まやかしと偽物









「はぁ……誰やねん、そこにおるやつ?

今さら隠れても無駄やでー」


龍一が、疲れ果てた体に鞭打って立ち上がる

/壁に寄りかかりながら刀を構える。


現在の彼は、大仕事を成し遂げた後であり、

まともに戦える気はしなかった。


しかし、ハッタリだろうと刀を構えなければ、

相手にどんなことをされるか分からない。


「ほれ、早よ出ろやー」


『立ってるのもしんどいです早くして』といった風に、

気怠げな声を投げる龍一。


それに反応して、

曲がり角の向こうから出て来たのは――


「温子はん……?

何でこんなとこおるんや?」


「いや、それはこっちの台詞だよ。

まさか龍一くんだとは思わなかった」


二つの驚いた顔が向き合う。


だが、温子の隣にはもう一つ、

仏頂面の少女の顔があった。


「あーっと……そちらは誰でしょ?」


ジロジロと値踏みするような視線を向けてくる

顔も知らない少女へ、龍一が首を傾ける。


それに、少女はたった一言

『須賀由香里』と自分の名前を返した。


「あーっと……

今、私たちと一緒に行動してる人だよ」


「……なるほど。

なかなかご機嫌斜めな感じなんやな」


フォローする温子に『大変やなぁ』と思いつつ、

龍一がひとまず刀を収める。


「ふと思ったんだけれど……その恰好に日本刀って、

もしかして、龍一くんが切り裂きジャックの偽物?」


「あーっと、それはなー……」


「あ、こいつ切り裂きジャックだから。

もちろん偽物のほうだけどね」


「ばっ……何ばらしとんねん!

やめてやーそういうの! いけず!」


正義の味方というものの正体は、

秘密であって然るべき――


そんな考えで黙っていようと思ったのに、

あっさりとバラされて涙目に。


「ちゅーか、

何でお前がそれ知っとんねん!?」


「君が朱雀学園のABYSS候補だったから。

素性と素行は調べてる」


「……もしかして、プレイヤーか?」


「いや、確かにプレイヤーではあるけど、

調べたのは幽のパートナーとしてだよ」


「……それと、今ので分かった。

君が、一年前から活動を休止してたプレイヤーだな」


ズバズバと言い当ててくる少女に、

龍一が思わず口を噤む。


口が滑ったとはいえ、龍一が抱えていた二つの秘密を

両方とも当てられるとは思ってもみなかった。


無愛想だとだけ思っていた少女の顔が、

途端に怖いものに見えてくる。


「おいおい、そんなに警戒するなってば。

これくらいパートナーなら普通に分かるだろ」


「いや、普通に分からんから警戒しとるんやろが。

俺のパートナーは、そんなんやなかったし」


「あ、それで思い出した。

君のパートナーさ、君のこと超恨んでたよ」


「えっ……それマジ?」


「マジで。君さ、プレイヤーをやめたわけでも

死んだわけでもなくて、活動休止になってただろ?」


「そのせいで、君のパートナーは

他の相手と組めなくなったんだよね」


「ああ……そないなっとったんか」


自身の都合で活動休止したはいいが、

相方がそうなっていたとは思いも寄らなかった。


「悪いことしたなぁ。

後でごめんなさいって電話せな」


「いや、連絡しないほうがいいよ。

連絡したら下手すると殺される」


「……マジで?」


「マジで。ABYSSの処理班と

連絡取ってたって噂もあったくらいだから」


「それともまさか、

もう連絡を取ったとか……?」


「いや、ギリギリセーフやった。

温子はんたちが行方不明んなった時にしよ思ったから」


「あーっと、

私たちが片山に浚われた時の話か」


「……危なかったな。

そこで連絡してたら、きっと今ごろあの世行きだ」


「ちょっと傍で聞いてて気になったんだけど、

龍一くんが転校してないのは大丈夫なのか?」


「相手のパートナーも居場所を知ってるなら、

龍一くんにいつでも刺客を差し向けられるんじゃ……」


「あ、それは心配しなくていい。

処理班を動かすには大義名分が必要だから」


「大義名分……ちゅーと?」


「推測だけど、私がもしも使うとすれば、

『パートナーの目的外の利用』だろうね」


「君はもう活動休止してるから、

連絡は全てルール違反だってこじつけるんだ」


「なるほどね。それでまんまと連絡してきたら、

ルール違反で処理班を出すと」


「そういうこと。逆に言えば、

連絡さえ取らなければ安心だから」


「お、おう……心に刻んでおくわ。

教えてくれてサンキュな」


「はい。そういうわけで、

私が敵じゃないってとりあえず分かっただろ?」


「そらもー、

感謝してもしきれんほどな」


「それならようやく話を進められるな。

ひとまず、情報の共有をしていこう」





「……なるほどな。

他はそんなことになっとったわけか」


「危なかったりもあったけれど、

何だかんだで多分、私たちが現時点での最大勢力だね」


「んでもまさか、温子はんと佐倉さんだけやなく、

はいぬーさんまで来てるとはなー」


「しかも、晶が怪物をブッ倒しとんのやろ?

