の嫌がることをするのが勝つための秘訣だ。

私を褒めても何もならんよ」


「というわけで、要求は却下だ。

君では羽犬塚さんと“恋人たち”は[代替'だいたい]できない」


「まあ、君が“恋人たち”よりも

強力な大アルカナを持ってるなら話は別だがね」


「あります!」


怒りから反射的に飛び出た那美の叫び――

田西が『ほう』と目を見開く。


まだこの子は予想外の種を出して来るのかと、

ここまで来たら逆に楽しみに。


「それじゃあ、

君の大アルカナについて教えてもらおうか」


そんな田西の様子から、小馬鹿にされているのだと感じ、

那美が半ばやけくそで“隠者”を説明する。


その辞書としての有用性/怪物の探知機能

/蓄積される過去の情報――


自分たちが順調にゲームを進められたのは、

“隠者”のおかげであるとも伝えた。


「だから“隠者”は、“恋人たち”とも……

羽犬塚さんとも釣り合うはずです」


「なるほど、そいつは確かに有用なようだ。

少なくとも、君たちを並みの参加者にできる程度にはな」


「そう思うなら、羽犬塚さんと携帯を、

私の携帯と交換して下さいっ」


「……どうする、藤崎くん?」


「あぁ? 何だよいきなり?」


いきなり話を振られた藤崎が、

不機嫌そうな顔で田西に目線を向ける。


「佐倉さんが、羽犬塚さんと

“隠者”を交換したいそうだ」


「そんなのテメェが決めとけよ。

俺様に余計なことをさせんじゃねぇ」


「いやいや、それは困る。

藤崎くんにもちゃんと働いてもらわないとな」


藤崎が眉間に深い皺を刻みつけて、

田西に明確な怒りを示す。


それは『テメェ何様のつもりだ』という、

着火寸前の爆薬のような怒気だったのだが――


珍しく一向に謝ろうとしない田西を見て、

どうしてか藤崎が矛を収めた。


「……そういうことかよ。

まあ、好きにすればいいんじゃねぇの」


「ありがとう。

では、そうさせてもらうとしよう」


面倒臭そうに目を擦る藤崎に、

田西が白い歯を見せて頭を下げる。


それから、改めて那美へと向き直り、

ぱちりと大きく手を打った。


「よろしい、交渉成立だ。佐倉さんの携帯と、

羽犬塚さんの身柄および携帯を交換しよう」


「……本当に?」


「おや、嫌ならやめてもいいんだが」


「いえ……嘘を言ってるんじゃないかと思って」


「ふむ、これはまた嫌われてしまったな。

若い子と仲良くするのはやはり難しいようだ」


「だが、安心し給え。

私はこの手の取引で約束を[違'たが]えたことはない」


「人間とは本当に不思議なもので、

鏡のようなものなのだよ」


「自分が約束を守ると、相手も約束を守る。

逆に自分が裏切りを考える時は、相手が裏切る時だ」


「それをたまたまと言う人間もいるが、そうじゃない。

“類は友を呼ぶ”で、似た相手が自分の前に立つんだ」


「だから、私は約束を守る。逆から見れば、

君たちが誠実である以上、私も誠実だ」


「……分かりました」


那美の首肯――とはいえ、

心から信じているわけではない。


恐らくは相手に誠実を強いるための手段として

論拠を並べたのだろう、という判断だ。


もちろん、まっとうな取引はむしろ

那美のほうから歓迎するものであり、異論はない。


お互いに携帯を相手に見えるように取り出し、

起動してその名前も確認する。


「確かに佐倉さんのスマートフォンだ。

そちらも間違いないかね?」


「……はい。羽犬塚さんの携帯で合ってます」


「では、こっちは先に半分渡していることだし、

次は佐倉さんの携帯を渡してもらうとしようか」


「半分……?」


「羽犬塚さんの身柄も取引の材料だろう?

その状態で、受け取ってないとは言わせない」


田西の顎で示す先には、

那美の体に縋り付く羽犬塚の姿があった。


「……分かりました。

それじゃあ、こっちの携帯を渡します」


那美が田西へと歩み寄って、

相手の目を見据えながら携帯を手渡す。


警戒――しかし田西に不審な動きはなく、

問題がないと判断して手を離す。


「確かに受け取った。

それでは、次は羽犬塚さんの電話を渡そう」


羽犬塚の携帯を、

那美と自身との中間位置に掲げる田西。


那美の再びの警戒――

田西の動きに/目線に不審な点はなし。


それに杞憂だったかと心中で溜め息をついて、

那美が携帯へと手を伸ばす。


――が、目の前から携帯が消え去った。


「えっ?」


那美の唖然/呆然――

一瞬、何が起きたのか全く理解できず。


答えを求めて田西の顔を見るも、

田西もまた目を見開いて口を開けていた。


つまり、田西ではない。


では、一体誰が――そう思っていたところで、

那美にくっついていた羽犬塚が『あっ』と声を上げた。


その視線を追ってみると、

藤崎朋久の手の中で、消えた携帯が踊っていた。


「あぁあーっ、何てことだ!

藤崎くんが私のことを裏切るだなんて!」


田西が大袈裟なまでに声を上げて、

涙を堪えきれないとばかりにその顔を手の平で覆う。


しかし、そんなあからさま過ぎる演技で、

他人を騙せるわけがない。


「藤崎さんに命令して、

携帯を盗らせたんですか!?」


「いやいや、まさかまさかそんなそんな。

私にとっても寝耳に水の青天の霹靂なんだ」


「信じられないよ藤崎くん!

