作戦通り









化学室の爆発から、約一分。


片山の飛ばす指示を背中に受けながら、

仮面の男たちは校舎の中へと進入した。


「何だこりゃ?」


突入と同時に彼らが目にしたのは、

当たり一面に撒き散らされた淡紅色の粉末。


足を止め意味を考えたものの、

目先の仕事のために早々に二手に分かれた。


うち七名が部活棟へ、

消化班五人を含む十三名が学習棟へと走る。


さらに、消化班以外の八名が四人ずつに分かれ、

学習棟の二階と三階をそれぞれ目指した。


警報装置は儀式のため切ってあり、

先の爆発でも校内の防火設備は作動していない。


延焼を確実に食い止められるかどうかは、

消火班の手際にかかっていると言えた。


しかし、あくまでそれはそれ。


人数の配置が多少変わるが、

消火班以外の面々がすることは、結局いつもと同じだ。





「一つ目、行くぞ」


先頭の一人が教室の戸に手をかけ、

それに周囲が頷く。


三人以上のグループで、しらみ潰しに全教室を回るのが、

彼らの普段通りのやり方だった。


頭数でも個の性能でも勝る側としては、

非常にシンプルながら合理的な作戦と言える。


「……いねぇな」


一つ目の教室は外れ。


が、何もない教室に生け贄が留まっていることなど、

これまでも一度もなかった。


特に気落ちするでもなく、教室を丹念に見回した後、

何もないことを確認してドアを閉める。


「んじゃ、次行くぞ」


移動――隣の教室へ。


「ここも外れ、と」


さらに移動――


「外れ……」


移動――


「……ん?」


次の教室に入る前に、

再び淡紅色の粉末を見つけた。


赤いチョークの粉をぶちまけたかのかとも思ったが、

わざわざそれをする意味が分からない。


「何なんだ……?」


片山からは、耳にたこができるほど

朝霧温子の話は聞かされていた。


曰く、罠を使う、毒を使う、

本気で殺しに来る、と。


男たちにはそれが、猫をライオンに例えるような

大袈裟な話にしか聞こえなかったのだが――


先の爆発といい、この謎の粉末といい、

今回の生け贄は少し違うなと男たちは認識し始めていた。


「どうする? 片山さんに報告するか?」


「何つーんだよ? 粉がありますってか?」


「……バカだと思われそうだな」


罠が仕掛けてあるにしても、

近づかなければ問題はないだろう。


そう判断し、粉の山の脇を抜け、

次の教室の扉を開く。


途端、教室内の本棚が奥へ向かって傾き、

大きな音を立てて倒れた。


「……これ、俺らに向かって倒れてこなきゃ、

意味ねーんじゃね?」


「だな」


男たちが顔を見合わせる。


すると、誰からともなく噴き出し――


やがて、肩を揺すって笑い始めた。


「おいおいおーい、

何すかこれおーい?」


「やべー本気で殺されちゃうかと思ったわー」


倒れた本棚の側面を足蹴にする。


「こんなん当たったとしても、

痛くも痒くもねーっつーの。なあ?」


「たりめーだろ。俺ら舐めすぎだろ」


さっきの警戒はどこへやら、

談笑しながら棚を踏み越えて、教室の中へと入る。


「……あん?」


そこで、見つけてしまった。


倒れた本棚の影で赤々と輝く――

火の付いた紙束を。


「はぁ!?」


見れば、火は紙束だけではなく、

凄まじい勢いで広がり始めていた。


その周囲には、

満遍なく敷かれた教科書やノートの山。


どんどん大きく育っていく赤い輝きを前に、

男たちの顔色が真っ青に変わる。


「おぉぉおおおおっ!」


慌てて室内へと飛び込む男たち。


火の付いていない教科書を

足でどかす/押しやる/蹴り飛ばす。


それでも延焼は避けきれず、

新たな炎が上がり、教室が見る見る明るくなっていく。


「おいおいおい!

どーすんだよこれ!?」


「うるせーよバカ!