今から嘘でしたー言われても信じるレベルやで」


「私も笹山くんに関しては同意だけど、

現実に起きてるんだから信じるしかないな」


「まあ、この状況だと

戦える駒がいるっちゅーのはありがたい話か」


「なんぼ部屋が安全ゆーても、

ずっと引きこもっとるわけにもいかんしな」


「そうだね。カードの探索に回す人数を

確保できるのは大きいと思うよ」


「森本さんも迷宮内におるから、

探せば余計に戦力補強できるで」


「ああ、森本聖はさっき脱出したって」


「はぁ!? うっそホンマに!?」


「ホンマに。笹山くんから連絡があったんだ。

瀕死だったから“愚者”を使って脱出させたって」


「瀕死って……あの、森本さんが?」


「高槻良子にやられたみたい。

でも、勝ったってさ」


その言葉に、

龍一はほっと息を吐いて表情を緩めた。


「……そか。そらよかった。

向こうも上手くやったんやな」


「向こうも?」


「あー、こっちもちょっとな、

うちの妹を捕まえるのに忙しかったんよ」


ほら、そこにおるやろ――と、

龍一が曲がり角の奥を指差す。


そこの袋小路には、気絶した少女が

縛られた状態で横たわっていた。


その見たことのある姿を見て、

由香里がハッと息を呑む。


「……レイシス!?」


「お、知っとるんか?」


「アビス唯一の成功例だって噂は聞いてる。

もしかして、こいつを君が……?」


「俺やけど……百パー俺の力やないな。

美里がどっかで怪我しとらんかったら無理やった」


「他の参加者と戦ってたってことかい?」


「多分やけどな。最初に遭った時と比べて、

動きが明らか鈍かったし」


「もし美里が万全の状態やったら、

俺は何回か確実に死んどったやろな」


「それでも、レイシスを

一対一でやれると思ってなかった」


「さすがは須賀刀也の

最後の弟子ってところだな」


「……何でお前が

その名前まで知っとんねん?」


少女が先代ジャックの本名まで知っていたことに、

龍一が心底驚く/仰け反る。


が――


「須賀刀也がうちの親だから」


その次の言葉には、

いよいよ顎が外れるほどに大口を開いた。


「親っ!? っちゅーことは、

お前が師匠の娘さん!? うそぉ!?」


「嘘言ってどうするんだよ。

別に子供くらいいても不思議じゃない年だっただろ」


「それはそやけど……

でも、あの師匠に子供かー。うーん……」


「確かに、微妙に面影があるといえば

あるような気が……」


龍一が目を思い切り細めて、

まじまじと由香里の顔を凝視する。


「いや……面影っちゅーよりは

雰囲気かなぁ」


「ちなみに聞いておきたいんだけど、

うちの親ってどんな感じだったの?」


「どんな感じって……

お前が一番よぉ知っとるんやないの?」


「実績とかのデータならそこそこ知ってるけど、

実際に会った感想を聞きたいんだよ」


「私、施設で育ってきて、

親とは一緒に暮らしたことないからさ」


「……そゆことか」


「あー、その『触れてごめんなさい』

みたいな目は要らない」


「施設って言ってるけど、実際は、

子供の頃からガチ教育するみたいな場所だから」


「多分、普通の家庭よりは

ずっと環境的に恵まれてると思うし」


「そか。そんなら気にせんといてええな。

失礼しました」


「で、師匠の話やけど、

一言で言うと『でっかい子供』やな」


「あと、融通が利かへん。

この道って決めたらずっとそれ行くタイプや」


「……何か一緒に過ごしてたら

イライラしそうな気がするな、それ」


「いや、その辺は気にせんでええと思うよ。

すげーさっぱりした人やし」


「争いごと面倒臭がるタイプやから、

お前がイライラした時点で師匠が謝って終わりよ」


「ちゅーか、思い返すと、

師匠はいつも謝ってた気がすんな」


「……切り裂きジャックなのに?」


「切り裂きジャックやのに」


「何か……変なの」


「実際に変やから気にせんといてええよ。

人から好かれてたゆーことだけ分かればな」


「その辺りは私も保証するよ。

今でも街の人がお墓参りに行くくらいだから」


「須賀さんも、気が向いたら行ってみるといいと思うよ。

お父さんのお墓に」


「……分かった。そうしてみる」


「ま、その前にこのクソゲームを

終わらせんといかんけどな」


「ああ、そうだった。