どうしてこの私を裏切ろうとするんだね?」


「あー、言っておくが俺様はな、

テメェのその演技にまで付き合う気はねぇぞ」


「まあ、私もそこまでは求めていないよ。

理解してもらえただけで十分さ」


「そりゃ、あんな目で働けって言われたらな。

俺様を舐めてる様子もねぇし、後は推測できるだろ」


「目は口ほどにものを言う、だな。

いや、この場合は藤崎くんを[称'たた]えるべきか」


「勝手にやってろ。

そこの二人の相手もな」


手の中の携帯を無造作にポケットにねじ込んで、

藤崎が再び元いた壁際へと戻る。


「さて、そういうわけで、

取引は不慮の事故で終了となってしまった」


「不慮の事故って……ふざけないでよっ!

田西さんがやらせたくせに!」


「ふざけてなんかいないさ。

私は大真面目だよ。約束だって守ろうとした」


「藤崎くんに私がやらせたという話だが、

それは厳密には少し違う。私は彼を見ただけだ」


「その結果、私がこうなったらいいなと思う方向に

転がっただけで、別に私が命令したわけじゃない」


「そんなの……信じられるわけがないでしょう!?

だいいち、さっき二人で話してたじゃないですか!」


「理解してくれたと話しただけで黒幕扱いとは、

本当に豊かな想像力だな」


「まあ、別にいいさ。信じなくて。

君に信じてもらおうと思っていないからね」


「それより、さっさとそこの羽犬塚さんを

返してもらいたいんだがね」


「っ……誰が!」


那美が羽犬塚を抱き締める

/羽犬塚も怯えて那美に抱き付く。


「麗しい友情というやつだろうが、

あいにくとそんなものは見飽きていてね」


「さっさとそれを寄越さないと、藤崎くんが間違って

スマートフォンを壊すかもしれないぞ?」


ハッとなって、

那美が藤崎へと目を向ける。


その先の藤崎が、面倒臭そうにしながらも

わざわざ携帯を宙に放り投げてみせた。


「というわけだ。スマートフォンが必要ないと思うなら、

そのまま羽犬塚さんを連れて立ち去るといい」


「ま、このゲームで電話を失うことの意味は、

あいにくとバカな私には全く分からんがね」


「このっ……人でなしっ!」


「ご聡明な佐倉さんは悪口もお上品だな。

その教養の高さが羨ましくて涙が出そうだよ」


「……と思ったら、

泣いてるのは佐倉さんのほうだったか」


余裕ぶった表情で、

今にも落涙しそうな那美を嘲る田西。


その指摘に、慌てて那美が目元を拭って――

また涙が滲んできて、唇を噛んだ。


そうしないと、

嗚咽が漏れてきそうだった。


もう、那美には打つ手が

何一つ残されていない。


田西に奪えるものは全て奪われた上での、

那美の負けで終わりだった。


どれだけその結果を否定したくても、

認めざるを得なかった。


「おい、いつまで泣いてるんだ?

さっさと返すものがあるだろう?」


田西の煽りに、

那美が呼吸を落ち着けてから顔を上げる。


そんな那美の袖を、

羽犬塚が不安そうな顔で引いた。


「さ、佐倉さん……」


「……ごめんね、羽犬塚さん。

私がダメで、守ってあげられなくて」


「でも、我慢して待ってて。

絶対に助けに行くから」


那美がにっこりと優しく微笑んで、

羽犬塚の頭を撫でる。


そんな那美に、

羽犬塚は何か言いたそうに口を開き――


結局、何も言わずに那美の袖を離した。


そして、小さくなりながら田西の元へと戻り、

不安そうに顔を俯けた。


そんな羽犬塚の頭に、

田西が無造作に手の平を乗せる。


「さて、これで我々の用事は終わりだ。

実に身のある取引で嬉しい限りだな」


「もう、我々は佐倉さんを勧誘するつもりもない。

どうとでも好きなように行動し給え」


「それじゃあ藤崎くん、もう行こうか」


「ったく、やっと終わりか。

どうせ奪うなら、さっさと力ずくでやっちまえよ」


「いやいや、わざわざ藤崎くんの手を

煩わせることもないと思ってね」


「それに……力でやってしまったら、

そこで終わってしまうだろう?」


那美に背を向けた田西が、

首をぐるりと回して那美の顔を見やる。


「我々はこれからカジノエリアで休息を取るつもりだ。

もし、諸々を取り返したいならそこに来い」


「カード勝負で私に勝てたなら、

その時はきちんと全部返してやろう」


「また騙すつもりですか?」


「カジノエリアでの約束はABYSSが証人になる。

あそこで約束を違えることはできない」


「暴力行為も禁止だから、

藤崎くんでも介入は不可能だ。安心し給え」


「……分かりました。必ず行きますから」


「楽しみにしてるよ。

まあ、まずは頑張って[賭け金'チップ]を用意することだな」


くつくつと、いつもの歯を剥く笑いを残して、

田西たちは迷宮の奥へと消えていった。


その先にあるだろうカジノを見据えて、

那美が拳を硬く握り締める。


今の戦いは、負けた。


どうしようもないくらい、

それこそ身ぐるみ剥がされるほどの完敗だった。


恐らく、カードでの勝負もそうだろう。

那美一人では必ず負ける。


どうしても田西に勝ちたければ、

勝てる人を連れて行くしかない。


その人に[賭け金'チップ]となる小アルカナを

出してもらうしかない。


だが、その条件を満たす人間が、

果たしてこの迷宮の中にいるのだろうか。


考えるまでもなく、

すっと那美の中で浮かぶ顔があった。


「探さなきゃ……!」


自身の病のことも忘れて、

那美が走り出す。


早く羽犬塚を助けたいという思いで、

暗く冷たい迷宮を駆け抜ける。


“隠者”もない。仲間もいない。

那美自身に力もない。


そんな絶望の中で、たった一つの希望を求め、

那美が迷宮へと紛れていく――



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