いいからとにかく消すんだよ! 踏め!」


「踏めって……無理に決まってんだろ!」


見る間に強くなっていく火勢は、

男たちの膝の辺りまで焔を上げていた。


……ここまで急激に燃え広がった理由は、

先の棚に乗せてあったアルコールのためである。


誰かが不用意に扉を開けた途端、

棚が倒れ燃料をぶちまけ、火が燃え広がるという仕掛け。


肝心の着火は、棚の倒れる先に火を置いておくことで、

複雑な装置を用意することなく解決していた。


「とりあえず、これ以上は燃やすな!

燃えるやつは全部火から離せ!」


「分かってるっつーの!

やっとくから、お前は水持ってこい早く!」


「分かった、待ってろ!」


仮面の男がバケツを求めて、

教室後方のロッカーに走る。


が、掃除用具が配置されているはずのそこには、

どうしてかバケツだけが入っていなかった。


「クソッタレ!」


ロッカーの扉を蹴りで閉じて、

男が教室を飛び出す。


廊下の謎の粉を跨ぎ、

隣の教室へバケツを求めて走る。


が――ない。


掃除用具が入っているはずのロッカーに、

バケツがない。


「ここもかよ!?」


さらに隣の教室へ。


が――ここにもない。


「何でねぇんだよクソがぁッ!」


怒りのあまり、

男がロッカーの扉へと蹴りを入れた。


スチール製の扉が大きな音を立てて、

くの字にひしゃげる。


衝撃の余波でロッカーがぐわんぐわんと揺れ、

ちりとりが落ち、箒が倒れてくる。


それらを慌てて押し戻しながら、

男は大きく舌を鳴らした。


「……くそっ」


何の解決にもならない行為の虚しさに、

男は僅かばかりの冷静さを取り戻した。


呼吸を落ち着けつつ、普段使っていない頭を回転させ、

バケツのを推察する。


今まで確認したことはなかったが、この学園では、

もしかするとバケツが各教室にないのかもしれない。


他にバケツがありそうな場所は、

パッと思いつく限りトイレだが、そこにもあるかどうか――


「……そうだ」


ふとバケツでなくても構わないことに気付き、

男は窓際のカーテンをもぎ取った。


これに水を吸わせれば、

多少手間はかかるが水を運ぶことができる。


教室を照らす月を見上げながら、

珍しく冴えている頭を自画自賛する男。


その調子のまま、自慢の超人らしい膂力でもって

カーテンを苦もなく巻き取る/担ぎ上げる。


多少手間取ったが、

これならすぐに火を消すことができるだろう。





そうして、

全速力で目的の水飲み場へ到着。


後は、カーテンを水に浸すだけ。


「……あ?」


そこで、ふと男の中に、

何とも分からない違和感が生まれた。


何かがおかしい。

しかし、一体何がおかしいのか――


違和感の正体を掴めないことで、

男の手が宙に留まる。


が、火を消し止めねばならない以上、

いつまでもこの場で固まっているわけにはいかない。


気持ち悪い引っかかりに首を傾げつつ、

男が蛇口へと手を伸ばす。


――ぴたりと。

そこで、男の手が止まった。


そうして、

ようやくにして違和感の正体に気付き――


顔中の穴という穴をこれ以上ないというくらい

全開にして――叫んだ。


「はあぁあああああっっ!?」


ない。


蛇口のハンドルがない。


水飲み場の全ての蛇口から、栓を回し水を出すハンドルが、

きれいさっぱり取り去られていた。


「ふざけんなよオイっ!

何なんだよこれ!?」


男が抱えていたカーテンを放り出して、

蛇口に飛びつく/ハンドルのあった場所スピンドルへと手をかける。


しかし、指だけでスピンドルを無理やり回そうとしても、

滑るばかりでびくともしない。


隣の蛇口で試してみても、結果は同じ。


火を消すために必要な水が、

楽勝で手に入るはずだった水が、全く確保できない。


「ぐ……どーなってんだよクソがッ!」


男の八つ当たり――流し台を殴る/蹴る。


そのまま怒りに任せて、

階上の水飲み場へと足を向ける。


「ざけんなオラァ!!」


途中にあった謎の粉を蹴り上げ撒き散らしながら、

階段を五段抜かしで駆け上がり、三階へ。


と、目的の水飲み場で、

頭を抱えている仲間の姿を見つけた。


「おい、どうした!?」


「火事になってんのに、

蛇口がぶっ壊れてんだよ!」


「はぁ、嘘だろ!?