君にお願いしようと思ってたことがあったんだ」


「俺に……?」


「ああ。ちょっと心配だったけど、

レイシスを倒せる強さがあるならきっと行ける」


難敵との対峙を要求されているのだと知り、

龍一が顔を引き締める。


その顔の真正面に陣取って、

由香里がじっと龍一を見据えた。


「黒塚幽のことを、

君の力で止めて欲しいんだ」








――渇いていた。


力を欲していた。


以前よりはずっと満ちていても、

まだまだ不足を感じる。


あのアーチェリー使いに撤退を余儀なくされる時点で、

恐らくはまだ兄の敵には届かない。


もっと力が必要だ。


『飲んじゃえよ、幽』


「兄さん……」


『三錠目、飲んじゃえって。

それを飲んだらもっと強くなるんだろ?』


少女の背後から、幻の声が囁く。


笑顔で手を引くような明るい声で、

禁断の果実へと誘ってくる。


だが――三つ目を飲むのは、

さすがの幽でも躊躇があった。


自分がどこかおかしい状態にあるのは、

少女自身が感じていた。


最も大きな部分では、

感覚の鈍化。


声も、音も、景色も、

何もかもが服用前より色褪せている。


まるで濁った水の中に

浮いているかのよう。


そして、ぼやけた情報に浸かっていると、

人間に対する感心がどんどん失われていった。


相手の顔を見てもよく分からないし、

声を聞いても意味を汲み取る気になれない。


迷宮には強い相手が多く、

手加減や会話をしている余裕がなかったこともある。


最初はどうにか話をしようと思っていたものの、

攻撃してくる相手が多く、すぐに諦めた。


デメリットの反面、鈍くなった感覚は

体の痛みも格段に減少してくれた。


そのおかげで多少の無茶は利くし、

ダイアログのような時間制限もない。


しかも、いつの間にか、

背後で兄が見守ってくれている。


敵の判別も、後ろの兄が敵だと教えてくれるため、

ほとんど困ったことはない。


それでも――


「三錠目も一応はあげるけど、

それは飲んじゃダメよ」


「飲んだらもう、戻れなくなるから。

あくまで保険として持っておくだけ」


葉のその言葉は、やはり気になった。


戻れないとは言っていたが、

一体、どういう状態になるのだろうか。


今よりも感覚が鈍くなるのだろうか。


それとも、今の状態がずっと続くだけで、

他には何も変わらないのだろうか。


『どうせ何も変わらないから安心していい。

力が手に入るだけだ』


「本当そうなの?」


『当たり前だろ。大事な妹に嘘なんて言わないよ。

それとも幽は、俺が嘘言ってると思うのか?』


「別に、嘘だとは思ってないけど……」


『だったら、俺を信じて飲んでくれよ。

幽の力で俺の仇を取ってくれ』


背後から兄が囁きかけてくる。


その声に誘われて、

懐から薬を取り出した/見つめた。


この一粒を飲みさえすれば、

これまでの苦労が全て終わる。


辛い訓練を積んできたことも、青春を捨ててきたことも、

全てたった一粒によって報われる。


自分の何年分もの価値のある薬。


そう思うと、この何でもないカプセルが、

黄金に輝いてさえ見えた。


『飲んじゃえよ、幽』


「飲めば……全部終わるの?」


『終わるよ。

幽の望んでいる通りになる』


「本当に? 絶対、本当に?」


『ああ。何しろそれは、

願いを全部叶えてくれる魔法の薬だからな』


どこかで聞いたことのあるその薬の効果を、

焔が明るい声で口にする。


『大丈夫だよ』と幽の肩を叩いてくる。


「……そっか」


飲み下すだけで、

辛いことも悲しいことも全部終わる――


それは、幽にとって、

あまりに魅力的過ぎる提案だった。


カプセルへと指を伸ばす。


深淵の名を冠する薬をつまみ上げて、

溜め息の後に、それを口元へと持っていく。


――その道中で、薬が消え失せた。


幽が驚きに目を見開く

/通り過ぎた風の行方へとその目を動かす。


そこでは、少し前に退けたような気がする少女が、

幽からもぎ取った薬を手の中で握り潰していた。


カプセルに入っていた粉末が、

少女の手から地面へとこぼれ落ちる。


それがまるで、自分の未来を地面へと

撒き散らされたように見えて、幽が絶叫した。


「何するのよ!!」


地面に落ちた薬をを舐めかねない勢いで、

盗人に向かって突撃する幽。


そこに、即座に銃弾が飛んできた。


『大丈夫だ、幽。そのまま突っ込め』


兄の声に従って、

幽が銃弾の中を突っ切る。


体を幾つもの衝撃が叩いたが、

鈍化している感覚では痛みは特に感じない。


以前のように意識が遠のくことも心配したが、

兄の言う通りそれもなかった。


ただ――


「こいつ……!」


以前よりもずっと速い相手の離脱に/動きに、

幽が追うのを断念して足を止めた。


それを見て、薬を盗んだ少女――

須賀由香里もまた立ち止まり、幽を睨み返す。


今の由香里は、全力で事に当たるべく

虎の子のダイアログをも服用済み。


強化された視力で幽の挙動をつぶさに観察し、

何かあれば即座に咎める準備をしていた。


「舐めたことしてくれるわね」


それを知らない幽が、

一歩踏み出し――


その足が着地するよりも早く

由香里の麻酔弾が幽の足を払った。


幽が腹から地面に落ちる

/すぐさま起き上がって由香里へ口汚く怒鳴る。


その最中にさらに二発被弾したが、

幽に眠くなる様子は一切ない。


「……おいおい。

どうなってるんだよ」


由香里の眉間に深い皺が刻まれる。


こうなってくると、

由香里にできることはほとんどなかった。


実弾は殺してしまう怖れがある以上、

なるべくなら撃ち込みたくはない。


追いつかれるより先に体を反転させ、

幽から逃げながら電話を取り出す。


「――私。予想以上にヤバいかも。

後は頼んだ」


「誰に電話してるのよ!」


壁にぶつかりながら逃走を続ける由香里に、

幽が溌剌と突撃。


が、不器用な相手の様子にも関わらず、

上手く捕まえられない。


確実に入るだろうというタイミングで切り付けても、

運悪く相手が転んだりで空振りが続く。


そんな由香里の調子に引きずられて、

幽の走るフォームも乱れていく。


ぐちゃぐちゃの鬼ごっこ。

入り組んだ道をピンボールのようにぶつかって走る。


直線であれば追いつける自信があるのに、

なかなかそれがやってこない。


間怠っこしいやり取りに募る苛立ち。

痛みを感じないからこそ余計に頭に来る。


どうせ何もできないなら、

手間取らせないでさっさと死ねよ――


そう思っていたところで、

待ちわびていた直線が到来。


途端、水を得た魚のように、

幽が笑みを浮かべる/加速を開始する。


由香里の側も加速をしていくが、

明らかに相手よりも自分のスペックが勝っている。


牽制射撃をするような暇は与えない。


直線が終わる前に追いついて、

後ろから背骨を断ち切って――


『待て、幽!』


突然の背後からの指示に、

幽が床を踏み鳴らして急制止した。


慣性に上半身を泳がせつつ、

誰もいない背後へと振り返る。


追いつけたはずなのに何故か止めてきた兄へと

恨めしげな目を向ける。


だが、その見えない兄は、

『前を見ろ』と冷静に促してきた。


「何なの……?」


不満を顕わに前を見る。


迷宮の薄暗い通路の奥――


その突き当たりに、頼りない明かりに浮かされて、

黒ずくめの男が立っていた。


上から下まで黒一色で統一されたライディングギア。

表情の全く窺えないフルフェイス。


外から見て分かるのは、

恵まれた体――恐らく男ということだけ。


いや、もう一つあった。


その手に下げた日本刀が、

この男の獲物だということだ。


『幽、気を付けろ。

幾ら今のお前でも、刃物は受けたら死ぬぞ』


「分かった。

ありがとう、兄さん」


あのまま突っ込んでいれば、

気付かないまま奇襲されていた可能性もある。


よしんばそれを躱せたとしても、

先の銃持ちのクソガキと連携されたら堪らない。


では、ここはいったん引くべきだろうか。


『幽、あいつらは敵だ。

ここで逃がすと後々面倒なことになるぞ』


『現に、あのクソガキが黒いやつを連れてきただろ?

次はもっと多くの仲間を連れてくるかもしれない』


「……そうね。

集団で来られたら面倒だわ」


『そういうことだ。

ここで仕留めるんだ。殺せ』


「銃と連携されたらどうしよう?」


『実弾を使ってくるまでは放置でいい。

使ってきたら逃げろ。それまでは男に集中だ』


『刀相手に突っ込んでいくのは怖いかもしれないけど、

なに、そこは俺がアドバイスしてやる』


『刀の戦いで俺に勝てるやつはいなかっただろう?