お前んところもかよ!?」


にわかに信じられず、

蛇口を端から順に眺めていく仮面の男。


その目に映ったものは、

彼が階下で目にしたものと全く同じだった。


その異常な光景に、

男たちが顔を見合わせる。


そこでようやく、この状況が全て

生け贄によって仕組まれたものなのだと気付いた。


「これ……かなりやばくねぇか?

多分、どこの蛇口行ってもぶっ壊れてんぞ」


「片山さんに相談すっか?」


「……正直、したくねぇんだよな。

あの爆発のせいで、相当ブチ切れてたっしょ」


「つっても、どうやって火ぃ消すんだよ?

他に水なんてねーだろ」


「……便所とか?」


「あー! あーあーあーあー!」


仲間の提案に何度も頷く男。


確かにトイレなら、不潔さを気にしないのであれば、

幾らでも水を確保できる見込みがある。


洋式トイレなら、便器内の不潔な水を使わずとも、

タンクの中の水を得ることができるだろう。


「頭いいなーお前!」


「ふはは。当然だっつーの。

てめぇとはオツムの出来がちげーんだよ」


「こんの野郎……!」


笑い混じりに小突き合う仮面たち。


が、すぐに延焼を食い止めている仲間を思い出し、

迅速にトイレへと走る。


そうして、その入り口に立ったところで、

男の片割れが鼻を鳴らした。


「……何かすげープールの臭いすんだけど」


「洗剤でも撒いたんじゃね?