俺の言うことに従ってれば絶対に勝てるさ』


『武器の相性差はこれまでもひっくり返してきたし、

この男に対して、それができないはずがない』


背後の声に頷いて、

幽がナイフを前へと構える。


リーチ面で不利なのは明らかだったが、

そこは先のアーチェリーと同じだ。


距離を詰めてさえしまえば、

逆に小回りで有利となる。


つまり勝負は、相手の間合いに入ってから、

こちらの間合いに相手を入れるまでの一瞬。


あの男の体格なら、

速度で負けることは考えにくい。


総合では有利――


「……えっ?」


そう思っていたところで、

男が体を縮め地面へと蹲った。


いや――違う。


あれは、そういう風に見える構えだ。


左膝を地に着き、右膝を立てて、

その立てた膝へと右の二の腕を付ける独特の構え。


その態勢から前に僅かに体を傾けるだけで、

誰も反応できない刀が噴き出す超速の抜刀術。


その技を、黒塚幽は知っていた。


何故ならそれは、彼女の兄である黒塚焔が、

かつて幽の前で披露してみせたことがあったからだ。


「何で……あの男が、兄さんの技を?」


『幽、惑わされるな』


幽の疑問に答えるように、

背後から兄の声が囁きかけてくる。


『お前も知ってるだろう?

あの技は誰にでもできるものじゃないことを』


そうだった。


あの技を習いたがった幽が、

須賀のおじさんに笑ってごまかされたことがあった。


『ちゃんと修行したら教えてあげるよ』と言われて、

その日から三日間、道場に通ったことを覚えている。


結局は三日坊主で終わってしまったが

/一度しか見たことがなかったが――


巻藁が切れたことさえも気付かない技は、

今でも思い出せるほどに鮮烈だった。


そんな技を、

焔以外の人間が使えるわけがない。


ない、のに――


「どうしてなのよ……!?」


あの男には、

いつかの兄の姿が重なって見えた。


記憶と寸分たりともたがわない構えで、

幽に向かってその刀を抜き放たんとしていた。


そして、いざ向かい合ってみると、

初めてその恐ろしさが分かる。


傍で見ている時は感じなかったが、

あの構えは、怖い。


『まやかしだ』


違う。


『恰好を真似てるだけだ』


違う。

真似るだけなら、幽もやった。


『どうせ失敗する』


違う。

失敗する技は決して怖くない。


薬を飲んで鈍感になっている状態なのに、

そんな失敗する技を怖いと思うわけがない。


あの時の巻藁と同じように、

真っ二つになって転がるイメージが浮かぶわけがない。


だが、もしもあの技が本物なのだとしたら、

あれは一体誰なのか――


「まさか……兄さんなの?」


『死んだんだからそんなわけがないだろ』


即座に背後から返ってくる否定。


確かに、兄は死んだ。

自分の後ろにいる。


しかし――何度見ても、

あの男に兄の姿が重なって見える。


今はヘルメットによって隠れて見えないが、

その下に兄の顔があるのではないか。


兄の名前と同じ燃えるような瞳で、

自分のことを睨み付けてくるのではないか。


『余計なことは考えるな。

俺はここにいる』


『そうよ幽。お兄ちゃんはもう死んでるの。

お母さんたちが確かめたんだから絶対よ』


幽の背後に、いつの間にか両親まで混じって

声をかけてくる。


けれど、家族のどんな囁きよりも、

目の前の構えは鮮烈だった。説得力があった。


「兄さんなんでしょう!?」


幽が黒ずくめの男へと叫ぶ。


だが、幽の呼びかけるその男は、

黒塚焔ではない。


彼の弟弟子であり、師“切り裂きジャック”の名を

受け継ぐ今川龍一である。


焔の存在に関しては、

龍一も師匠から話しだけは聞いていた。


何故それに間違えられているのかは

分からない。


ただ、話が通じないと聞いていたのに、

話しかけてきたことに困惑していた。


果たして、それに応えるべきか否か。


「兄さん!!」


少しの逡巡――


その間に『幽を戻すこと』という目的を思い出し、

龍一は集中が乱れることを飲み込んで口を開いた。


「……俺はお前の兄貴じゃない」


くぐもった声は、

しかし、幽に対してもはっきりと届いた。


「じゃあ、偽物なのね?」


「……ああ。

偽物だって言われとるな」


『やっぱりな』


「でも、ずっと偽物のままでおるつもりはない。

いつか本物になるつもりや」


「いつかなんてない。

私がここで殺すから」


『そうだ。

殺してしまえば全部同じだ』


『幽、殺すのよ/殺すんだ』


背中の後押しに従って、幽が酷薄の笑みを浮かべる。

龍一へと血に汚れた刃を向ける。


その死刑宣告に、

龍一は『そうか』と抑揚なく呟いた。


「でも、俺はお前を殺さんで止めてみせる」


「は? どこが?

斬り殺す気満々のくせに」


「安心せぇ。

俺が今から繰り出すんは峰打ちや」


「何でそんなことするの?

殺せば止まるじゃない」


せせら笑う幽。

その背後からも同様の嘲笑。


対して、前にいる兄に似た男は、

怒るでもなく深い溜め息をついた。


「……お前は師匠や焔さんから言われんかったか?

『無闇に人を傷つけんな』って」


「――」


「俺がお前を殺さんのは、その延長や。

この刀は人を助けるもんやからな」


龍一の最後の言葉は、

幽の耳には届かなかった。


その代わり『無闇に人を傷つけるな』という声が、

ずっと頭の中で木霊していた。


兄や須賀のおじさんが、

事あるごとに口にしていたその教え。


幽ですら忘れていたのに、

この男はどうして――


「っ……!」


目を擦って、前を見る。


相変わらず兄と重なって見える

黒ずくめの男。


兄ではないと言っていたが、

本人かどうかは問題ではなかった。


これは、兄だ。


きっと、そのヘルメットの下には、

燃えるような鋭い瞳がある。


今の自分のことを

咎めるように見据えてきている。


幽の憧れたその技で――


“無闇に人を傷つけるな”


大切なことを忘れていた

幽のことを叱るために。


『何をやってるんだ幽、殺せ』


『迷うな、殺せ』『早く殺せ』


その一方で、

背後から怒鳴りつけてくる両親と兄の声。


先ほどまでは何も感じなかったそれが、

今は異様なものに感じられた。


本当にこれは、

自分の家族なのだろうか。


あの兄が『殺せ』などということを、

自分に対して言うだろうか。


いや、言うわけがない。


では、この後ろにいる連中は一体――


『あの男が本当に焔なら、

幽に殺されるはずはないだろう?』


『そうよ、お父さんの言う通りよ。

疑ってるなら確かめてみなさい』


「確かめて……」


『あーそうだな。俺なら幽には負けないし、

俺以外のやつなら幽でも殺すことができる』


『殺せれば偽物だって証明できるわね』


『よーし決まりだな幽。

あの男を殺してみせろ』


困惑しているところで背中を押される

/言われるがままにナイフを構える。


しかし、先ほどのように

迷いなく突撃することはできなかった。


龍一の構えが危険なのも理由だが、それ以上に、

相手を殺すことに躊躇があった。


『何で怖れる必要があるんだ?

相手も殺す気なんだぞ?』


いや――違う。


須賀刀也の秘伝の技は、一撃必殺ではあるが、

近づかなければ決してどちらも傷つくことがない。


『無闇に人を傷つけない』という教え

そのものと言っていい。


だから、幽を殺そうとしてくる時は、

幽が殺そうとした時だ。


『いいから行け!』


「でもっ……」


『幽はお兄ちゃんの仇を

取りたくないのっ?』


『俺の仇を取るために、

幽はプレイヤーになったんじゃないのか!?』


それは――そうだ。


『そのために全部突っ込んできたんだろ?