階段にもあっただろ」


そうなのかもしれないと納得して、

男たちがトイレのドアを開く。


薄暗い中を目視で確認――

ひとまず罠は見当たらない。


ならばと足を踏み入れて、

警戒しながらトイレの中程へ進んでいく。


先ほど探すのを諦めたバケツも、

恐らく用具入れの中には入っているだろう。


が――


「う……」


数歩歩いたところで、どうしてか、

喉が詰まる感じがした。


最初は、プールの臭いのせいかと思ったものの、

どうにも違う。


辛味からみの付いた空気が、

ぱりぱりと喉に張り付いてくるような感覚。


それはまるで、鼻腔から喉の奥深くまで、

乾いた海苔が付着してくるようで。


強烈な不快感と口渇に、

男たちが咳き込む。


同時に、目に痛み。


涙が滲んで、視界が曇る/瞬きを繰り返すたびに、

ぽろぽろと涙が頬を伝って落ちる。


突如として、かつ急速に現れた異常に、

男は仮面の下に手を入れ口元を押さえた。


しかし、

その判断はあまりに遅すぎたのか。


「げ――」


程なく、喉が焼けるように痛みだし、

男は猛烈な勢いで咳き込み始めた。


「お、おい? どうしたっ?」


入り口近くの仲間から声が飛ぶも、

返答をする余裕すらない。


間断なくむせびながら、

男が転がるようにトイレから飛び出す。


その異常な様子を見て、

入り口近くの仮面もトイレから慌てて外に出た。


「おい、大丈夫か!?」


呼びかけるも、

噎せるばかりで言葉にならない。


ただ、ジェスチャーでひたすらに、

ドアを閉めろと繰り返す。


その決死の動作にはっとなって――


彼の仲間はようやく、鼻を突くこのプールの臭いが、

毒ガスなのだということに思い至った。


彼らの感じているプールの臭いとは、

塩素の臭いである。


塩素は一般に知られている通り、

水道水の消毒などに幅広く使用されている。


しかし、生活に密着している物質ながら、

非常に強い毒性があるのも事実だ。


吸入等で摂取すると、粘膜に強い刺激があり、

高濃度では粘膜腐食作用も見られる。


また、生体の水分に触れると活性酸素と塩酸を生じ、

刺激や活性酸素による酸化作用で組織障害を引き起こす。


濃度が高ければ死にも至るため、世界初の毒ガスとして

ドイツ軍が使用したという歴史もあるほどだ。


そんな恐ろしい物質でありながら、

実のところ生成はそう難しくない。


次亜塩素酸ナトリウムと塩酸を

混ぜ合わせるだけ。


その二つを混ぜ合わせることで化学反応が生じ、

カルキ臭を伴った黄緑色のガスが発生するのだ。


ただ、仮に発生させたとしても、

十分に換気をすれば特に問題はない。


非常に危険なのは、

換気の悪い環境の場合である。


そう――

例えば、換気扇の回っていないトイレのような。


「マジかよ……」


事ここに至って――


彼は、敵が途方もないほどに策を練り、

用意をしているのだと気付いた。


ここまで用意周到なところを鑑みるに、

恐らく、他の蛇口やトイレからも水は得られないだろう。


蛇口という蛇口はハンドルを外され、

トイレは男子女子に関わらず、毒ガスで閉鎖済み。


では、どうやって火を消せばいいのか。


僅かな思案の後に、

彼は携帯を取り出した。


電話をかける先は、

もちろん決まっている。



「……もしもし、片山さんですか?」


「消火の件か?」


「! ……はい。よく分かったっすね」


「他の連中からも連絡が来てる。

水を確保できねぇってな」


やはり他チームでも同じ問題に当たっているのかと、

男が心を暗くする。


生け贄の手抜かりのなさを目の当たりにして、

片山の戒めが決して誇張でなかったことを痛感していた。


「まあ、とりあえず温子の作戦は分かった。

俺たちにとにかく時間を使わせる気だ」


「消火活動を妨害して……ですか?」


「そうだ。まともにやったら勝てないと思って、

三時間使わせに来てるんだろう」


「その証拠に、最初から火を付けないで、

わざわざ罠を使って火を起こしてやがる」


「火が大規模に広がれば、

スプリンクラーを使われると思ってるんだろう」


「あと、もし食い止められない火事にでもなれば、

温子たち自身が危なくなるしな」


「……そこまで考えてるんすね、生け贄は」


「だから言っただろうが。

温子をその辺のタンカスと一緒にすんなって」


「……すいません」


「まあいい、火をどうにかするのが先だ。

まず、火の出た部屋のカーテンは閉めろ」


「化学室が爆発しといて今さらだが、

火が外から見えるのはなるべく避けるんだ」


「それが終わったら、

望みは薄いが消火器を探せ」


「それから、消火栓もだ。

こっちはさすがの温子も殺せないだろうからな」


「消火栓……?」


「赤いランプがいつも点いてて、

ボタンを押し込むと非常ベルが鳴るやつがあるだろ」


「あの下の扉に、消防車みたいなホースがあって、

火事の時とかに消火できるようになってんだよ」


「はー……そうだったんすか」


「こいつは非常時に使うものだけあって、

蛇口みたいに簡単に殺せる代物じゃねぇはずだ」


「ただ、消火栓を使うと、普通は消防に通報が行くんだ。

温子はそれに期待してるのかもな」


「まあ、残念ながら、

通報は全てカットしてるんだが」


「片山さん、

ホントよく知ってますね……」


「ま、俺も使ったことはねぇから、

知識だけだけどな」


「ともかく、消火栓は生きてる可能性が高いから、

お前のほうで試してみろ。傍に説明書があるはずだ」


「それでダメなら、多少手間はかかるが、

校舎の外の蛇口から水を持ってこい」


「その間、他の連中は延焼を食い止めるために、

燃えるものを周りから全部撤去だ」


「時間は三時間あるからな。

仮に消火に二時間使っても、どうにかなるだろ」


「スプリンクラーは後始末の関係で、

極力使いたくねぇ。蛇口も壊すな」


「爆発の火消し担当にも自力でやらせてんだ。

お前も腹決めろ。いいな?」


「はい。気合い入れます」


「ふん、グッドだ」


「あ、それと毒ガス? を吸ったやつが

すげー咳き込んでるんですけど、大丈夫すかね……?」


「……この状況下で温子が作るっつったら、

十中八九塩素ガスだ。プールの臭いがしなかったか?」


「しました」


「じゃあ、そいつはリタイアだ。

動けるなら外まで歩かせろ。無理なら連れてけ」


「外に出たら、水でしばらく目を洗わせながら、

呼吸が落ち着くまで外の空気を吸わせるんだ」


「それでもバッドな状態が続くなら、

医者を手配してやる」


「うっす。あざす!」


「後は何かあるか?」


「いえ、大丈夫っす」


「分かった。

また何かあったら寄越せ、いいな」


通話が切れる。


冷静な片山の指示に感心の溜め息を漏らしつつ、

男が壁へと目を向ける。


「消火器と消火栓、か――」




「――消火器と消火栓も大丈夫だよ」


『大変な忘れ物に気付いた』とばかりに慌てる那美へ、

温子は平然と微笑んだ。


「廊下にピンクの粉が撒いてあっただろう?