お前はその全部を捨てる気なのかっ?』


『今さら復讐を諦めて、

お前は別の道を進めるのか!?』


まさかだ。


今さらになって、

別の道を歩むことなんてできるわけがない。


他の子が遊んでいる間にも、

幽は死にものぐるいで努力をしてきた。


そして、ABYSSのゲームの中で、

殺し合いをしてきた。


初めての殺しで腕の震えが止まらなかった時は、

必死になってその腕を抱き締めた。


信じた人に騙され窮地に陥った時は、

心の底から絶望した。


何度も殺されかけて、泣きたくなって。

どこかに逃げ出してしまいたくなって。


でも、振り返ったら、

引き返す道はなくなっていて――


どうしようかと悩んだ末に、

何としてでもやり遂げると決めたのだ。


それは、もうとっくの昔に、

折り合いを付けた部分だ。


『今まで、何のために辛い思いをして

頑張ってきたんだ!?』


だから、そんなことは――


「――言われなくても分かってるわよ!!」


幽が咆哮する

/二刀を構えて体を前傾させる。


それから、薬によって手に入れた肉体を、

弓のように引き絞る。


肉が盛り上がり、骨が軋みを上げ、

背後の誰かが喝采を上げ――


幽が悲鳴じみた雄叫びを上げながら、

龍一に向かってその体を射出した。


床を蹴る足が雷鳴のような音を鳴らす。

凄まじい速度に塵芥が舞い上がる。


まるで黒い弾丸。


その驚異的な疾走は、

二十メートル近い彼我の距離を瞬時に消し去った。


フルフェイスのメットに幽の顔が映る。

互いの間合いまであと僅か。


接触する刹那、

大きく捻れる幽の上体。


その変化に龍一が目を見張る中、

走る速度をそのまま乗せて、幽が突きを撃ち出した。


捻りも何もない、

振りかぶって真っ直ぐに放つ単純な片手突き。


しかしそれは、彼女が人生を犠牲にして

速さをきわめた一撃だった。


これよりも速い攻撃は、

幽に存在しない。


その速度は回避にあたわず、

その威力は防御さえもままならない。


一瞬の後に、龍一の胸元へナイフが穿たれるのは、

もはや既定事項と言ってよかった。


が――かの切り裂きジャック秘伝の技は、

超速の抜刀術。


一瞬でも隙間があれば、

十分過ぎる。


僅かに傾くライディングギア。


それと同時に、幽の全身へと電気が走り、

痺れが足先から頭までを貫いた。


全身の毛穴が開いたような感覚と共に、

下腹の辺りがひやりとした。


交通事故に遭った時のように、

どばどばと溢れ出る脳内物質。


刹那の時が極限まで引き延ばされる。


体を覆っていた濁った水膜が破れ、

世界が鮮やかに輝き始める。


急速に復元されていく、

小さな頃に覚えた感動――“すごい”。


“あの技って、こっちの方向から見ると、

こうなっていたんだ”


歓喜に口元が自然と綻ぶ

/ぞくぞくする。


そうこうしている間にやってくる白刃――

当然のように向けられているのは刃ではなく峰。


こっちのはまだ全然届かないのに、

もう到達しようとしている相手の技にさらに感心。


もはや疑うところはない。

やっぱり、兄さんだった。


きっと、色々と忘れていた自分を叱るために、

私の前にやってきてくれたんだ――


涙が滲む。

けれど、溢れるまでの時間はなかった。


ああ、痛いんだろうな――と思う間に、

体が吹き飛んでいた。


景色が撹拌されて、

どこを向いているのか分からなくなる。


壁や床にぶつかって、

幾度か遅れて衝撃がやってきた。


しかし、そんなのはどうでもよかった。


ただ、兄に再び会えたことが――


そして、自分の進んでいた道の間違いを

教えてくれたことが、嬉しかった。


「ありがとう、兄さん」


天井なのか壁なのか分からない場所を見つめながら、

幽がぽつりと呟く。


その目から、

一筋の涙が幽の頬を伝って落ちた。


ずっと聞こえていた背後の声は、

すっかり聞こえなくなってしまった――






「――あ、起きてた」


「なに、ここ……?」


幽が目を覚ました場所は、

気絶した廊下とは別の場所だった。


ひとまずは部屋――

ベッドの上らしいことは理解。


拘束されているのか、

腕が上手く動かせない。


これは、一体どういう状況なのか。


「っていうか、

生きてるわよね、私?」


「生きてるよ。つーか回復速すぎ。

三十分で目覚めるとか化け物かよ」


由香里が幽のベッドへと蹴りを入れる。


「……何なのこのガキ?」


「起きて早々にそれかよ……」


「そう言ったるなよ。

黒塚さんこと一番心配しとったんやでー?」


「心配? なんで?」


「……別に心配なんかしてないから安心しろ。

死なれたら寝覚めが悪いだけだ」


「またまた、無理してー」


「だから、

無理なんてしてないっつーの」


「こんなガキなんかどうでもいいわ。

それより、えーと……今川龍一だったわよね?」


幽が龍一へと目を向ける――

それにキレた由香里がベッドをげしげしと蹴りつける。


そんなやり取りを若干引き気味で傍観しながら、

龍一が幽の問いに肯定を返す。


「じゃあ、今川くんが、

さっき兄さんの技を使ってきたの?」


「せやで。兄さんっちゅうのは、

黒塚焔さんやったな」


「やっぱり、兄さんのことを知ってるのね?

じゃあ、あなたも須賀のおじさんの道場にいたの?」


「いや、俺は師匠が

道場やめた後に教えてもらったんよ」


「焔さんのことは、師匠から話だけ聞いとる。

一番弟子だったってな」


「……そっか。

だから、兄さんと同じ技を使えたのね」


「いや、その辺はどーかな思っとるよ」


龍一の言葉の意味が分からず、

幽が眉根を寄せる。


「やー、あの技って超ムズいやん?