アレが消火器の中身」


「あ、そうだったんだ」


「粉の中に包丁を仕込んで来た箇所もあるから、

もしかするとバカが引っかかってくれるかもね」


こんな感じでね、と、

温子が中腰で消火器を撒く仕草をしてみせる。


よく見てみれば、温子の制服は、

ところどころ消火器の粉で淡紅色に染まっていた。


「それから消火栓に関してだけれど、

こっちも殺すこと自体はそう難しくないんだ」


「水道の蛇口と同じで、

給水するバルブのハンドルを外してしまえばいい」


「ただ……問題は、

今回はそれを選択することができなかったことだ」


「え、どうして?」


「それをする工具は、

蛇口を殺すほうに回さなきゃいけなかったから」


ああ――と、

那美が口元に手をやる。


その手の中に、ついさっきまで、

必要な工具が収まっていたからだ。


「そういうわけで、これを解決するために

必死になって頭を回しまくったんだけれど――」


「学園の消火栓の種類に思い至ったところで、

どうにか光明が見えたんだよね」


「消火栓の種類……?

消火栓に種類なんてあるの?」


「うん。実は三つもね」


――消火栓の種類は主に三つ。


一号消火栓、易操作性一号消火栓、二号消火栓であり、

それぞれ性能と操作性が異なっている。


一号消火栓は消火能力に優れる代わりに手順が多く、

他二つはその逆だ。


「一号消火栓って、放水するための手順として、

警報器のスイッチを押さなきゃダメなんだ」


「えーと、あのランプの下にある、

『強く押して下さい』のボタンだよね?」


「そうそう。あのスイッチが発信器になっていて、

押すことでポンプが作動するんだよね」


「逆に言えば、その発信器さえ殺してしまえば、

ポンプは作動しないことになる」


「じゃあ……発信器を壊したの?」


「いやいやそんな、人聞きの悪い。

発信器の裏の配線を切っただけだよ」


笑顔でじゃんけんのチョキを開閉させる温子。


それに那美が苦笑いを浮かべると、

温子は期待通りの反応だとばかりに頷いた。


「まあ、今だから笑って話していられるけれど、

これを思いつくまでは気が気じゃなかったんだよ?」


「もし思いついてなかったら、

ホースをはさみで切るくらいしかなかったからね」


「でもその程度じゃ、

火元に直接放水できなくなるくらいの効果しかない」


「結果的に、連中が水を確保するのを防げないから、

作戦そのものを考え直す必要に迫られていただろうね」


「……温子さんって、

本当に色々知ってたり考えてたりしてるんだね」


「まあ、伊達に学園でテロリストと戦うために、

色々とシミュレーションしてないしね」


「あ、あはは……」


「……でも、そんなに温子さんが考えてたなら、

外の水道のハンドルも外しておけばよかったかな」


「や、そこまでする必要はないよ。

時間と人手を考えても実行は難しいしね」


「でも、そのほうが

水を探しにくくなるでしょう?」


「そうだけれど、仮にそこを殺せたとしても、

プールから水を持ってこられたら意味がないし」


「それに何より、本格的な火災にしてしまったら、

元も子もなくなるだろう?」


「私たちの本当の目的は、

足止めをして時間を稼ぐことじゃないんだから


それもそうかと那美が頷き、

温子と顔を見合わせる。


二人の間に通じる意思――

“そろそろ頃合いだね”。


物陰から温子がさっと首を出し、

上階の様子を確認する。


温子の読み通り、片山から出た指示によって、

罠を仕掛けた部屋の窓にはカーテンがかかっていた。


これでもう、

見つかることはほぼない。


再度、アイコンタクトを交わした後、

二人は校舎の陰から月明かりの下へとその姿を現した。


もちろん、

二人が立つのは屋上などではない。


ゲームの舞台――生け簀こうしゃの外である。


その場所に立つことは、本来であれば

ルール違反も甚だしい行為だった。


即座に処刑されて然るべき愚行だった。


しかし、肝心の二人を咎めるはずの首輪が、

既にその用を成していない。


校舎から出た際、二度か三度、首元で音を立てた後は、

完全に沈黙している。