失敗すると速攻暴発するゆーか」


「だから、実はさっきのアレが、

俺の成功第一弾やねん」


「……はぁ? 何それ?」


「まーそれが普通の反応だよな。

私も『何じゃそりゃー!?』って思ったもん」


「しかも、やり方を教わっただけなのに、

それで行くとか言い出すしね……」


「でも、これやらんかったら、

黒塚さんを蜂の巣にする予定やったんやろ?」


「まー、それ以外で

止まる気しなかったしな」


物騒な言葉に、幽がぎょっとする

/由香里へ『冗談でしょ?』と目を向ける。


その慌てて様子を見て、

由香里はにんまりと意地悪そうな笑みを浮かべた。


「いやでも、大丈夫だったと思うぞ。

丸沢は撃っても何とかなったし」


「ちょっと、このクソガキ!

人の事なんだと思ってるわけ!?」


「さっきから黙って聞いてれば、

誰がクソガキだ! このっ、このっ!」


ベッドの上で打ち上げられた魚のように跳ねる幽

/そのベッドへと何度も蹴りを入れる由香里。


「あー……そういうケンカは後にして、

話を続けるでー」


「で、今まで成功してなかったのが成功したのは、

多分、焔さんが手伝ってくれたんやと思うんよ」


「兄さんが……?」


「ああ。黒塚さん止めるんには、

どうしてもあの技が必要やしな」


「せやから、焔さんが手ぇ貸してくれて、

俺にまぐれで成功させてくれたんやろなーって」


「ロマンチシストだな」


「ええやん、ロマンがあって。

ヒーローにはロマンがあるもんやしな」


冷やかす由香里に対し、

恥ずかしがることなく肯定してみせる龍一。


そんな二人の見ていないところで、

幽もこっそりと龍一の意見に賛成していた。


というより、聞いてみれば、

それ以上にしっくりくる話はなかったと言っていい。


何故なら、幽はあの勝負の一瞬で、

確かに兄の姿を見ていたのだから。


「ま、何にしても黒塚さん止められてよかったわ。

殺すか死ぬかの可能性高かったし」


「そういえば、あんた体は大丈夫なの?

峰打ちでも、まともに食らったんでしょ?」


「いやー、偶然やろうけど防御されとったで。

ナイフの腹挟まれて、だいぶ威力殺されとる」


「黒塚さんの体重が軽いのと走っとったので、

変に踏ん張らずに吹っ飛んどるのもでかいな」


「ほんでも、腕くらいバキバキやと思ったのに、

骨も折れとらんかったのは奇跡やと思う」


「アビスの影響なのかな。

打たれ強さが相当上がったみたいな」


言われて、

腕や手足の動きを確かめてみる幽。


痛みとぎこちなさはあるものの、

一応は動かせている感覚があった。


そして、どうやら両腕は拘束されていたわけではなく、

単純にさっきは痺れて動いていなかったらしい。


「……あれ? ナイフと携帯は?」


「一応、こっちで預からせてもらっとるで。

また暴れられたら困るしな」


「ただ、刀を防御したナイフだけは

砕けとるから堪忍な」


「えっ……そうなの?」


幽がしょんぼりと眉を下げる。


「そんなにガッカリするなよ。

代わりのは用意してあるってば」


「あれはずっと一緒に頑張って来たやつなのっ。

そう簡単に言わないでくれる?」


「ふーん、あんたでもそういうのは気にするんだ。

殺すことしか興味ないのかと思ってた」


「むっ! ちょっと今川くん、何なのこのガキ!?

さっきからムカつくんだけど!」


「だから、そのガキっつーのやめろ!

ちゃんと須賀さんって言え!」


「須賀……?」


「ったく、ようやく気付いたか?」


「何で須賀のおじさんと同じ名字なのよ!

ムカつくわね!」


「勝手に人の名字でムカついてんじゃねーよ!

っていうかまだ気付かねーのかよ! バカかよ!」


「誰がバカよ!

っていうかさっきから何蹴ってんのよ!」


「バカにバカっつって何が悪い!

っつーかお前も蹴り返してんじゃねーか!」


「あー、二人とも、

あんま暴れると首輪が……」



と、言ってる先から、

幽と由香里の首輪が両方同時に作動した。


ふいの電撃の激痛に二人が悶える

/相手への怨嗟の声を上げる。


「つーか、何でそんなに仲悪いん?」


「こいつが生意気だから!」


「こいつがバカだから!

何で私がパートナーだって気付かねーんだよ!」


「パートナー? 誰が?」


「だから私。

須賀だってさっきから名乗ってんだろ」


「またこのガキは嘘ばっかり……。

私のパートナーはSUGAエスユージーエーってやつよ」


「えっ」


「えっ」


「えっ」


三人が顔を見合わせる。


そして、しばしの沈黙を挟み――


由香里と龍一とで、

盛大に/深々と溜め息をついた。


あんまりにも悲しくて、

由香里は涙まで流していた。



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