佐倉那美と朝霧温子を殺すはずの首輪が――

逆に、二人によって殺されてしまっている。


一応、外には片山の配置した見張りがいたが、

彼らは皆、侵入してくる者の排除が役割である。


構内を移動する温子たちには、

気付く様子もない。


つまり、生け贄を繋ぎ止めるための鎖は、

もうどこにも存在していなかった。


解き放たれた二人が、植木や草花に紛れながら、

グラウンドの端沿いに歩を進めていく。


目指す場所は、

片山の配置した全ての見張りから死角となる一角。


そこで金網を越えれば、晴れて脱出完了となる。


その後は、警察に駆け込むべきというのが、

温子の判断だった。


噂通りのABYSSなら、公権力も支配下にあるため、

警察に頼るのは危険を伴うことが予測される。


しかし、ABYSSという非合法イリーガルな組織に対して、

一個人が身を守りきれるとはどうしても思えなかったのだ。


そして、秘匿をよしとするABYSSであれば、

関わった人間を何もなしに放置するのは考えづらい。


ならば、決着の形を自身で描いてやろう――

そう温子は考えた。


描く絵はこうだ。


『片山ら不良グループが、

同校の女子学生を拉致し火遊びをした』


『最近の凶悪な若者による行き過ぎた事件であり、

その背景には何の組織も存在しない』


『被害者の少女たちには、

多少の記憶の混乱が見られるものの、命に別状はない』


平穏な日常を取り戻そうと思うのであれば、

こういった形の結末がベストだろう。


もちろん、片山がABYSSの偽物であるならば、

それに越したことはないのだが。


と――


そうこうしているうちに、

二人は金網の前まで到着した。


後は、できるだけ音を立てずに、

これを乗り越えるだけ。


「佐倉さんから行ってもらえるかな?」


背後の那美へ振り向き、

温子が声を潜めて話しかける。


「もし見つかったとしても、私は全力で走れるけれど、

佐倉さんはそういうわけにはいかないだろうしね」


「……」


「最初で怖いと思うけれど、

ここは頑張って」


「……」


「……佐倉さん?」


そこで温子はようやく、

那美が表情を強張らせていることに気付いた。


いや、固まっているのは

表情だけではない。


胸の前で手を構え、温子からじっと視線を逸らさずに、

まばたきも忘れて震えている。


そうして見つめられることを疑問に思った温子が、

眉を寄せて首を傾ける。


が、ふとそこで気付いた。


この怯える少女は、自分ではなく、

自身の背後にある何かを見ているのだと。


「っ……」


喉が鳴った。


心臓の音がくっきりと聞こえた。


さっきまでうるさいほどに打ち寄せていた虫のが、

気付けば潮が引くように消えていた。


どうしてかは、

考えるまでもなかった。


振り向きたくないと思った。


けれど、そんな感情とはまた別のところで、

思考は冷徹に振り向くことを要求してくる。


首が左に回っていく――行き詰まる。


さらに、腰が回り――行き詰まる。


止せという心の声に反して、膝が曲がり、

見えない力がかかっているかのように体がねじれていく。


そうして、

完全に顔が背後へと回ったところで――


それを見た。


――白い仮面。


金網越しに、闇の中で、

じいっと二人のことを覗き込んでいた。


悲鳴を上げようとしても、

上げられなかった。


喉が詰まって、

息をすることすら忘れていた。


相見えるのは、

生まれて初めてだった。


しかし、

それでもすぐに分かった。


本物の人殺しというのは、

こういう目をしているのだ――と。



白面が、無言で顎をしゃくる。


衣擦れさえ鳴るかも怪しい、

ほんの僅かな動作。


だが、そんな小さな動きでも、

『校舎へ戻れ』と言っているのが分かった。


「の、温子さん……」


「……戻ろう」


金網から顔を戻し、

お互いで頷き合った。


異論はなかった。


従わなければ命がない――

例え赤子でも理解できるほどに明白だった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る